風に乗り 03
アバスカル共和国の南西部。
国土の端に位置する自治都市アマノイワトから見て、もう少しばかり東へ移動した場所へ、ボクらは数日の行程を経てたどり着いた。
イチノヤと会い、彼によって案内されたこの場所は、アマノイワト守備隊が有する監視拠点の一つ。
そこに着いたボクらが目にしたのは、雪の残滓がうっすらと残る大地の上に広げられた、とんでもなく大きな布であった。
「なんですか……、これ」
とても小さな、砦とすら言えぬ小さな掘っ立て小屋。
そこで忙しなく荷物を運ぶ守備隊隊員たちを尻目に、ボクは目の間へ広げられたそれを凝視し、小さく疑問を口にした。
動物の皮ではなく、植物を編んで作られた布。高地であるアバスカルにおいては、少々珍しいというか高価な代物だ。
かなり密に織られているであろう巨大な布の脇には、これまた大きな"籠"。
木の皮を編んで作られたであろうそれは、底の部分が金属板で補強されているのが見て取れる。
そして籠の縁へ幾重にも結わえられた頑丈そうなロープが、地面に広がる布へと幾本も伸びていた。
「ちょっと、おっさん」
「その呼び方はあまり好んじゃいないんだがな。確かにお前さんから見ればオッサンだろうが」
「なら一ノ谷さん、一応確認しておきたいのだけれど」
ボクの隣に立ち、同じく巨大な布と籠を眺めるサクラさん。
彼女はジトリとした視線を動かしてイチノヤへ向けると、彼に確認と称してとある物の名を口にした。
「これってさ、もしかしなくても"気球"よね?」
「察しが良いじゃないかお嬢さん。いかにも、単純な作りではあるが気球だ」
「察するもなにも、向こうの世界から来た人間が見ればわかるっての」
サクラさんとイチノヤの会話から察するに、こいつは向こうの世界に存在する代物であるらしい。
ただ具体的にどう使うのかわからず眺めていると、彼女らの交わす言葉の中に、それらしき手がかりが混ざったのに気づく。
「コルネート王国に無理を言って、特別に寄越してもらった謹製の品さ」
「ああ、向こうの勇者たちが作ったわけね。でもちょっと信じていいかは疑問ね、こいつが浮いてくれるかは」
「浮く? 浮くって、水にですか?」
コルネートの勇者たちによって造られたであろう、キキュウとかいう代物。
そいつに対しサクラさんが発した"浮く"という言葉に、ボクはつい反射的にその意味を問うてしまう。
けれどサクラさんは一瞬キョトンとすると、肩を竦め否定の言葉を吐いた。
「水に浮くってだけなら普通に船を使えばいいじゃない。というかアバスカルに、船を必要とするような場所はないだろうし」
「ならいったい……」
「言葉の通りよ、この布が膨らんで空に浮くの。そっちの籠に入ったら、風に乗って空をひとっ飛び」
彼女は人差し指を立て、ゆっくりと真上を指す。
向かう先は真っ青な空。白い雲がポツリポツリと浮かぶ、鳥と風たちの世界。
……いったいこの人は何を言っているのだろうか。
これが? この大きな布と籠の一式が、人を乗せて空を舞うと?
空を飛ぶと言えば、シグレシアの騎士団などで使役されている飛竜が真っ先に思い浮かぶ。
けれど生物ですらないこんなよくわからない物が、はたして空を進めるというのだろうか。
それに膨らんで、浮かんで、空を走る。と言われても、いまいちピンとこない。
頭の中に浮かぶのは、この布が大きな翼となって羽ばたく光景なのだけれど、それだとサクラさんの説明と食い違う。
同じく怪訝そうにするアヴィと一緒に、首を捻って訝しんでいると、イチノヤは「やって見せた方が早い」と、数名の守備隊員たちに作業を始めさせる。
「なんなのだ、いったい」
「さあ? とりあえず様子を見るしか」
話の流れにも状況にも置いて行かれっぱなしなボクとアヴィ。
揃って守備隊員たちがする作業を眺め、徐々に形を成しているであろうキキュウとかいう物を見守ることに。
彼らは籠の上部に備わった金属部に、なにやら透明な石らしきものを設置。
かと思ったらいきなりそいつに火を当てると、すぐに引火し強く燃え盛り始める。
すると今度は大きな扇を取り出し火を煽りながら、その風を置いていた布に当てていく。
得体の知れぬ行動に、いっそう怪訝に思っていたのだけれど、すぐさま目を驚きに見開く。
地面に置かれ熱風を受けていた布は、次第に全体が起き上がり始めたかと思うや否や、大きく膨らんでいったのだ。サクラさんが言っていた通りに。
「熱した空気は上に昇っていく。そいつを掴まえて、一緒に空へ向かおうって原理ね」
「なんとなく、理屈としてはわかりますけれど……」
港町カルテリオに在る我が家の庭に作った風呂。そこで湯を沸かした時など、浴室内にで発生した湯気は上に昇っていく。
焚火をした時の煙も同じであるため、その原理としては理解ができた。
けれどそれが人を乗せるだけの力を持つとは俄に信じがたく、懐疑的な視線をその物体へ向ける。
しかも場の空気から察するとおそらく、いや間違いなくこれに乗るのはボクらだ。
次いで頭によぎるのは、いったん浮き上がるも何かの拍子に落下する姿。
ボクだけでなくアヴィも同様の想像をしたらしく、寒気でもしたかのように身体を震わせていた。
「あれ、燃料はどうなってるのよ?」
「燃やしているのはコルネート産の代物だ。石炭よりもずっと燃焼力が強くてな、長時間燃え続けるらしい」
「火力の調整は方法? あの大きさからすると、乗るのって私たちだけでしょ。慣れるのに時間が要りそう……」
「詳しい手段はあいつらに聞いてくれ。俺はよく知らん」
膨らんでいく布を眺め話をするサクラさんを他所に、燃える鉱石らしきものを見る。
燃える石という点から、列車を動かしていた物と同じかと思うも、見ればかなりその外見は異なっていた。
列車の燃料は真っ黒だったけれど、こちらは白いというか透明。燃え方も激しいし、特別な加工でもされているのかもしれない。
「でもさ、こいつで本当に南に行けるの? もし風向きが違ったら……」
「心配性だなお前さんも。今の時季はコルネート側から吹き付ける風が、山脈に沿って南へ流れている。だが秋が近づくと止む、やるなら今しかない。怖気づいてもいいが、次の機会は来年になるぞ」
「とは言ってもね。まだ碌に試運転もしていないんでしょ?」
「なら陸路でコルネートを通るか? 俺の伝手があるからある程度の便宜は図ってもらえるだろうが、それでもあちらを出国するのにいつまで待たされるか」
勇者たちによる手が入った代物とはいえ、サクラさんも不安感がぬぐえないらしい。
とはいこのキキュウとかいう移動手段以外となると、自治都市アマノイワトにある坑道を通って、コルネート王国へ入らねばならない。
それ自体は問題なくとも、さらにそこからシグレシアに行くのは難儀するようだ。
とはいえそれも当然、本来であればボクらはかの国に居るはずがない存在、いくら便宜を図られるとはいえ、国境越えの手続きは色々と煩雑になってしまうだろう。
なのでどうやらこいつに乗ることは避けられないようだ。
ボクは早々に抵抗するのを諦め、運命をコルネート製の空飛ぶ物体に委ねることにしたのだけれど、若干一名抵抗を諦めない人物が。
「わ、わたしは乗らないぞ! こんな物が空を飛んでたまるか!」
守備隊員たちによる準備が終わり、イチノヤがボクらへ大きな籠へ入るよう促す。
隣で操作方法を聞くサクラさんを尻目に、アヴィは悲痛な表情で必死の抵抗を口にした。
「わたしがついて行かなくてもなんとかなるのだろう!? ならここに残る、残って国に帰る!」
「今になってそんな我儘を言われてもね……」
「我儘だろうとかまわん、地面に叩きつけられるくらいなら、臆病者と呼ばれた方がマシだ!」
腕を掴むボクを引き剥がそうと、渾身の力で抵抗をするアヴィ。
彼女はどこか涙目となって、断固としてこのキキュウにのるのは御免被ると叫ぶ。
確かにボクも怖いのだけれど、アヴィは普段の気丈さすらどこかへ行ってしまったかのようで、この様子からすると案外高いところが苦手なのかもしれない。
けれどもう決まってしまった以上、ここで彼女を残すというのはできない。
操作法の教授をしてもらい終えたサクラさんは、いつの間にやら近づきアヴィの肩をガシリと掴む。
そして抱えるようにして持ち上げると、迷うことなく籠の中へと放り込んだ。
「さあ行くわよ。いざ大空へ」
「お、降ろせぇぇ! わたしは残る、ここに残るぞ!」
「諦めなよ、もう逃げられないんだから……」
暴れるアヴィを抑えつつ、ボクもまた籠に乗り込む。
そこで逆にどことなく乗り気となっているサクラさんの言葉に、観念しながらアヴィを説得する。
さっきまではサクラさんも不安気だったのだけれど、説明を聞くうちに好奇心の方が勝ってきたらしい。
今では気が逸っている様子で、いそいそと火力の調整を始めていた。
「ああ、そうだ。そいつはまだまだ試作品らしくてな、向こうに着いたらすぐ処分しておくといい。2度目の使用には耐えられんそうだ」
「了解了解。戻ったら適当な場所で燃やしておくわ」
「おいちょっと待て、そんな物に乗せようというのか!?」
イチノヤの忠告に平然と返すサクラさんだけれど、ボクとアヴィにとっては嫌な言葉であった。
空を舞う最中、突如壊れ墜ちていく光景がありありと浮かんでくる。
それによってアヴィはさらに暴れようとするのだけれど、ぞんざいにもサクラさんの脚によって押さえつけられてしまっていた。
そんな彼女の姿に苦笑しながら、逃げ場のなさに諦め息を吐く。
ただ籠の底に伏せ、外を見たくないのか目を閉じるアヴィを見下ろしているボクへと、外から声がかかった。
「……クルス」
ボクの名を呼ぶその人へと視線を向ける。
そこには腰に手を当てたイチノヤが、どことなく寂しそうな表情を浮かべ立っていた。
「息災でな。もう、会うことはないだろうが」
あえてボクら全員にではなく、ボク一人に対してのみ語りかける。
彼がそうする理由には心当たりがある。けれど先日聞きそびれて以降、それを確認することができていなかった。
イチノヤが言う、もう会うことがないという部分に意識が向く。
ということは彼にこの疑念を問うのは、今が最後の機会。けれど声が詰まり、言葉となってくれない。
本当に聞いてもいいのか。本当のところを知っていいのか。そしてイチノヤは答えてくれるのか。
けれど声に出す勇気を準備する間はなかったようだ。
すぐ背後で作業をするサクラさんが、出立を告げたからだ。
「行くわよ、掴まってなさい」
まるでこれ以上の会話は遮ろうとばかりに、サクラさんは告げゆっくりと籠が浮かび上がる。
浮かんだ籠は人の伸長ほどの高さに、そしてイチノヤが見上げるほどに。
本当に空に向かいつつあるという衝撃も他所に、徐々に小さくなっていくイチノヤの姿を、ボクはただ無言で見下ろし続けていた。