聖杯 06
"黒の聖杯"と呼ばれるそれは、現在この世界が抱える最大の謎であると言っていい。
未知の自然現象。あるいは何者かによってかけられた呪い。または神による人への裁きであるなど、その正体は諸説語られている。
ただどれが正解であったとしても言えるのは、この"黒の聖杯"が、魔物という脅威を生み出すということ。
聖杯などという大層な名で呼ばれるのも、神の所業としか思えぬ人知を超えた作用のため。
「まさかアレがそうなの?」
「お、おそらく。ボクも実際に見るのは初めてですが。でも……」
突如として現れた災厄を呼ぶ存在、"黒の聖杯"。
掌へ乗る程度な小ささで、人の目線程度の高さへフラリと浮かんでいるそれは、何度となく話に聞いて来た物であるのに間違いはないのだろう。
ただ少しだけ疑わしく思ってしまうのは、杯の色が黒ではなく鉛色であるため。
絵でも黒く描かれていただけに、想像していた物とは異なる姿へ呆気に取られる。
それは他の勇者たちも、そしてサワキもまた同じであったようで、振り返るなり硬直し聖杯を凝視していた。
「なんにせよ危ないわね……。どんな魔物が出てくるかはわからないんでしょ」
「その土地によって傾向はありますが、基本的には」
カルテリオ近隣であれば昆虫型。王都周辺であれば無機物。
聖杯によって召喚される魔物には地域毎の傾向があるものの、その枠にはまらない例も数多いと聞く。
それに生まれるのが雑魚ばかりであるとは限らないのだ。
サクラさんは唖然とするサワキに向け、早く離れるよう警告を叫ぶ。
だが動揺によって硬直しているせいか、それとも逃げるのが屈辱であるためか、彼女の言葉に反応し動こうとはしなかった。
そんな中、黒の聖杯はゆっくりと高度を上げ始める。
「な、なんだ!?」
「いったいどうなるんだ、誰か説明しろよ!」
周囲の勇者たちの、強く動揺が入り混じった声。
そんな騒々しさなど意に介さぬように、聖杯は悠々と高く昇りボクはそいつを見上げる。
すると不規則な動きで聖杯は揺れ、中へと満たされていた液体を地面へ滴らせた。
雨に湿った地面をさらに濡らすそれは、ひたすらに、ただひたすらに黒い。
「おい、これヤバイんじゃねぇか?」
「ああ、俺たちは逃げるぞ!」
きっとこれが、"黒の聖杯"によって魔物が生み出されていく瞬間。
その一種異様な光景を前に、数人の勇者が危険を察知したか逃走を計る。
それほどまでに異質で、寒気すら感じさせる禍々しさを聖杯は放ち続けていたのだ。
「クルス君、下がって。何が起きるかわからない」
「ですが……」
「いいから。かなり嫌な感じがする」
ボクの前へと出たサクラさんは、背負っていた愛用の弓を手にし、後ろへ行くよう告げる。
それに対し少しでも手助けをと思うも、すぐさま首を横へと振られてしまった。
いつもであれば、からかい混じりに僅かながら手助けをさせてもらえる。
だがサクラさんの声からは余裕らしきものが感じられず、目の前で起きている現象に強い警戒を露わとしていた。
確かにボクもまた、さきほどから本能へ強い警鐘が鳴り響いている。
地面へと広く溜まった黒い液体は、中央へと寄り集まっていく。
そいつは盛り上がり柱のようになったかと思えば、爆発的にその大きさを膨張させ、個体を形作っていった。
「あれは、……トカゲ?」
弓を構えつつ、ドス黒い塊を見るサクラさんは小さく呟く。
彼女の言う通り、黒いそれは徐々に色を緑へ変色させていき、地を這うトカゲのようなそれへと変わっていった。ただしとても大きな。
「伏せなさい!」
そんなサクラさんは、突然に大きな声を発する。
いったいどうしたのかと思う間もなく、彼女は前へと駆け、その先に居たサワキを地面に叩き伏せた。
ただその行動の理由は、すぐさまボクの目に飛び込んでくる。
黒の聖杯が溢した液体から現れたトカゲ型の魔物は、細くも長い尾を振り、サワキを薙ぎ倒さんとしていたからだ。
サクラさんがそれを見切ったのは、ひとえに警戒から動きを注視していたからに他ならない。
「なにすんだババア!」
「ババ……!? ってそんな御託は自分で避けてからにしなさい」
すぐさま顔を起こすサワキは、自身を叩き伏せたサクラさんへの文句を口にする。
まだ若いはずの彼女にされたあんまりな言葉に、当人は言い返しつつも、すぐさまサワキの首根っこを掴み飛び退った。
魔物はまだ尾を振り回し、すぐ近くへ立つ人間を攻撃しつつある。
そして尾による攻撃は、数人の勇者たちへと被害を及ぼしたようだ。
「大丈夫か!?」
「な、なんとかな。だが大した傷じゃない」
見ればトカゲに似た魔物の細い尾の先には、針状の突起が数本生えている。
あの針が掠めたせいで、数人が身体へと傷を負ってしまったようだ。
ただそれほど深いものではなく、すぐさま起き上がると、各々自身の武器を手に対峙していた。
ヤニスの近くへサワキを放り投げたサクラさんは、ボクのそばへ立ち弓を構える。
そして若干口元をヒクつかせると、背筋が粟立たんばかりな迫力の篭った声を漏らした。
「あいつ、帰ったら説教してやる」
「ほ、ほどほどにして下さいね」
「お断りよ。嫌ってほど後悔させてやるわ」
どうやらババアと言われたことが、随分と感情を逆撫でしたらしい。
不敵な笑みで怒りを露わとするサクラさん。ボクはとばっちりを食らわぬよう、少しだけ立つ距離を離そうとする。
しかしそんなボクが一歩横へ動いた時だ、他の勇者たちから悲鳴が上がったのは。
「な、なんだこれ!?」
「おいどうなってんだ! 身体が、からだが!」
恐怖の色に染まる勇者たち。彼らは自身を見下ろし、次々に叫び声をあげた。
見てみれば彼らの腕や脚が、今しがた魔物から傷を負わされた箇所を中心として、灰色へ染まっている。
なぜ彼らの肌がそんなことにと思っていると、それがただの変色ではないのに気付く。
変色した患部を動かせなくなり、手を触れた勇者たちの発した言葉は"石"。
つまり傷を負わされた箇所の周辺が、どういう訳か人の肉ではなく無機物へと変わっているようだった。
「まったく、石化まであるだなんてとんだ世界ね……。魔法がない分、まだ向こうに似てると思ってたのに」
尾を振り回す魔物から距離を取るサクラさんは、矢を射て攻撃を仕掛けながら悪態つく。
彼女はそう言うものの、ボクだってこんな現象、今まで見たことも聞いたこともない。
でも宙に浮く杯から、魔物が生み出されてしまうのだ。人を石化させてしまう魔物くらい、居たっておかしくはないと思えてしまう。
魔物が振るう尾は勢いを強め、より広範囲に攻撃をしていく。
あれに当たっては終わりだ。石となった部分が、治ってくれるとも限らないのだから。
そのため他の勇者たちも距離を取り、生えている木を盾代わりとする。
しかし既に魔物の尾でやられ、身体の一部を石とされた者たちはそうもいかない。
「ま、待ってくれ。置いていかないで……!」
「脚が、脚が動かないんだ。誰か!」
「助けて、助けて母さ――」
石化しつつある部分は徐々に広がり、既に下半身を丸ごと変質した勇者も居る。
比例して重さも増しつつあるようで、脚が無事な勇者であっても、身体を土の上から動かせずにいた。
そんな彼らへと、魔物はノソリと近寄る。
魔物の顔が僅かに歪んだように見えると、短くも太い前足は動けぬ勇者へ振り降ろされ、彼らの身体を踏みつぶす。
バキリと、ボクには硬い音が聞こえた。
「さ、サクラさん。あの人たちを助け――」
木の陰へと隠れつつ、一瞬チラリと魔物の方を見れば、足下にはグッタリとし地面に伏せる勇者が数人。
助けることはできないかと思いサクラさんを見るも、彼女は小さく首を横へ振った。
「放っておきなさい」
「で、ですけど!」
「もう無理よ。……彼らは死んだ」
よくよく見れば、勇者たちの石化した部分は胴体へと達し、その部分から衝撃によりへし折れている。
もし石化した状態が治るにしても、どちらにせよあれでは命が無い。
非情ではあるけど、サクラさんが言っている事は間違いではないのだろう。
ボクは易々と命を散らした勇者たちの姿に背筋を凍らせ、木の陰で息を殺すことしか出来なかった。