七話、絡新婦の恋は糸のように絡まりやすくて
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寝殿造りとなっている妖屋敷だが、景頼が普段寝起きしている部屋は『東の対』の一室にあたる。
しかし絡新婦の綾の部屋があるのは『北の対』。
これは中央に位置する『寝殿』の背後に作った別棟の建物で、通常ならばそこは正妻となる女性が住む場所だ。そこから正妻のことを「北の方」と呼ぶようになったと言われる重要な建物だ。
……そのはずなのだが、この妖屋敷ではそのような人の常識は関係ないらしい。妖屋敷における『北の対』とは、主に女性の妖が住む棟と化しているとのことだった。
「この時間ならお綾殿も自室にいるはずですから」
ずんべら坊に案内されながら、長い廊下を渡る。
前を歩く顔無し男の背を眺める景頼の心中は落ち着かないままだった。
「蜘蛛、蜘蛛かぁ……」
男ながら情けないと自分でも思うのだがこればかりは仕方がない。
世の中には生理的に受け付けない生き物というものが誰にだってあるはずだ。それが景頼にとってはたまたま蜘蛛だっただけの話だ。
それでもやはり怖いものは怖いわけで。
「にしても景頼殿にも苦手なものがあったとは、少し意外ですね」
額に角を生やした鬼を見ても、顔のないのっぺりした顔無し男を見ても、部屋に響く不気味な物音にも大きく驚かなかった男だ。
ずんべら坊は本当に意外そうに独りごちる。
景頼は心外だと言わんばかりに顔をしかめた。
「私だって只の人間だよ。嫌いなものや苦手なものだってあるさ」
「ああ、気を悪くしないでくださいよ。いやぁ、あまりにも貴方は肝が据わっているというか落ち着いていらっしゃるから、つい」
「それは……うん、よく言われるよ」
言いかけて口を噤む景頼。何故なら目的地にたどり着いたからだ。
ぴたりとずんべら坊の足がその部屋の前で止まる。
ここなのかと目だけで問えば、無言の首肯。
彼はこほんと咳払いしたかと思えば、室内に向けて呼びかけた。
「お綾殿、今よろしいでしょうか?」
「あら、あなたがあたしのとこに来るなんて珍しいわね。どうしたの?」
室内が見えぬように、目隠しとして垂らされている御簾の向こう側から、気品を感じる大人の女性の凛とした声が返ってきた。
おや、と景頼は目を丸くする。
「―――あら、いい男。初めまして色男さん」
御簾の向こう側から姿を現したのは、息を呑むほどの美しい女だったからだ。だが星熊童子が美少女の姿をしているのなら、こちらは妙齢の美女といったところだ。
柔らかい薄茶色のふわふわとした長い髪を頭の上で結い上げた姿は、まるで古来の大陸より伝わった神話に登場する天女のよう。
長い睫毛、すっと通った鼻筋や薄い唇。今風の唐衣を着こなしながら、服の上からでもわかるほどの体つきの良さ。出ているところは出て、くびれているところはくびれている。
その有様はまさしく伝説上の美女がそのまま出てきたかのような見目麗しさだ。
平安美人の条件は、長く美しい黒髪にぽっちゃりしていることだ。
だが彼女の容姿はその条件に反しているに関わらず、景頼が美しいと感じるには十分なもので。
「……失礼、私の名は藤原景頼。新しくこの屋敷で厄介になっている者です。以後お見知りおきを」
「あら、これはご丁寧にどうも。あたしのことは『綾さん』でも『お綾さん』でもお好きに呼んで頂戴。勿論、『綾』と呼び捨てでも一向に構わなくってよ」
「では、綾さんとお呼びしよう」
「あら、いいじゃない。気に入ったわ」
上品に笑う妙齢の美女。
本当に彼女の正体が蜘蛛なのか。信じがたい。
「話には聞いていたけど……あなたやっぱり良い男ね。それに教養もあるんでしょう? 今までさぞ、京で数々の浮名を流してきたのではなくて?」
「そうでもないですよ。なかなか理想の女性に巡り合うことができないまま、京を追われてしまいましてね」
「あら、まぁ」
まさかこの妖屋敷に来て、運命と思える理想の相手と出会えるとは思ってもみなかったのだが。
それはさておき景頼は笑顔のままで綾に話題を振る。
「そういう綾さんの理想の男性はどのような方で?」
「理想の男性はそうね……あたしの糸が絡まっても乱暴に引きちぎろうとせず優しく解いてくれるような……優しくて包容力のある賢い人かしら」
糸。糸という単語に、ふと目の前の美女の正体が蜘蛛だということを思い出す。
そういえばこの人、絡新婦だったっけ。
「そう言いますけどお綾殿、いつも好みの男性に強引に迫るけど上手くいかないじゃないですか。それにいくら包容力あるからといって、蜘蛛の姿を受け入れられるのかはまた別の話でしょうに……」
「ふっ……結局皆、そうなるのよ……! あたしが蜘蛛だと知るや、皆あたしにくれた愛の言葉を『やっぱなし!』でなかったことにするんだから……! いいじゃないのよ、愛があれば種族の差なんて関係ないじゃないのさ!」
「お綾殿、興奮するあまり蜘蛛の脚が」
あまりの力説ぶりに着物の裾から蜘蛛の脚が見え隠れする。
ずんべら坊が冷静に指摘するが、彼女の耳には届いていない。
しかし、景頼はどれどころではなかった。
「うむ、その通りだ! 愛があれば種族の差なんて関係ない!」
「あれっ!? 景頼殿まで!?」
肩を小刻みに震わせたかと思うと、勢いよく綾の両手を取る。
景頼とて身分違いどころか種族違いの恋に思い悩んでいる最中なのだ。同じような恋に身を焦がしている者同士、惹かれあうものを感じずにはいられなかった。
「あらあなた、わかってくれるの……!」
「わかるとも、私も現在進行形で道ならぬ恋をしている身……わからぬはずがないさ……!」
「まぁ……!」
「あのー……盛り上がっているところ悪いんですが、皸に効く軟膏を頂きたいなぁと……」
そうだった。今日の本題は、種族違いの禁断の恋についてではないことをようやく思い出す。
そういうことならと、綾も部屋の奥へと消えていく。やがてすぐに小さな壺を持って現れた。
「薬作りはあたしの趣味みたいなものでね」
そう言うなり、持ってきた壺の中身を指で掬う。壺の中身は薄緑色の粘ついた液体だった。
「皸ならこの軟膏を塗れば一晩でたちまち治るはずよ。こうやってうすーくうすーく伸ばして塗っていけば、っと」
綾はその軟膏を少量指にとったかと思うと、景頼の両手にゆっくりと伸ばしながら塗っていく。そうされると両手がじんわりと熱を帯びていくのがわかる。
「仕上げに細い糸を束ねて、重ねて、くるくるっと巻けば、ほら完成」
どこからか取り出した糸をするすると景頼の両手に巻いていく。
絹のような滑らかな肌触りの糸が、優しく肌を覆う。
心なしか、もうすでに痛みが引いている。凄まじい効き目だと舌を巻くほどだった。
「明日の朝頃にでも糸を解けば、すっかり傷口が塞がっているはずよ」
あっという間に治療が終わり、景頼はすっかり感心してしまった。
その的確で俊敏な手際は、京の薬師たちよりもあまりにも優れていたからだ。
「おお、これは有難い。こうしている内も随分楽だ。ありがとう、綾さん」
両手を開いたり閉じたりしても糸はしっかりと結ばれており、解ける気配は全くない。
「その軟膏は持っていっていいよ。もしも無くなったらすぐおいで。替えはいくらでもあるから」
「何から何までありがとう、綾さん」
「急に訪ねてすみませんでしたお綾殿」
「あら、気にしないでよ。むしろそっちから来てくれて嬉しかったわ。ほら、あたし明るいの苦手だから」
天女のような神々しい外見に反して、彼女はどこまでも好意的にっ接してくれる。その親しみ溢れる様子を見て、景頼は彼女の正体が蜘蛛だと知って恐れを抱いた自分が急に恥ずかしくなった。先入観にとらわれ、物事の本質を見ようとしなかった器の狭さが申し訳なかった。
そんな景頼に、綾は微笑みを浮かべてこう言ってくれたのだ。
「また恋について語り合いましょ。景さん」
そう言って、茶目っ気たっぷりに手を振ってくれたのだった。
景頼が彼女の姿が見えなくなるまで手を振り返したのは言うまでもない。
本当かどうか知りませんが、世の中はおおまかに分けると蛇が嫌いな人と蜘蛛が嫌いな人の二種類に別れるらしいですね