八話、子狐と母への想い
狐の物語と言えば新美南吉を思い出します
*
皸もすっかり治った。
今日も今日とて厨へ向かおう。いつものように欠伸を噛み殺しながら、自室を出た矢先のことだった。
「母ちゃんの仇だ!」
そんな叫びが共に、何かが顔にぶつけられる。
何事かとぶつけられたものを手に取ってみれば、茶色の木の実。よく見ればその木の実には見覚えがある。この辺りでは珍しくもない、その辺りの道端にでも転がっているようなもの。
それは、少し大きめの団栗だった。
なんでこんなものをぶつけられたのかと思う前に、視界一面に何かが飛びついてくる。
「うわっ!」
「出てけよ! 出てけったら!」
顔に取り付かれて、ふわふわした毛玉のような感触。そして若干の獣臭さ。間違いない、これは生き物だ。顔に取り付かれているせいで何の生き物かまでは判然としないが、丁度犬ぐらいの大きさだろうか。
「こらっ、太一! 何やってるんですか! 離れなさいって、こら!」
騒ぎを聞きつけたのか、ずんべら坊が慌てて毛玉を引っペがしてくれた。顔を上げて見てみれば、尖った三角の耳、金色に近い毛並み、手足の先だけ焦げ茶色。見覚えのある生き物だった。思わずあっと叫びそうになるのをどうにか堪える。
引っ付いてきた毛玉の正体は、なんと狐だったのだ。
まだ子供なのか小さめの体をばたつかせて、必死にずんべら坊の手から逃れると子狐は景頼をキッと睨みつけた。
「人間なんか大嫌いだ! 大嫌いだっ!」
「あ、こら太一!」
そう捨て台詞を残すと、太一と呼ばれた子狐は風のように走り去っていってしまう。
「すいませんね、景頼殿……いきなりのことで驚いたでしょ? 大丈夫でしたか?」
「あ、ああ……私は大丈夫だが、今のは?」
「彼は化け狐の太一と言いまして……その、先月母親が猟師にやられてしまったらしくて、ですね……」
そう説明され、瞬時に納得へと至った。
母を人間に殺されて人間を憎むようになった、というわけらしい。
「その、生意気ですが悪い子ではないんですよ。落ち着くまではと思っていたんですが……こんなことになって本当に申し訳ない」
「お前が謝る必要はない。私が人間である以上、仕方のないことだった。だからどうか謝らないでくれよ」
「ですが……」
「私こそ君たちがあまりにもよくしてくれるものだから、すっかり忘れていたよ。本来なら彼の態度の方が正しい。ここでは私の方が異端の存在だというのにね」
「景頼殿……」
「そんな湿っぽい声を出さないでくれよ。彼の気持ちはわかるんだ」
景頼も幼い頃に、母を病で亡くしている。
母が亡くなったのは景頼が元服する前の頃。幼い景頼は母の死にはじめて人の一生の儚さを噛み締めたものだった。
だから母を亡くした子狐の気持ちが分からないわけではない。
どんな子にとっても母とは特別な存在で、かけがえのない存在だということを景頼は痛いほど知っていた。
だからそんな彼を怒れるわけがない。
「お節介だとは思うんですけどね……でも、いつまでも悲しんでいたって仕方がないと思うのですよ」
彼の言い分はもっともだ。
いくら嘆き悲しんだところで死んだ者が生き返ることはない。
それは世の理で、今も昔も変わらない絶対不変の真実だ。
そして死者に囚われたままでは、生きていく上では危うい不安がつきまとうもの。
ずんべら坊をそれを心配しているようだ。
「このまま放っておけば、人を襲うかもしれません。そして人を襲えば、今度はあの子が逆に人に殺されてしまうかもしれない。母狐のためにも、あの子をこのままにしておくのはまずいとは思うのですがねぇ……」
「……星熊童子は何と?」
「童子殿は、こればかりは本人の気持ち次第だから自然に任せるしかないと」
その判断は間違ってはいない。
外野がどう言い聞かせようと、要は本人の気持ちの整理次第だ。
その死を受け入れるか、受け入れないか。それは本人次第でしかないのだから。
だがこのままでいいわけがない。
少なくとも景頼としては、これからも妖たちとは良好な関係を築いていきたい。この屋敷に居る以上、人に憎悪を抱くような妖に命を狙われてしまえばこちらの身が危うい。こちらには彼らに太刀打ちできるような力はないのだ。妖としての全力で襲われてしまったら、きっと容易く殺されてしまうだろう。
それはまずい。こちらとしてもまだ死にたくはない。
どうにかしなくてはならない。
ならば行動するしかないだろう。
「ふむ、一つ提案があるのだが乗ってくれるかい」
「どうするおつもりですか?」
「なに、少々荒療治だがね。やってみる価値はあると思うよ」
そう言うと、にやりと人の悪い笑みを浮かべてみせたのだった。
*
ずんべら坊の立ち会いの下、再び太一は景頼の前に姿を現した。
太一はまたもや飛びかかってくるが、景頼は身を翻すことでひらりと避けてみせる。
「腰抜けめ! 今度こそ殺してやる!」
「こら、太一! 星熊童子殿にも言われているでしょう。この方は……」
「うるさい! のっぺら坊! どっか行け!」
「ああもう……私の言うことなんか聞きゃしないんですから……!」
聞く耳持たずといった子狐の様子に、ずんべら坊は頭を抱えて嘆いた。
敵意を剥き出しにする狐に、景頼は前に出て対峙する。
「子狐よ。まずは私の言うことを―――」
「訳の分からないことを言うな! 殺すぞっ、人間!」
話し合いの試みは空しく、怒号と共に怒気をぶつけられる。
威嚇の姿勢のままに子狐は牙を剥き出しにして景頼を睨みつける。
体も精神も幼いというのに流石は妖狐といったところだろうか。異様な気迫があるのだ。しかも何やら良くない黒い靄のようなものが、彼を中心にして急速に集まってきているように見えた。
本能があれはまずいと囁いている。
あの靄の塊をまともに喰らえばきっと無事では済まないだろう。
何となくではあったが景頼にもそれだけは間違いないことが分かる。
「景頼殿っ! あれはまずい、まずいですよ! に、逃げてくださぁぁぁい!」
少し離れたところで、ずんべら坊が何やら叫んでいる。
それでも景頼はその場を離れなかった。
否。離れてやらない。決して離れてなどやるものか。
「……母を失うのは悲しいよ。私も悲しかった」
「黙れ、黙れっ、黙れよっ! 黙れったら……!!」
一歩、狐の方へと近寄る。狐の方は一歩、後ずさった。
まるで聞き分けのない子供のように。
否。まるで景頼を傷付けることを恐れるように。
景頼は近付きながら、両手を大きく広げた。
怖くないという代わりに。狐の方にこれ見よがしに胸を張ってみせた。
お前が貫きたいであろう的はここだと、そう言わんばかりに―――。
「……だがな……泣いたところで母上は帰ってこなかったんだ……当然だ。だって母上は死んだのだから。どうやっても、もう遅いんだ……。遅かったんだよ」
「こっちに来るな……っ! おれは本気だぞ! 殺すぞ!」
景頼は一歩ずつ狐に近づく。対して狐はその分後ずさる。
それでも紡ぐ言葉を決して止めてやりはしなかった。
「寂しかったよ。寂しかった。十年以上経った今でも、寂しいよ。ずっと寂しいままだ」
「……おまえに、おまえなんかに分かるもんか! 一緒にするな!」
とうとう狐の声が涙混じりになる。
それでも景頼は言葉を紡ぐのをやめない。
「どれだけ泣いても、お前の母は帰ってこないんだ」
それは当然の事実で。
「そして同じように―――どれだけ人を恨んでも、帰ってこないんだよ」
おそらく子狐自身もどこかで気付いているはずの真実で。
狐は、やがて後ずさるのを止めた。
そして地面に座り込み、とうとうその場で泣き出してしまう。
そんな小さく哀れな獣の子の姿に、景頼は幼い頃の自分を重ねてしまう。
―――冷たくなった母の前で、立ち尽くしたあの日のことが。
―――今でも忘れることはできないでいる自分は、今確かにここにいる。
まるであの日に己に言い聞かせるように子狐へと語りかけた。
「それでも……世間は亡くなった人を置き去りにしていくんだ……時は流れる、明日はどうしてもやって来る……亡くなったものはいずれ、時の中に忘れられてしまうんだ……」
それを無情だというのは容易い。
だが月日は目まぐるしく変わっていくのが世の常であり理だ。
大人になるとはそういうことで、いつまでも幼子のままではいさせてくれないのも世の常なのだ。
「―――だがお前はこれからも、その中を生きていくんだ。いや、生きていかなければならないんだ」
座り込む子狐に対して、景頼はしゃがみこみ目線を合わせる。
金色に近い毛に覆われたその顔は涙でぐしゃぐしゃでひどい顔だ。
獣だってこのように泣くのだなと、場違いにも思いながら景頼は続ける。
「だってお前の母君は間違いなく、お前に命を託してお前を産んだのだから。その生命の繋ぎを、お前は母君に任されたのだから」
だからお前は生きなければならない、そう告げた。
そう言う景頼だって母親の喪に服している間は辛かった。かつては泣いてばかりいた。その時はあの父でさえ、共に寄り添って悲しんでくれていたほどだった。
でもいつしか気付いたのだ。
泣いて過ごしていては、きっと母も浮かばれないと。
それどころか心配してこの世にとどまり、極楽に行けなくなってしまうのではないだろうかと。
だから笑顔で送り出せば、そんな心配は無用だ。
「だから明日からは笑え。母君の思いに応えるためにも前を向いて笑うんだ。いつまでもめそめそしていたら、母君も心配して往生できないぞ? ほら、こうやって笑って見せろ」
泣き顔の狐の前で、景頼は己の頬をにぃっと吊り上げて笑みの形をつくってみせる。子狐もそれを真似て、泣き腫らした目のままで無理矢理笑ってみせた。
今はそれでいいと言い聞かせた。
「そうして笑っていれば、泣いて過ごすよりもきっと素敵な日々を過ごせるはずだから―――だから今日は思う存分泣け……私が全部受け止めてやるから……だから……」
人の一生は長いようで短い。狐とてきっとそれは変わらない。
だからこそ笑顔で過ごすことは大事なことなのだ。
だって景頼はずっとそう信じて今日まで生きてきたのだから。
「そうだ、うまいじゃないか。そうしていれば、お前の母君も安心する。それでいい、それでいいんだよ……」
「うっ……ううっ……、母ちゃん……母ちゃんっ……! う、うわぁぁぁんっ……!」
狐のその小さな体を抱きしめてやりながら。
景頼は母を思って泣き喚く子の体を優しく撫で続けてやった。
やがて泣き疲れた子狐が、いつの間にか眠ってしまうまで。
それまで彼らの成り行きを見守っていたずんべら坊が何度言っても、景頼はいつまでもその場を離れずに子狐の背を優しく撫で続けていたのだった。
続きはまた一日おき後に投下予定