くすりのひみつ 03
振り返った瞬間、頬に感じる柔らかな感触。
左右からソッと添えられるような優しいそれに、一瞬何が起きたのかわからなくなる。
けれどちゃんと正面を見てみれば、それがさっきから話しているメイリシアによるものであると気付いた。
「クルス……。わたしを見て」
彼女はボクの両頬へと触れたまま、ゆっくりと口を開く。
どこかボンヤリとし、虚ろな視線。熱を持った頬に、妖艶さすら感じる穏やかな微笑み。
さっきまでの様子とはまるで違う雰囲気に、いったいメイリシアに何が起きたのかを察しかねる。
「い、いったいどうしたんです?」
「貴方に話があるの。とても、とても大切なお話」
口づけすらしかねない程に顔が近づき、彼女の吐息が口元に当たる。
突然の変容と、聖職にあるはずな彼女の色香に心臓が跳ねる。
「覚えているかな。わたしクルスのことが好きだったのを」
「も、もちろん。忘れるはずがないよ。……でもどうして急に」
「一旦は諦めた、だってクルスの気持ちはずっと一人の人に向いているもの。でも抑えられなくなったの、今、この瞬間」
メイリシアは手をボクの首に回し、抱き着かんばかりに体を寄せる。
そして以前に彼女をこの国へ連れてきた時のこと、つまりメイリシアから想いを告げられた時のことを持ち出したのだ。
確かに以前、彼女からはそういった意思を向けられた。そしてボクは拒絶した。
あの時のメイリシアはしばし泣き明かした後、以後はまるでその時のことなどおくびにも出さず、ずっとボクらと接してくれていたのだ。
密かに彼女の精神の強さに、敬意すら抱いてしまうほどに。
しかしそんなメイリシアだからこそ、今の様子は明らかにおかしい。
彼女は聖職にあるということもあって、基本的には貞淑さを重んじ自制心が非常に強い。
そのようなメイリシアが、突然に感情を抑えられなくなり抱き着いた挙句、この件を掘り返そうとするものだろうか。
「ちょ、ちょっと離れて。お願いだからひとまず」
「ふふ、イヤよ。でもそうね、クルスがキスしてくれたら考えてあげる」
とりあえず平静さを取り戻そうとするも、メイリシアの反応にさらに顔が赤くなるのを感じる。
やはり今の彼女はおかしい。聖職者云々というのは別として、彼女はこんなことを言うような人ではないはずだというのに。
強く抱き着いてくる彼女は、熱っぽい視線で見上げてくる。
その目をよくよく見れば、興奮によって瞳孔は開き、触れる身体へ感じる脈は強く速い。これはたぶんボクの分もあるだろうけど。
ただ明らかに異常な反応であり、ボクはそんな彼女の様子に、ふとある可能性が頭へ浮かんだ。
「……メイリシア。そういえばさっき、小瓶の中身を嗅いだと言ってなかったかい?」
「確かにそうよ。とても良い、花のような香り。それに……」
「それに?」
「なんとなくクルスのことを思い出させてくれる香りだった。ふふ、どうしてかしら」
上気した頬を可笑しそうに歪め、メイリシアは案の定な言葉を発する。
間違いない、きっと彼女はあの薬品の成分を吸ってしまったのだ。
精神に作用すると推測されるあれがどういった効果を持つのか、それはまだ定かでないけれど、今の彼女はその影響下にあるに違いない。
それにメイリシアが感じた香りの正体も、実のところちょっとばかり心当たりが。
お師匠様がくれた手帳には、薬品を作るために必要な複数の材料が記されていた。
彼女が感じた花の香りというのも、その中に含まれていた、秋の終わりごろに咲く花から抽出した香料のことだろう。
そして際立って特徴的な材料として、どういうわけか人の毛髪が記されていたのだ。
誰かに提供してもらうという手もあるけれど、そんなことを頼んでは怪訝に思われるのが関の山。
となると当然その供給元は、自分自身の頭からということになる。つまりボク自身の髪を使った。
「落ち着いてメイリシア。きっと今の君は、薬の影響で変になってるんだ」
「薬? お薬なんてわたしほとんど使ったことないわ、だってずっと健康だったんですもの。でもクルスが診てくれるって言うなら、病気になるのも悪くないのかも」
「いや、そういうことじゃなく……」
虚ろで、熱を帯びた視線。
しなだれかかってくるメイリシアは、なお強く身体を寄せてくる。
このまま体重を預け、地面に倒れてしまうのも良しとしているようで、それをする彼女は妙に楽しそうだ。
普通女性からこのように迫られるというのは、男冥利に尽きるのだとは思う。
だが今の彼女は、薬品の影響でこのような態度を取っているだけ。決して自らの意思であるとは言い難い。
なのでこんな状態のメイリシアを受け入れることは出来ないし、そもそも今はそれどころでは。
「お願いクルス、あの人のことは忘れてわたしと……」
「ご、ゴメン!」
グッと顔を寄せ、唇を重ねようとするメイリシア。
でもボクは咄嗟に彼女の肩を掴んで押し剥がすと、謝罪の言葉と共に駆け出した。
とても不満げなメイリシアの声を背に受けながら、大急ぎで市街地方向へと走る。
彼女の変容は、アルマがぶちまけてしまったという薬品の影響としか考えられない。
まだ推測の域を出ないけれど、たぶん気化した成分を吸い込んだ人の精神に作用、自制心だか理性のタガを外してしまうのではないか。
まさか苦労して作ったアレが、このような作用を引き起こすとは思ってもみなかった。
けれどそこまで考えたところで、こいつは想像以上にマズい事態となりかねないのではと、嫌な想像が頭をよぎる。
「このまま市街地に入ったら大変だ。っていうかアルマ自身も!?」
さっきのメイリシアがしていた反応が、他の人にも同じように現れるとは限らない。
けれど似たような状況があちこちで起これば、それこそアルマが移動した先々で起こってしまえば、とんでもないことになる。
まずはサクラさんに伝えなくては。
ボクは焦りを覚え、疲労を感じ始めた脚にムチ打ち走り続けるのだった。
教会へ行った時の道を逆にたどり、再びカルテリオの市街地に。
荒く息を弾ませ入ったそこは、一見して普段と変わらない、人々が行き交う光景が広がっていた。
何の変哲もないその様子を意外に思いつつも、サクラさんを探して走りながら、協会支部へと向かう。
見慣れた建物の扉を勢いよく開いて中に入ると、そこにはクラウディアさんに加え、カルテリオに駐留する騎士団の女性隊長が。
彼女らはボクの姿を見ると手を振り、軽い挨拶をしてくる。
「すみません、ここにアルマが来ませんでしたか!」
「アルマ? ついさっきまでまる助と一緒に来ていたわよ、もうどこかへ行っちゃったけど」
真っ先にここへ来たけれど、どうやらまた入れ違いとなってしまったようだ。
クラウディアさんは手にしていたジョッキを煽り、小さく肩を竦めていた。
冬場は魔物の発生頻度が著しく下がるため、カルテリオで活動する勇者たちの多くが休暇状態。そのため魔物の素材買取を行う協会も暇をしているようだ。
ボクは少しだけ酔ったクラウディアさんの言葉を聞いて、すぐさま協会支部を出ようとする。
けれど彼女は小走りで近寄ってくると、ボクの首へ腕を回した。
「どうしたんだクルスー、そんなに急いでさ」
「ちょっと急ぎの用がありまして……。早くあの子を見つけないと」
クラウディアさんは訓練を受けた騎士団員ではないが、それでもボクよりも高い伸長を持ち、協会では力仕事だってこなす。
そのためなかなかに腕力があり、酔っていることもあって手加減がない。
おかげで早く次に向かおうとしていたボクは、冗談で抱き着いてくる彼女に足止めされてしまうハメに。
そんなクラウディアさんの様子を、騎士団の女性隊長もクスクスと笑いながら眺めている。
彼女らは以前ここで共に人質として取られて以降、ある種の親近感のようなものを持ったらしく、サクラさんも交えて時折ここで酒を呑み交わしていた。
どうやらこの日彼女は非番であるらしく、暇を持て余しクラウディアさんに付き合っていたのだろう。
「なによ、あんたまさかまた厄介ごとに巻き込まれてんの?」
「巻き込まれたと言うかなんと言うか。今回はボクが発端と言いますか……」
「あら珍しい。大概はサクラが原因だってのに」
冗談めかしてボクを羽交い絞めにするクラウディアさん。
彼女はどことなく呆れた様子の声だ。
基本的には巻き込まれ体質というか、クラウディアさんが言うように主にサクラさんが首を突っ込みたがる気質なせいもあって、ボクらは色々と騒動に事欠かない。
そいつを知っている彼女は、珍しくボク発端であるというそれに、意外そうな声を漏らす。
ともあれ急ぎであることは理解してくれたらしく、掴む彼女の腕から力が抜けていく。
ボクはそれに安堵するのだけれど、動き出そうとしたのも束の間。またもや力を込められ、どことなく艶っぽい声が耳元で発せられた。
「……ところでさ、たまにはお姉さんたちの誘いに乗ってみるのも悪くないわよ」
「へ?」
「あんたもそろそろ、大人の階段を上っていい頃じゃないかい。クルス」
耳に触れんばかりの位置で、クラウディアさんの口から発せられる声。
それには大人の女性が持つ色香が、これでもかと含まれており、背筋をゾクリとさせるほどの情感が込められていた。
まさかと思い恐る恐る顔だけで振り返る。
するとすぐ目の前には、上気した頬と少しだけ荒い呼吸、そして興奮を伴った視線を向けるクラウディアさんの顔が。
ついさっきのメイリシアと同じ、どこか正気を失ったようにも思える反応。
つまりはボクが作り、アルマが持ち出してしまった薬品の影響だ。
「ひ、ひとまず離れてください! たぶんクラウディアさんは、アルマが持っていた薬の影響で――」
「くすり~? なんだかよくわかんないけど、楽しんでいきなさいよ。良いお酒も出してあげるし、あたしの気が向けばちょっとした"オマケ"も」
「"オマケ"、ですか? それっていったい……」
「女の口から言わせる気かい? そうだね、あんたの酔いがしっかり回って、上の階に連れて行ってから教えてあげる」
グッと力を込めて身体を寄せる彼女は、耳元で妖艶に囁くと、人差し指を上の方に向けた。
各地で勇者に対し諸々の支援を行う協会支部は、大抵が簡易的な宿泊施設も備えている。
駆け出しのころなどはあまり財布も厚くないため、格安であるのもあってボクらもお世話になった。実際家を持つまでは、ここに寝泊まりしていたのだ。
つまり上にあるのは、勇者と召喚士たちが使うためのベッドが置かれた部屋。そこへ連れていかれるということは……。
「クラウディア、それは少々どうなのでしょうか」
いったい何を言わんとしているのか察し、顔が赤面していくのを自覚する。
なんとかしてこの場を脱しなければと考え、必死に抵抗しようとしたところで、不意に助け舟が出された。
徐々に近づいていくボクとクラウディアさんの顔の間に、スッと手が差し込まれる。
それはここまでこちらの様子を眺めていたばかりな、女性騎士のものであった。
助かった。とまたもや別の意味で安堵をする。
彼女は至って常識人であり、時折悪ふざけが過ぎるサクラさんやクラウディアさんと異なり、なにを話すにしても安心の出来る相手だ。
きっとこの人であれば、上手くクラウディアさんを言い含めてくれるはず。
「わたしだって彼と"イイこと"をしたいです。独り占めは感心しません」
……前言撤回。
考えてもみれば、クラウディアさんが薬品の影響を受けているのだから、一緒に居た彼女も同じ状態であって不思議はない。
効果が表れるのに若干の個人差はあるようだけど、この人も薬品の影響下にあるのは間違いなさそうだ。
「ちょっと、あんた既婚者でしょうが! 旦那が聞いたらなんて言うか」
「わたしもたまには若い子と遊びたいもの。普段頑張って町を警備しているんだから、少しくらいご褒美があってもいいはず」
「あらあら、本音が駄々洩れ。貞淑な騎士隊長さんはどこにったのやら」
「真面目を続けるのも疲れるんですよ、たまには気分転換もしないと。ところでクラウディア、埒が明かないのでいっそのこと……」
口をはさんできた彼女に、クラウディアさんは意識が向きボクを掴む手を緩める。
その間にコッソリ脱したボクは、慎重に足音を立てぬよう協会の出口へ。
年上の女性たちが侃々諤々やりあっている間に逃げ出すべく、扉の取っ手へ手をかけた。
「2人で一緒に彼と遊……。あら、どこに行きました?」
「あ、逃げんじゃないよクルス!」
協会の扉を開いたところで、遂には気付かれてしまう。
ボクはギラリとした視線を向ける彼女たちから逃れるべく、異論を口にする余裕すらなく、全力で飛び出し大通りを駆けるのであった。