二人のボク 05
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目の前の空間が歪み、捻じれ。渦を巻くように開かれた"扉"。
異界より呼び出される勇者が、あるいは黒の聖杯と呼ばれる異界の脅威が現れるその穴は、ゆっくりと大きさを増していく。
だがそれを大人しく観察する間もなく、すぐ横に立っていたサクラさんは動いた。
勢いよく腕を振り、手にした投擲ナイフを一閃。
目にも止まらぬ速さで飛ぶ数本のナイフは、狙い違わず異界との扉に突き刺さった。
突き刺さるとはいうものの、すぐにその姿は見えなくなる。
抵抗すら感じさせず潜り込んだそれは、おそらく向こうの世界に渡ったのだ。
「どう?」
「まだ何も変化は……」
開きかけていた扉にナイフが吸い込まれるも、これといって変化らしきものは見られない。
まだ中から黒の聖杯が現れてはいないが、変わらず扉は開いたままだ。
ただ緊張を抱きながら少しだけ待っていると、次第に変化らしきものが起き始めたのに気づく。
「小さく、……なってませんか?」
「ちょっとだけどね。やっぱり効果はあるみたい」
ほんのわずかな変化だけれど、ゆっくりと拡大しつつあった穴が、さっきよりも逆に小さくなっている。
中から黒の聖杯が出てくるどころか、扉が閉められていくようだ。
もしかしてこれは、大きな一歩なのではないか。
毎回同じ結果になるとは限らないけれど、出現前に異界との扉へ干渉することで、出現を阻害するのが可能なのではないかと。
そんな淡い希望を抱き、ついつい無意識に足が前へ出そうになる。
「でもまだヤツが出てこないとも限らない。クルス君、気を付けて――」
目の前にチラつく希望に、笑みが零れかける。
もっともサクラさんはまだ緊張を解いていないようで、本当に前へと踏み出してしまったボクへと警告の言葉を発した。
けれどサクラさんの警告への反応が遅れ、地面へ描かれた陣に足が触れてしまった時だ。閉じかけていた扉が再び一気に開き、あちらから無数の黒い線が伸びてきたのは。
数十本ものそれは、一瞬でボクの身体へと巻き付き、問答無用な強い力で持ち上げてきた。
「クルス君!」
サクラさんの悲鳴めいた声が聞こえる。
けれどその時既に、ボクの身体は黒い無数の紐に絡めとられ、ものすごい勢いで扉へと引きずり込まれようとしていた。
こいつは見たことがある。アバスカル共和国の首都リグー、そこの地下に眠っていた、複数の黒の聖杯が使っていたモノだ。
あの時アヴィが拘束され、地下へ引きずり込まれた時と酷似した状況。
ただ違うのは、今回引っ張られていく先が地下などではなく、どこに繋がっているとも知れぬ異界への扉であるという点。
僅かに拘束を逃れた腕を動かし、サクラさんへと伸ばす。
けれど届くことは叶わず、再び大きく開いた扉へと、瞬く間に呑み込まれてしまうのだった。
異界との扉に放り込まれるなり、一気に視界は黒に染まる。
沼の中へと引きり込まれているような、何とも言えぬ気持ちの悪い感覚に襲われ、何も見えていないのに歪む視界に、吐き気すら催してきた。
そんな得体が知れぬ状況に混乱をしかけるも、すぐさま状況は一変。いきなり視界が晴れたかと思うと、固い地面の上に転がされたからだ。
「ここは……」
いつの間にやら解かれていた拘束。
自由となった腕で身体を起こし、周囲を見回す。
そこは薄暗く広い空間。けれど所々に光源が。
足元には固い、木材とも金属ともつかぬ地面。さっきまで土の上に居たというのに。
ただ碌に周囲の状況がわからぬ中でも、意外なほど平静な思考を巡らせてみれば、ちゃんと理解できることはあった。
「たぶん黒の聖杯が居る世界、……なんだよな」
明らかにさっきまで居た場所とは異なる空気、そして気配。
ここが世界にとっての敵、黒の聖杯が存在する世界に違いなく、否が応でも緊張は高まっていく。
まさかこんな形で、ボク自身が異界への扉をくぐってしまうとは。
勇者たちがボクらの世界へ来る時とは、まるで逆に近い状況に、召喚士という立場を思えば苦笑いをするしかない。そんな状況ではないというのに。
どこか自嘲気味な感想もほどほどに、ボクは警戒し腰に差していた短剣を抜き構える。
こいつがどこまで通用するか。かなり疑わしいけど、それでもせめて一矢報いることができれば。
そんなことを考えていた時だ、さっきまで暗がりの中で弱々しく瞬いていた光源が、大きく辺りを照らしたのは。
「な、なんだこれ……」
強まった光源によって照らされた空間。
そこを目にしたボクは、唖然としポカンと宙を見上げた。
視線の先、物体を捉えることが出来る程度には明るくなったそこには、巨大な構造物が鎮座していた。
……いや、たぶんそうなのだと思う。
なにせ見たこともない、まるで金属をそのまま山のように押し固めたような、奇妙で巨大な物体であったのだから。
表面には無数に小さな光源が瞬いており、さっきから見えていたのはこいつが原因。
そんな大きな金属の塊は、明るくなったと同時に低い唸るような音を発していた。
正体がわからぬ、不気味で巨大な物体。
けれどボクにはなんとなく、それが誰か人の手が入っているのではという感想を抱く。
アバスカル共和国で見た、大地を走る金属の塊。列車とかいうそれと、ある種の似た雰囲気を感じ取ったからだ。
「これ、もしかして誰かが造ったんじゃ」
勇者たち異界の人間が造った物かどうかはわからない。そもそもここが彼らと同じ世界であるという確証もないのだから。
でもきっと、いや間違いなく自然に発生したものではない。それだけは確信が持てる。
「と、とりあえず、なんとかしてここから脱出しないと」
ただそんな奇妙な物体も気になるが、まず自身のために行動をしなくては。
このように気味が悪い場所に延々と居るわけにはいかない。なにせあちらでは、サクラさんが強く動揺しているであろうから。
なにせ彼女は、召喚そのものを行う術を持たない。
それに大抵召喚を果たした後は、描いた陣が消えてしまう。陣を新たに描き写そうにも、本は今もボクが肩に下げた鞄の中。
つまり向こうからは扉を開けない。となると取れる手段は……。
「こっちでなんとかするしかない、か」
流石に今回ばかりは、サクラさんの助けを期待するのは望み薄。
ならばあちらの世界に戻るため、自力でなんとかしなくては。
考えうる手段としては、まずこちらの世界で再び黒の聖杯を探し出すこと。
そいつが扉を開いたところで、ボクも飛び込むといったところか。……目的とする世界に移動してくれるかは、半ば賭けに近いけれど。
ひとまず打開の糸口を探るべく、目の前にあるそいつを調べることに。
山や城壁を思わせる巨大な構造物の周りを探り、意を決して触れ、試しに軽く小突いてみる。
けれどそれが悪かったのだろうか。小首を傾げ様子を見ようとした矢先、またもやその構造物は発光を強め、振動とも唸りともつかぬ妙な音を発し始めたのだから。
「な、なんだ!?」
咄嗟に走ってそこから離れ、姿勢を低くする。
地面すらも揺れるような錯覚を覚える、さっきよりも俄然強い低音。
巨大な構造物はなお煌々と光り、ボクが立つ周辺を呑み込まんばかりの強さへ。
そうしてしばし、瞼を閉じ耐えるボクは音と光に晒されていたのだけれど、突然それらは収まる。
もしや助かったのだろうかと目を開けるのだが、そこにはあまり喜ばしくはない存在が現れていた。
「黒の……、聖杯……」
文字通り、まさに目の前。
手を伸ばせば易々と届いてしまうような距離へ、そいつは悠々と浮き上がっていた。
鉛色をした金属質の体表。杯という形状。そしてゴポリと音を立て、どす黒い粘液状の物質を滴らせる。
そして零れだした黒い粘液は、この世界へとボクを引きずり込んだ時と同様、一気に襲い掛かり身体を拘束したのだ。
これはかなりマズい。
ここには助けてくれる人も居なければ、誰かを呼び寄せることすらできない。
頼りになるのは自分だけ。けれど間違いなく、手にした短剣だけでどうにかなる相手でないのは明らか。
もしかして、ここでボクは終わってしまうのだろうか。
そんな想像が現実のものとして鼻先をかすめ、遂には自身の死を覚悟し、親しい人たちの顔が頭をよぎる。
けれどそんな時にどういう訳だろうか、黒の聖杯から伸びていた黒い紐は突然緩み、器の中へと戻っていったのだ。
「な、なにが?」
黒の聖杯の意図など読めはしないが、ボクを殺す最良の機会であったはず。なのにヤツはどういう訳か拘束を解いた。
それともヤツにとって、ボクなど取るに足らぬ存在だとでも言うのだろうか。
獲物を手放したヤツの目的がわからず、目を白黒させる。
けれど一旦器の中へ戻った黒い触手状の物が、再び表に出てきたところでボクもまた身構えた。
……なのだが、ヤツは再びこちらへと向かってくるどころか、杯を包み込むように集まり球体へと変化したのだった。
どす黒い球体は困惑を続けるボクを他所に、しばし空中で留まる。
短剣こそ握ったままヤツを見ていると、ゆっくり球体の形状が捻じれていき、別の形を成し始めるのに気く。
「……人?」
そいつは黒に染め抜かれてはいるが、確かに人としての形を成していた。
陰からして男。それもあまり大きくはない、少年か大人か判別し難い大きさ。
だがヤツがハッキリと、立体的に形作られていくにつれ気付くのだ。
肉付きや背の高さ、髪の形状や纏う服の形。それが今まさに目の前へ立つ、ボクを模しているのだと。
徐々に黒は薄れていき、逆に地味な色合いへと変化していく。
そうして完全に変容した先にあったのは、間違いなくボクの形。鏡で映したかのように、まるっきり同じ姿。
ヤツは驚きに硬直するボクへと、一瞬だけ嫌な笑みを浮かべる。
すると突然目の前に開いた"扉"へと、勢いよく飛び込んでいくのであった。