二話、鬼と出会いの話(後半)
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鬼が用意してくれた食事は、京にいた頃よりもむしろ豪勢と呼べるものだった。
粟や麦などが混じった粥に干した鮎、漬物。山菜が入った温かい羹が並べられる。
羹とは汁物のことで、そこに入れられる具材は干した野菜か干した魚が一般的である。何故なら保存技術といえば、日干しにするか塩に付けるかのどちらかしかないからだ。
だが、この羹に使われている山菜は干したものではなく、新鮮なものだった。
これで食が進まないわけがなく、景頼はそれらをペロリと平らげてしまった。
出された食事を食べ終えた後に景頼の元を訪ねてきたのは、顔のない男だった。
「おや、すっかり良くなったようですね。旅の御仁」
庶民が着るような簡素な衣服である直垂を纏った、人の良さそうな口調の男だった。
妖と呼ぶには、あまりにも不似合いなほど人と変わらない姿だ。
だが、その顔にはあるべきはずの目や鼻や口がない。ただ、のっぺりとした肌色が広がるのみ。その姿はやはり人ではない。
唇や口がないのにも関わらず、男特有の低い声が発せられるのはどういう仕組みか絡繰か。
不思議なものだと景頼は改めて、目の前にいるのが魑魅魍魎の仲間であることを痛感した。
ふと、あの少女鬼が言っていたことを思い出す。
確か彼女は景頼をここに運んでくれた者と秘薬によって、景頼を助けたと言っていた。
ここに運んでくれた者の名を、彼女は確か「ずんべら坊」と呼んでいた。
顔のない男、のっぺりとした顔。
その特徴は”のっぺら坊”という妖の特徴そのもの。
そして“のっぺら坊”という顔のない妖には、別の呼び名があったはず。
それは―――
「成る程。貴方が私を見つけて運んでくださったという―――“ずんべら坊”殿か」
「……これは驚いた。妖を前にしても冷静なのですね。どうやら貴方を見くびっていたらしい」
「はは、私が落ち着いているように見えるのはきっと、目覚めて一番に目にしたのが鬼だからでしょうね」
にこりと笑みを浮かべる余裕がある自分に、景頼は内心驚いていた。一度生死を彷徨ったためか、妙な落ち着きが己の中で確かに産まれていた。
「彼女から貴方方には敵意がないということを聞いているからでしょう」
冗談めかして答える景頼に対して、ずんべら坊は感心しきったように(表情がわからないため、真意は定かではないが)何度も小刻みに頷くばかり。どうやら顔がないせいで、表情が読めない代わりに身振り手振りが激しい性質らしい。
「それにしても落ち着いておられる。私を目にした人間は悲鳴を上げ、腰を抜かす者ばかりだと言うのに。貴方は実に肝が据わっておられるようだ」
「これでもここに来る前は、宮中の内政に関わる立場だったもので。魑魅魍魎と変わらない宮廷人たちと毎日やり合っていたせいか、いざ貴方方を前にしても自分でも驚くほど動じずにいられるようでしてね」
むしろ父や弟たちに妬まれ、着いていた地位と居場所を奪われ、あまつさえ野盗に襲われ、連れていた従者にも裏切られたのだ。同じ人間であるはずの彼らに命を脅かされたのに対して、何の気まぐれであろうと見知らぬ人間の命を助けてくれる妖たちの方が、景頼にとってはまだ信じられるというものだ。
―――妖と人、真に『人でなし』なのはどっちなのか。
寝ている間に着替えさせられた真新しい服の裾を握る手に力がこもる。
丁度その時、部屋の襖が開いた。景頼が食べ終えた食事の後片付けをしていた鬼が戻ってきたのだ。彼女は男二人を見るなり、あらと声を上げた。
「―――あら、ずんべら坊。来はったんやね」
「これはこれは、星熊童子殿。挨拶もなしに失礼しておりますよ」
「相変わらず堅苦しいなぁ。うちとあんたの仲ではおまへんどすか」
和やかに歓談する二人。どうやら親しい知り合いのようだ。
そしてそこで少女鬼の名が“星熊童子”だということがようやく判明した。
その名を耳に入れた瞬間、景頼の頭の中でとある記録書の記述が引っかかった。
それは今から約五年ほど前の事。
酒呑童子が源頼光に討たれた記録書に書かれていた名だ。
確かその名は―――
「そうか…星熊……酒呑童子の話といい、その口調といい、腑に落ちた。その名は確か、酒呑童子と共に大江山にいたという鬼共の一味か」
【大江山の酒呑童子】と言えば、鬼の中でも悪鬼の代名詞だ。
酒呑童子は鬼の中でも強大な力を有していたらしく、多くの鬼たちからも慕われていたという。酒呑童子に次ぐ力を持った茨木童子という鬼を従え、さらには熊童子、虎熊童子、星熊童子、金熊童子という四匹の鬼たちがいたと言われている。
そのうちの一匹の名が、星熊童子。それが目の前の鬼の名だ。
「へぇ……案外、耳聡いんやなぁ…。人の世で言うなら、もう五年も前のことやのに。うちらにとってはつい昨日のことやけど、人間にとってはそうでもないんやろ?」
「これでも京を追われるまでは要職に就いていた身の上だ。目聡く、耳聡く生きていなければいけなかったものでな」
「そんなお偉いさんが京の外れで死にそうになっとったということは……権力争いでもあったんかなぁ……なぁ?」
こちらの素性も明かしていない上に、少ない判断材料でこちらの核心を突く彼女に、景頼は内心で舌を巻く。
中々に知恵の回る鬼だ。
”鬼”とは見境なく暴れまわり、災厄を振りまく野蛮な連中という一般的に認知されている印象が揺らぐほどに。
「……お前の言うとおりだ。私は京を追われ、太宰府に左遷を命じられ、向かう道中を野盗に襲われ、死にかけた。挙句の果てにこうして人ならざるものに救われたのだ。実に哀れだと思わないかね」
半ば自嘲気味にそういえば、星熊童子もずんべら坊もただ静かに聞くばかり。やけに調子が狂うと思いながら、こほんと咳払いして気持ちを切り替える。
「それで? お前たちは私をどうするつもりだ? 私が京に戻り、陰陽師を引き連れてくるのを恐れ、やはり殺すか?」
そうせせら笑えば、ずんべら坊が顎に手を当てて神妙に口を開く。
「つかぬことをお聞き致しますが、そのような役職に就いていたということは読み書きや交渉事は得意でしょうか?」
何を聞かれるのやらと身構えていればそんなことを聞かれ、予期していなかったこちらとしてはきょとんとしてしまった。
「それは勿論だが……」
こちらとて、元は大納言の地位にあったのだ。
読み書きなどは出来て当然。交渉事も日夜茶飯事。
だがまさか妖にそれを問われる日が来るとはついぞ思ってもみなかった。
そんなこちらを星熊童子がクスリと笑う。
「ちょうどええ。事情が事情やから帰りたくても帰れんのやろ? だったらここに居ったらええわ。読み書きできるんなら、ずんべら坊の商いの手伝いもできるやろうしな」
「そんな勝手に……」
「いえいえ。市井の人々に私の顔を見て驚かれるのは妖冥利に尽きるのですが、大事な商談の度に泡を吹かれたらたまったものではありませんからね」
鬼の言葉に戸惑う景頼を置いて、ずんべら坊はうんうんと頷く。
「かといって星熊童子殿にはこのように立派な角がある。さらにはこの屋敷に住む他の者たちはそもそも人の世の理や文字がわからない。私以外の働き手が増えることは真に良きことでしょうとも!」
両手を広げ、人ならざるものが労働の担い手として声を高く力説する。彼の勢いは全く止まる気配がない。
星熊童子に目で問えば、「まぁ最後まで聞いたって」と小声で言われる。
「そう考えると貴方様が私の商いを手伝ってくれるということはすなわち鬼に金棒!」
ずんべら坊は、どうだと言わんばかりに星熊童子を振り返る。眉も目も鼻も口もないのに、おそらく自信満々でうまいことを言ったという顔をしているのがわかる。
顔がないくせに、実に表情豊かだとつい笑みが溢れてしまう。
「ずんべら坊は乗り気みたいやけど、どないする?」
一方言われた鬼はクスリともせず、ただこちらに問いかけてくる。
視界の端でしょんぼりと肩落とす彼の背中は寂しそうであったが、声をかけられる状況ではなかったので、景頼も星熊童子に習うことにした。
すなわち同様に無視したのだ。
益々彼の背中が寂しげではあったが、話が進まないので心を鬼にして放っておくことにする。
「……今、京へ戻ったところで私の居場所がないことに変わりはない」
そもそも京から追いやられ太宰府に向かう道中だったのだ。さらには父や弟からも今や追い立てる側だ。京中どころか生家にすら、今の景頼の存在は忌むべきものでしかないだろう。
「……かと言っておめおめ太宰府に行ったところで、おそらく死んだことになっている私がいれば、いずれ京にいる者たちの耳に入るだろう」
共に太宰の地を目指し、道中裏切って有り金の大半を持ち去った従者の存在もある。
例え従者が京に戻らず、行方を晦ましたとしても太宰近くの道に藤原家の家紋が入れられた牛車が打ち捨てられているのを、いずれ誰かが見つけるだろう。
その家紋を辿れば、景頼のことが浮かび上がるのは容易いはずだ。
「あの野盗どもが政敵の放った刺客だったならば、私が生きていることがわかれば再度殺しに来るかもしれない」
ずんべら坊の話では、彼らは時に人の世に紛れ、ひっそりと上手く暮らしているようだ。それが事実ならば、この屋敷は人間に簡単に見つかるようなつくりではないはずだ。
そう仮定すれば、この屋敷ほど安全なところもないはずだ。
「……ならば他に当てがあるわけでもなし。まさか京の奴らも野盗も、私が妖と仲良くしているとは思わないだろう……」
万が一、やはり妖たちにも裏切られたとしても一度死んだはずの命。その時はその時だ。
そう腹をくくって、星熊童子に向き直る。
「そうしてくれるならば、お言葉に甘えたい。頼む」
畳の上に額を付けて、深々と頭を下げる。
誰かの息を飲む音。予想を裏切れたことが今は気分がいい。
「…うちの知っとる人間は、妖に頭を下げるくらいなら自害するような連中ばかりやったけどなぁ…」
「人であろうと妖であろうと助けられたなら礼は言うし、必要ならば頭も下げるさ。これでもどちらかと言えば信心深い人間でもない。いざとなったら助けてもくれない御仏や神よりも、こうして命を救ってくれたお前たちの方がまだ信用できると判断したまでさ」
そう言えば、星熊童子はふうと溜息。呆れられたのかと思えば、その口元には微笑。
「なら、好きにしたらええ。ずんべら坊、面倒はあんたに任せるわ」
「かしこまりました。あ、そういえばですが」
「ん? どないしたん?」
「今更ですが、この方のお名前をお聞きしていませんでしたね」
ずんべら坊に言われ、そういえばと自分のことながら名乗っていなかったことに気付く。
こほんと咳払いし、改めて妖たちに向き直る。
「藤原景頼という。―――景頼と呼んでくれ」
そう名乗ったのだった。