六話、馬鹿につける薬はない
庖丁人と呼ばれる人々がいる。
彼らは朝廷で出される料理を作ることを生業としている。細々とした雁字搦めのような堅苦しい作法に従い、宮廷で催される華やかな食事を提供するため齷齪と働く彼らは本来ならば称賛されるべき存在だ。
うだるような暑さのせいでせっかくの食材が傷みやすくなる夏場だろうと、氷が張るほど冷たい冬場の時期だろうと彼らに休みはない。
なぜならば宮廷では年中行事が盛り沢山だ。それに合わせてご馳走を用意しなければならないのは当然の成り行きで、それは貴族の華やかな生活において欠かすことのできないものだ。
だが、華やかで色とりどりの食材を使う美しい料理の裏側にあるのは、汗水が滴るような泥臭い力仕事と水仕事とは無縁ではいられない過酷な労働環境。
食材と格闘しながら、貴族からの面倒な注文を聞き、宮廷料理の作法に従い、料理を完成させる。それがどれほど大変なことか。
自分で身の回りのことや炊事洗濯を手伝うようになってから、それがどれほどの重労働だったのか今更ながら思い知らされる毎日だ。
京にいた頃はそんな彼らのことなど深く考えたことはなかったのだが、景頼は今更ながら庖丁人という仕事の辛さと大変さを思い知るはめになった。
「いてて……」
連日における炊事や力仕事などによって、景頼の両手は見るも痛々しい悲惨なものとなっていた。手の平には赤く走る痛々しい皸。指の節々はぱっくりと割れていたり、ガサガサになっていたりしている。
ただでさえ、景頼は貴族の家に長男として生まれた根っからの貴族育ちの青年だった。生まれてからこの方、景頼の周囲には常に側仕えや使用人がいる環境だったのだ。
故に毎日の労働の全てが彼にとっては慣れない重労働ばかりであった。最初は物珍しさと新鮮なのとが混ざり、全く苦にも感じなかったのだが、今頃になって無理が生じてきたらしい。
「ありゃりゃ、これはひどいですね……痛いでしょ……?」
「うむ……しばらくは、物が握れそうにないな……痛っ……!」
景頼のズタズタになった両の手を見たずんべら坊は、おそらく眉間と思われる顔の部分に皺をよせ、うーんと唸った。
「皸に効く薬なんてあったかなぁ……ただでさえ薬は高価ですからね……」
「私を助けてくれた時に使った薬はもう無いのか? 確か、あー、河童の妙薬、だったか?」
「それが……残念ながらもう無いんですよ。まぁ、例えあったとしても使わない方が無難かと」
「ん? どうしてだ?」
半分死にかけていた景頼を回復させたという妙薬に効き目は間違いないはずだ。なのにどうしてだめなのか。
「河童の妙薬は効きすぎるんですよ。この程度の傷だと、もしかしたら傷どころか下手したら指同士がくっついちゃうかもしれません。なので別の薬を使ったほうが無難かと」
「なるほど、二度と筆が持てなくなるのは困るな……」
もしも両手の指が全てくっついた姿を想像して身震いした。
それではまるで魚のひれのようではないか。
「ですが、まぁ……こんな風になるまで、よく泣き言を言いませんでしたね。てっきり『こんな仕事出来るか!』」といつ投げ出すかと思っていましたが……」
「ふっ……わかってないな、お前というやつは」
「何がです?」
ずんべら坊はきょとんと首を傾げる一方で、景頼はふふんとしたり顔だ。
「振り向いて欲しい女子の前で泣き言など言ってられるものか。良いところを見せたくて無茶をするのは、想い人がいる者だけの特権さ。愚かだと言われようが、張り切ってしまうのは仕方のないことなのだよ」
「えっ! 景頼殿、好きな人がいるんですかっ! 誰ですか誰ですか? え、私の知っている人ですか?」
「え、お前ちょっと鈍すぎでは……?」
「えー、誰かな誰かなぁ……わくわく」
「いや、いきなりそんな乙女のような反応されても困るのだが……」
景頼としても別に隠していたつもりはなかったのだが、ここまで過剰に反応されるとそれはそれで困る。しかも心なしか相手はキラキラした雰囲気でこちらを見つめている気がする。いや、顔がないから本当に目を向けているのかは判断がつかないのだが。
こほんと咳払いして話題を変えることにした。
「思ったのだが、畑仕事や洗濯仕事やその他の仕事になると大体お前と一緒になってやっていることが多いよな」
「ええ、そうですね」
「どうして厨の仕事は一切やらないんだ? 別に火が苦手というわけでもないんだろう?」
「……だって」
「だって?」
「……童子殿が怖いんですもの」
景頼が言葉もなく呆れていると、ずんべら坊は泣き叫ぶようにだってだってと繰り返す。
「景頼殿はここへ来て間もないから御存知ないでしょうけどっ、童子殿は食に関してはすっっっっっごく、こだわりがあるんですよっ! 妥協一切なしだし、下手に手伝うと後が怖いんですもの! それどころか私含めた他の妖は厨立ち入り禁止になってるんですよ! 許可なく入ろうものなら容赦なしですよ! つまみ食いなんて以ての外!」
ずんべら坊に両肩を掴まれ、がくがくと揺さぶられながら泣きつかれる。その泣き言の中に聞き捨てならぬものがあった。
がしっとずんべら坊の顔を鷲掴みにすれば、ようやく景頼を揺さぶっていた振動が止まる。
「……つまり、私だけが例外ということか」
「ふぎゃっ? にやにやした顔なんかして、どうしたのですか景頼殿。何か楽しいことでもありましたか?」
「ある意味、お前のおかげかな。礼を言うよ。教えてくれてありがとう」
「はぁ、どう致しまして……?」
どうして彼女以外が立ち入り禁止の筈の聖域に景頼が許されたのかはその真意は不明だ。だが、彼女にとって自分は他とは違うのだということがただただ嬉しい。
悲しいかな、男とは何処までも単純な生き物なのである。
そうとわかっただけで、皸の痛みなど吹き飛んでしまうほどに。
「……だとしたら、こんな皸如きで泣き言など言ってられるか。河童の妙薬がないなら他に薬はないのか?」
「ええっと、私は生憎持っていないのですが……あの人なら、よく効く薬を持っているかもしれません」
あの人と言われ、誰のことだろうと景頼が疑問に思っているとずんべら坊がああと付け加えた。
「―――絡新婦のお綾殿のことですよ」
聞き馴染みのない言葉だった。
とはいえこの屋敷の住人であるのならば間違いなく何かしらの化生であるはずだ。
「それはどういう妖怪なんだ?」
「有り体に言えば、蜘蛛の妖怪ですね」
蜘蛛と言えば、糸を用いて網を張り、羽虫を捕らえ食すという天性の捕食者であり狩人だ。しかも細長い八本の脚を持ち、不気味な複眼をぎょろぎょろとさせるあの気味の悪い蟲のことで。
要はつまり、景頼の苦手な生き物の一匹で。
後に、この屋敷に来て以来初めて見る顔でしたと、ずんべら坊から言われるほどの苦い表情を景頼は浮かべていたらしい。
だが、背に腹は変えられない。
せっかく意中の人と二人っきりになれる好機を少しでも不意にしたくない。そのためには皸対策はしておくべきだろう。
景頼にとっては初めての恋なのだ。こんなにも心を揺さぶられるような恋は、生まれて初めての経験なのだ。
―――だからこそ、この恋を叶えたい。いや、絶対に叶えてみせる。
そう改めて決意し、景頼はずんべら坊に向き直る。
「是非その人を紹介してくれないだろうか」
それは聞きようによっては誤解しそうな言い回しではあったが。