聖杯 09
カリ、カリ、カリ。
分厚く荒い作りをした、比較的安価な部類の紙へと、サクラさんはペン先を奔らせる。
時折紙へペン先が引っかかり眉を顰めるも、軽く息をついただけで再開し、延々と文字を記していく。
この世界で使われる文字は、当然のことながら彼女ら勇者が生まれ育った国のそれとは異なる。
どういう理由か口から紡がれる言語は同じでも、ここばかりは流石にその限りではなかった。
ただこの世界へ召喚されまだ1年も経たぬ現在、サクラさんは文字の多くを習得していた。
彼女曰く、「慣れれば案外簡単」とのことだそうな。
「クルス君、こっちは書き終わったから、全部纏めておいて」
「わかりました。それにしても、本当に早いですよね。文字の習得もですけど、こういった書類を作るのが」
「向こうで散々やってきたからね。……ていうかさ、なんで私が全部やってんの」
ここまで不平不満を口にしなかったサクラさんだけれど、終わりが見えてきたところでようやくそれは吐き出される。
彼女が今やっているのは、"狂信者の森"で行った、魔物の調査に関する報告書作成。
勇者支援協会の本部より届いた依頼へ参加した、全ての勇者と召喚士が提出しなくてはならない物だ。
ただ本来であれば、こういった作業はボクら召喚士が行うべきこと。
というのもサクラさんのように猛烈な速さで習得した人はともかく、勇者の多くはこちらの文字に不慣れであるため。
そのため大抵は召喚士が作成するのだけれど、今はそうもいかない事情があった。
「仕方ないじゃないですか。肝心の当人たちがああなんですから」
「……そうね、今の彼らはそれどころじゃないか」
そう言ってボクはクラウディアさんが営む、協会カルテリオ支部兼宿の隅へ座る、数人の召喚士たちへ視線をやった。
ボクは既に、自身とサクラさんの分を書き終えている。
ただあの場所で腰を降ろし、呆然と天井や床を眺める召喚士たちはそうもいかない。
なにせ狂信者の森で遭遇した"黒の聖杯"より生まれた魔物に、自身の相棒たる勇者を奪われてしまったのだから。
失意の中で項垂れる彼ら彼女らに無理強いも出来ず、結果作業の早いサクラさんが代理でペンを奔らせているのだ。
「あの人たち、これからどうするのかしら」
「勇者を失った召喚士は、まずその任を解かれます。肝心の勇者が居ないんですから。その後は人によりますけど、大抵は騎士団で別の役割を与えられますね」
小さな声で、打ちひしがれた召喚士たちに聞こえぬよう言葉を交わす。
二人一組である勇者と召喚士の、片方が失われるというのは珍しい話じゃないし、前へ出て戦う勇者は特にその傾向が強い。
オリバーのように召喚士だけが失われた場合、後に別の相棒が付くこともある。
ただ元来召喚士でもないカミラがその位置に据わったように、意外にも勇者を失った召喚士が、そこへ収まるという例はそれほど多くない。
というのも単純に、勇者を失った召喚士は以後同じ役割を担おうとはしないからだ。
「なので新たな役割を固辞し、騎士団を辞めてしまう召喚士も少なくはありません。気持ちは……、わかります」
「そう。……ヤニス、ちょっとこっちに来て」
ボクの話に重苦しく頷くサクラさん。
彼女はほんの少しだけ躊躇してから顔を上げると、他の召喚士同様に隅で座るヤニスへと声をかけた。
別に慰めの言葉を吐こうというのではない。ただ単に、書き上がった書類に当人のサインだけは必要であるためだ。
「悪いわね、ここにお願い」
「いや……。こちらこそ、申し訳ない」
どこか緊張感の漂う、サクラさんとヤニスのやり取り。
ただ呼ばれたヤニスにしても、自身が行うべき作業を任せているという負い目があるようで、大人しく求めに応じペンを握った。
ただ記された内容を読む彼の視線が、一点で止まる。
それはおそらく文書の中で最も重いもの、相棒であるサワキの死亡に関する内容を記した箇所だ。
ヤニスはインクの乾いたその部分を指でなぞり躊躇うも、少ししてからペン先を奔らせ自身のサイン刻む。
「貴方はどうするの、これから」
「……とりあえず当面はここへ滞在する。あいつの身体を持ち帰りたい」
「わかった。でもクラウディアの話だと、しばらく待ってもらうことになるみたい。王都へ応援要請をしてからになるって」
「構わない。あそこへ置き去りにし続けるよりはマシだ」
淡々と、抑揚のないヤニスの声。
彼はサインをしサクラさんと幾らかのやり取りを行うと、重い足取りで宿にある自身の部屋へ向かった。
その時にすれ違ったクラウディアさんと、一言二言の言葉を交わす。
すると彼は遂に感情の波が溢れ出したのか、階段を登りながら嗚咽を漏らしていた。
「ご苦労様。あんた達も休みなよ、あとはアタシがやっとくからさ」
「悪いわねクラウディア。それじゃあクルス君、私たちも家に帰りましょ」
姿を現したクラウディアさんは、ペンを受け取りボクらへ帰るよう促す。
狂信者の森から戻って以降、ボクらはずっとこうして作業に明け暮れていた。
時刻は既に深夜。身体には疲労が蓄積し、立っているだけで思考は霞みそうになってしまう。
クラウディアさんの申し出に甘え、預かって貰っている間に眠ってしまったアルマを連れ、市街中心部にほど近い我が家へ向かう。
小さな亜人の少女を背に負い、ボクらは人の往来もない通りを歩いていく。
家への道すがらだが、言葉は少ない。
今回は幸運にも怪我の一つもなかったけれど、次は相棒を失った彼らのようにならないと断言はできない。その意識が場の空気を重くしていた。
ただ重苦しい空気に耐えかねたせいだろうか、ボクはつい自身でも思いもよらない言葉を発していた。
「サクラさんは、居なくなりませんよね……」
自らが発した言葉であるというのに、漏らしたそれに驚く。
これはあまりに無神経な発言。サクラさんの実力を信用していないと取られてもおかしくはない言葉だ。
ただそれを聞いたサクラさんは、別段気にした様子もなく、苦笑しながらいつも通りボクを見下ろした。
「それはちょっと、保障しかねるかな」
「え……」
「だってそうでしょ。勇者なんていう危険すぎる稼業、ずっと無事でいられるとは思えない」
てっきりサクラさんは、ボクをからかいながらも大丈夫と言ってくれると思った。
しかし彼女の口から吐かれたのは、あっけらかんとしつつも重い言葉。
とはいえそれは紛れもない事実であるし、当人も理解してやっていること。こう答えられるのは当然だ。
「本当なら、向こうでもっと平穏な生活をしていたはずなんだけど」
「それは……、すみませんでした」
「もっとも精神的な面では、こっちの方が気楽かも。危険性はともかく、そこだけはこの世界に来て良かった点ね」
苦笑するサクラさんは、なにも召喚されて悪いことばかりではないと口にする。
ただその言葉を聞いても、ボクの気持ちは晴れることはない。
ある意味気楽であるとは言うが、勇者たちの生まれ住む"ニホン"という土地の方が、遥かに安全であるというのは幾度となく聞いた話。
そんな故郷から無理やり呼び込んだというのは、ボクに限らず召喚士にとって、色々と返す言葉の無いものであった。
「あちらに送り返す手段は、今のところ存在しません」
「そうみたいね。帰ったって人の話も聞かないし、これはもう諦めるしかないかしら」
「でも、……勇者を辞めることはできます」
「……え?」
辿り着いた我が家の前で、ボクは意を決しその言葉を口にした。
召喚した"ニホンジン"たちは、そのほぼ全てが例外なく勇者という役割につく。
しかし中には適性が無いと明らかであり、過酷な戦いに適応できない人間も当然のように存在する。
そんな人たちは勇者という立場から足を洗い、別の道を歩んでいる。
「貴族や大商人の護衛になった人も居ますし、国に召し抱えられて騎士になった人も。商いを始めて成功した人だって」
「ちょっと、クルス君?」
「なにも勇者でなくたっていいんです。サクラさんが無事でいてくれるなら、ボクはなんだっていい」
昔からずっと憧れていた。誰よりも強い勇者と共に各地を巡り、英雄の如き活躍を遂げることを。
喝采を浴びる勇者の隣へは常に、静かに立つも誇らしげなボクの姿。そんな光景を夢想していた。
だが今はもう、そうでなくてもいいのではと思え始めていた。
サクラさんが無事でいてくれれば、サワキのように無残な形で命を落とさないでくれるのであればと。
そんなボクの言葉に困った様子を見せながらも、サクラさんは玄関へ足を踏み入れる。
揃って中へ入ったところで扉の鍵をかけた彼女は、奥へ進もうとするボクの肩を掴んで留めると、少しばかり真剣な表情を浮かべた。
「君の言いたい事はわかった。でも私は、勇者を辞める気はさらさらないから」
「ですが……」
「最初は半ば強制的だったけど、今はもう自分自身の意志で君に協力してる。今更勇者を辞めて生きろと言われたって困るのよね」
若干、サクラさんの口調は険しい。
ただその目元はどこか穏やかで、叱られているような空気の中にあって、抱擁せんばかりな穏やかさを湛えていた。
そして彼女は腕を伸ばすと、背負うアルマごとボクを抱きしめる。
「もちろん、むざむざやられる気は無い。もっと強くなってさ、君が心配しなくていいくらいに強くなりたい。そのためには勇者で居ないと」
サクラさんの言葉は、目的と手段がごちゃごちゃになっている気がする。
ただなんとなく、彼女の言わんとすることは理解できた。
優しくする抱擁を解いた時には、サクラさんは普段通りの表情へ戻っていた。涼しげで、どこか悪戯っぽくて、微妙に勝ち気な表情へと。
そのサクラさんは「それに……」と呟くと、
「近いうちにクルス君のお師匠様って人にも会ってみたいしさ。商人や騎士になんてなったら、好きな場所へ行けなくなっちゃうじゃない」
ちょっとばかり大きな声で、腰へ手を当ておどけた調子で告げる。
そのサクラさんが発した声で起き、目を擦るアルマの頭を撫でながらボクは想う。
ボクには勇者である彼女を支える覚悟が、実のところ備わっていなかったのではないかと。
そんなことを、思い知らされたのだった。