三話、大きな屋敷で奇妙な共同生活を
追記:官位や位階についての説明と建物の説明の間違いや脱字など修正しました。
「よいしょっと……あー、昔暗記した詩経の一文を思い出すよ…」
「ほうほう……こいしょっと……。ここで漢詩がさらりと出てくるのに舌を巻くしかないですね。ちなみにどういう一文ですか」
重い荷車を男二人で引きながら山道を登る最中。二人並んで荷車の持ち手を引いている。
思わず溢れた独りごとに隣にいたずんべら坊は興味を示した。景頼はそうだなぁとそんな彼に教えてやることにする。
―――出会いの日から数日、色々と話すうちに仲良くなり今では砕けた口調で彼と会話することがすでに当たり前となっていた。
「『人々は荼をとても苦いものだと言っているが、荼の苦味などは人生全体の苦味と比べれば、薺のように甘いものである』とな」
首をかしげるばかりのずんべら坊を見かねて、景頼はうーむと唸ってわかりやすく言葉を噛み砕いてやる。
「要は、いくら苦いと言われる葉だろうと人生における苦渋に比べれば甘いものさ、ということかな。つまり、だ。人生とは其れ程甘いものじゃないということさ」
生きているだけで儲け物という考え方もある。というかむしろついこないだまで、景頼もそういうような考え方の持ち主だった。
しかし、悲しいことに現実はただ生きているだけでは成り立たない。生きるためには衣食住が必須で、それを手に入れるためには日銭がいる。そして日銭は働かなければ手に入らないものだ。
なるほど此の世はままならぬ。皆極楽へと行きたがるのも無理はない。そう苦笑する。
ずんべら坊と二人並びながら、足に力を込めて坂を登っている己が今だに信じられない。
「まさか、荷車を引かされるとは思っていなかったなぁ…」
曲がりなりにも貴族出身である景頼は生まれてこの方、このような力仕事をさせられたのは初めてのことだった。おかげで足腰はもうすでに悲鳴を上げている。
「というか、私としては貴族様って漢詩などの教養も兼ね備えているものなのかと驚きですよ」
「元服する前から全て叩き込まれたからね。子供らしい遊びもあまり経験しないまま成人したようなものだよ」
「ただ家を継げば良いというわけではないのですな。いやはや学者でもないのによくすらすらと出てくるものだなぁと感心しますよ」
「ああ、まあ漢文は宮廷において一般教養だからね」
この時代において宮廷に仕える男子ならば漢文や漢詩、和歌、習字に果ては音楽などが必須科目となる。
今は田舎の農夫と同じように荷車を引いている景頼でさえ、それらのことは一通り修めている。
そして、景頼はそれが当たり前とされている貴族の中でも優秀といわれてきたものの一人である。
今はその技能が役立つようなことが一つとしてないだけだが。
「男性は日記や公の記録も漢文で書かなければならないんだ。平仮名なんて女の使うものだと疎まれてさえいる」
「ふうむ、私にはよく分かりませんな。読めれば何でも良いのではと思いますがね」
ずんべら坊の言い分ももっともだ。景頼としても全く同感である。
一部の学あるものしか読ませようとしないくせに、公も何もあったものではない。ただの貴族階級の自己満足でしかないとさえ思う。
だが、ここは人間代表として一応彼らの言い分も言っておく。
「うんうん、私もそう思うんだけどね。人間というのは他者に崇高だと思わせるためにはどこまでも形式に拘りたくなる生き物なのさ」
「ふうん、そういうものですかね」
「そういうものなのだよっと、ふう」
ようやく屋敷に着き、一息着く。
ここまで引いてきた荷車には行く前にはこれでもかとばかりに水や食料の他に衣類といった生活に必要な物資が積まれていた。
今しがた近くの村々を訪ね周り、この屋敷の畑や近くの川で採れた魚を干したものと交換してきたものたちだ。それとわずかばかりの金銭も。
商いというには、ずんべら坊のそれは貨幣でのやりとりよりも物々交換が主流だ。
それが都育ちの景頼にとっては物珍しいものだった。
「京と違い、物がそれほど流通していない村や集落が多いですから」
そう言われ、京とそれ以外の土地との違いを初めて目の当たりにし、気づくことができた。京で生まれ、京で育ってきた景頼にとっては色々と新鮮なことばかりだった。
「ご苦労様。初仕事の感触はどうやった?」
「色々と初めての体験だったよ。実に新鮮だ」
出迎えてくれる星熊童子にそう返す。
景頼よりも頭二つ分低い、この鬼は上品に微笑む
。
額にある二本の角さえなければどこぞの美しい姫君かとさえ思うほど。さらにはそのあどけなさには不似合いな奇妙な色気さえ感じられる。
景頼とて年相応に浮名を流してきた身ではあるが、ここまで心惹かれるのは彼女が魔性のものであるが故なのか。
そう景頼が思っていることを知らずか知ってか、景頼の手から積み荷を受け取ると屋敷の奥へと運んでいく彼女。
その両手には、男二人が荷車で運んできた積荷全てを小山のように抱えてだ。
その様子を見ればやはりいくら可憐であっても、彼女は鬼なのだということをまざまざと思い知らされる。
「相手がただの娘ならば風流な歌を贈るなり、通うなりするものだがなぁ……」
果たして鬼に和歌なぞ贈ったところで想いが通じるものなのか。
かといって下手に手を出そうものならば、鬼の腕力で返り討ちにあいそうだ。
「さてさて景頼殿! 私は荷車を置いてきますので」
ひと仕事を終えた達成感からか、ずんべら坊ははきはきと言い、荷車を引いて屋敷の裏へと行こうとする。
「おいおい、少しは私の悩みを聞いてくれる気配を見せてもいいんじゃないかい」
「悩み? 景頼殿は悩みがあるので? でも大丈夫ですよ! 悩みなんて飯を食べて寝て過ごせば、いつかは解決しますよ! これは全ての悩みの万能薬と言っても過言ではないかと!」
「うん、お前は悩みが無さそうで羨ましいよ」
「ははっ、照れるなぁ。そんなに褒めても何も出ませんよ!」
「ははは、褒めてないよ」
「あれぇ?」
やはり妖に繊細な人心を分かれというのも無理な話か。
そう結論付け、景頼はずんべら坊を置き去りにして屋敷の中に入ったのだった。
*
鬼と顔無し男との奇妙な共同生活を始めて数日が経つ。
妖たちが住む屋敷は寝殿造りとなっていて、とてつもなく広い。
そもそも寝殿造りは高級住宅であって、京に住む貴族たちの中でも太政大臣や左大臣などの三位以上の位にある限られたものたちしか建てられないほどの豪勢な建物だ。
かつて景頼の就いていた大納言という役職が正三位の位階にあり、従三位はその下の位階にある。簡単に言えば従三位は中納言と同等の立場にあたる。
平安の京で働く官人たちは律令制度によって序列が細かく決められていて、正一位から無位までの三十段階の位階が分けられているのである。
この位階は官人の序列を表す等級のことで、ある官職につくにはそれに相応した位階が必要とされている。大納言の役職に就くためには正三位の位階が必要なように、貴族といえど誰でも就けるのではないのだ。
つまり大納言以上の役職につかなければ寝殿造りを建てるなど到底無理な話である。
それどころか大納言であった景頼でさえ、建てることはできなかったのだか。
わかりやすく言えば、京都にいる貴族の中でもこの寝殿造りの住まいに住めるものはほんのひと握りしかいない。
それこそ貴族の中でも最も高位の人々である上達部や公卿と呼ばれるものたちでなければ難しい。
ちなみに景頼が大納言の役職に就いていた時は独り身だったこともあり、そんな豪勢な屋敷を建てようとは思いもしなかったことだ。
そしてこの寝殿造りの最大の特徴は、くどいようだがその広さである。
建物の敷地内は大体一町(約120メートル四方)が普通だ。敷地内には主人が住む家屋である『寝殿』があり、北には『北の対』と呼ばれる家屋があり、東にも『東の対』という家屋がある。それだけではなく、寝殿の南側には庭があり、ちょっとした小川のような遣水と山を模した築山までもがある。さらには船が浮かぶほどの広い池があり、それを臨んで建てられた建物である『釣殿』がある。
また屋敷の周囲を土や泥で固めた築地塀が四方を囲んでいるのだ。塀を含めば、ちょっとした村とそう変わらない広さではなかろうか。
そんな土地の広さを活用して、屋敷にいながら魚釣りを楽しみ、大勢での宴を楽しめることの贅沢さと言ったら! 上達部や公卿に勝るとも劣らない羽振りの良さだ。
いくらここが人里のない山奥とはいえ、こんな豪勢な屋敷があれば人目につきそうなものだがそのような心配は全くないという。
「この辺り一帯と建物自体に人払いの呪いがかけられとるからね」
なんでも呪いがかけられているところを無意識的に避けるようになる術らしく、その効果は永久的に持続するとのこと。
故にそうそう見つかることはないと太鼓判を押され、景頼は内心でほっと一息着いた。まだ景頼が生きているということが京にいる父や弟たちや道長の耳に入れば、追っ手が送られてきてもおかしくはないからだ。
彼らにとっては表向きとして景頼が死んだままの方が色々と都合がいいのは目に見えている。
ならばこちらだって、彼らの目に見えないところで伸び伸びと残りの人生を謳歌させてもらうだけのこと。
そう割り切ればいい。それだけのことだ。
「とはいうても呪いも万能やない。この屋敷の住人が客人として迎えれば、その客人は屋敷が見えるようになってしまう。やからあんたの場合はずんべら坊が連れてきたから、あんたにはもう呪いは効かんようになっとる」
「ふむ、仮に私が誰かをこの屋敷に連れてくればその誰かも客人とみなされ呪いが無効になるというわけか」
「飲みこみが早くて助かるわぁ。そういうわけやから外から帰ってきたとき、変なもん連れてこんようにな。……ま、きっと無事では帰さへんけどな?」
鬼の含み笑いに背筋がぞくりと震えた。
その末路がどのようなものなのかと聞く度胸は出てこない。
代わりにここ数日を過ごす間に生まれた疑問を、この鬼にぶつけてみる。
「……常々聞こうと思っていたんだが、こんなに広い屋敷だ。お前とずんべら坊以外の妖怪はいないのか」
丁度今は荷車で運んできた食材で、星熊童子と二人で厨で昼餉の準備中。
米を研ぎながら、景頼がそう問えば、
「おるよ。ただ皆が皆、ずんべら坊みたいな害のない妖ばかりやないから、慣れるまではあんたの前に姿見せるなと言ってあるから安心してええで」
軽やかな包丁の音と共にさらりとした返事が返ってくる。
「ま、うちが喰うてもええけどな」
包丁を片手に鬼が笑みまじりで振り返るが、こちらとしては笑うに笑えない迫力だ。
「……これでも京では喰えない奴だと言われていた身だ。そんな私を喰らえば、腹を壊すかもしれないぞ?」
そう釘を刺しておけば、鬼は可笑しそうに笑ったのだった。
平安時代はめんどくさい上に奥深い……。