潰れ花 02
ひとつ、ふたつ、みっつ。
アヴィの向こうに並んで置かれた黒の聖杯が、共鳴するように次々と揺れていく。
カタカタと床を、置かれた台を鳴らしていく光景に、ボクは唖然とし無意識のうちに身体の動きを止めてしまった。
時間が秒を刻むごとに、振動する黒の聖杯は数を増していく。
最初は1つだけ。だが今では数十、そしてそう考えている間に百へ迫らん数が動き始める。
危険だ。この場所は危険だ。今すぐ逃げなくてはいけない。
だがどのように、どこへ逃げればいいというのか。
サクラさんの手を握り、倒れている奴隷たちの全てを見捨て、行き先も考えずこの場から一目散に逃げ出すか。
それとも最低でもアヴィだけは抱え、サクラさんに護ってもらいながら逃げるのか。けれど……、それをして間に合うのか?
「走りなさいクルス!」
しかし一瞬で巡る思考に身体を硬直させるボクを余所に、サクラさんは行動を開始した。
後ろからボクを追い越して、真っ直ぐ駆けアヴィのもとへと向かう。
普段ボクを呼ぶときの"君"付けがない。過去に何度かあったその呼び捨ては、サクラさんに余裕がない時の表れ。
おそらく彼女は、アヴィを抱えてから脱出するという手段を選んだ。
でも上手くいくかは賭けだと言わんばかりに、ボクへ脱出を指示しながら走る。
きっとサクラさんの判断は間違っていない。
すぐさまそう判断したボクは、意を唱えることなく振り返ると、真っ直ぐに扉へと向かった。
その時に一瞬だけ見てみると、サクラさんは想像が正しかったと証明するように、予想した通りの動きをなぞる。
アヴィのもとへ移動し、彼女だけを抱えて一目散にボクが逃げようとしている扉へ。
振動し不穏な空気を撒き散らす黒の聖杯も含め、他には一切目もくれない。
つまり他の奴隷たちに関しては……、もう死んでいると仮定して行動すると決めたようだ。
「このまま市街地に抜ける。すぐに宿に置いた荷物を持ってトンズラこくわよ!」
滑るように小さな扉をくぐり、元の部屋へ。
そこでアヴィを脇に抱えたサクラさんは、すぐさまこの都市からの離脱を告げた。
稼働している黒の聖杯が大量にあった部屋から逃げつつ、ボクは動揺の残る頭で思案する。
一応ここに大量の黒の聖杯があったことで、この国に来た目的は達せられたと考えていい。
それに稼働を停止した物の欠片を回収したし、アヴィという他国から連れ去られ奴隷とされた少女も確保した。
「確かにもう首都に、というよりもこの国に居る理由はありませんね」
「そういうこと! あとはあいつが逃がしてくれるかどうかだけれど……」
サクラさんに手を引かれ、再び真っ暗な通路を駆ける。
少しすると地下の廃墟を飛び出し、再開発区画にかかる曇天の空の下へ。
相変わらずひと気のない区画内を走り、一目散市街地へ向かう途中、サクラさんはチラリと背後を振り返った。
まさかと思い、ボクもまた走りながら振り返ってみる。
するとそこにはアヴィを引きずり込んだドス黒い帯が、遥か上空へと無数に伸びている光景が。
間違いなく、さっき揺れていた黒の聖杯が起こした現象で、気味が悪くおぞましいその光景にゾッとする。
「どうやら相当に怒っているみたい。"餌"を奪われたせいで」
「エサ?」
「あの部屋を飛び出す直前、一瞬だけ見えた。……置かれた黒の聖杯から伸びた無数の触手が、奴隷たちを呑み込もうとしているのを」
この日何度目かとなる背筋の寒くなる感覚に襲われるボクへ、なにやら意味深な言葉を向けるサクラさん。
けれどコレの理解は容易だ。つまりあの場で横たわっていた、再開発区画で行方不明となっていた奴隷たちは、黒の聖杯にとってはエサであったのだと。
いったいどういう嗜好かは知らないが、大量に攫っては貯めておき、今まさに一気に喰らうつもりであったらしい。
ヤツが人を直接喰うなんて話は聞いたことが無いけれど、実際そういう光景を見たのだから認めるしかない。
ボクらは丁度その場に出くわしてしまったのか、それともボクら自身がヤツの食欲を呼び覚ましてしまったのか。
いずれにせよあの場に居た奴隷たちが生きていようと死んでいようと、ボクらにはどうにも出来なかったということになる。
いずれにせよ、アヴィが食われる前で良かった。……と考える他ないのだろう。
「その結果がアレですか! もしかして、人を喰らうごとにデカくなるんじゃ」
ただなんにしても、その末に至ったのが今まさに背後へ見えているアレだ。
サクラさんが言う所のエサを大量に食らった黒の聖杯は、どういう理屈か盛大に黒い粘液状の物体を集団で撒き散らし、形作って天を突かんとしている。
もう一度振り返ってみれば、無数に伸びていた黒い帯は一つの束となり、なにやら別の形へと変貌を遂げよとしていた。
「大きくなるっていうか増殖……。いや、融合しているわね。たぶんあの場にあった他の個体と」
「冗談じゃない! ただでさえ厄介なヤツが合体するだなんて」
「なにせ存在自体得体が知れないもの、繁殖や合体の一つや二つしたっておかしくはないわよ。想像して楽しい光景じゃないけれど」
悲鳴を上げながら走るボクの隣で、サクラさんは小器用にアヴィを抱えたままで肩を竦める。
さっきの逃げ場が少ない空間に居たのと比べれば、多少なりと軽口を叩く余裕が生まれたらしい。
けれどいまだ危機的状況であるのに変わりはなく、ボクは段々と息を切らしながらも走り続ける。
そんな中でももう一度振り返って見れば、ヤツは再開発区画から移動をしておらず、遠目から見ても巨大な黒い壁となってそのまま。
ただなんとなく、ヤツはこちらを狙っているように思えてならない。そんな妙な圧を発していた。
市街地に入ると、やはり突如として現れた巨大な存在によって、町は混乱の坩堝と化しつつあった。
子供たちは面白そうに空を見上げているが、大人たちは酷く不安そうで、大通りを走る兵士たちには緊迫感が滲む。
ボクとサクラさんはそんな住民たちの反応を他所に、大通りに面した宿へと飛び込む。
宿の主人もまた騒ぎに反応し外へ飛び出していたため、大慌てで階段を上るのを咎める者もなく、前もって準備しておいた荷物を掴み急いで階下に降りる。
ボクらは宿代である数枚の高額硬貨を置くと、そのまま外へ飛び出る。
けれど宿を出たところで見えたのは、再開発区画からこちらへと徐々に移動を始めたドス黒い巨大な塊。
ヤツは再開発区画と市街地の境に建てられた、簡素な低い壁を易々と破壊。大通りを練り歩くように向かってくるのだった。
「な、なんだアイツは……」
天を衝くほどに巨大で、光さえ吸い込みそうな物体。徐々に迫りつつある黒の聖杯の集合体を見上げるボクに、すぐ真横から唖然とした声が響く。
そこへは変わらずサクラさんに抱えられたアヴィが、顔だけを上げ強い困惑の滲む表情を浮かべていた。
いつ意識を取り戻していたのかは知らないけれど、目が覚めてから最初に見た光景がこれではそうなるのも当然。
彼女にとって直前の記憶というのは、自身の足を絡め取る黒い物体によって、高く持ち上げられたあたりだろうから。
彼女に事情を説明する間もなく、すぐさま駆け出すサクラさん。
きっとそれは見上げる黒の聖杯の一角に、とある変化が現れたため。
城壁すら彷彿とさせる黒の聖杯。その隅の方、かなり上のあたりではあるが、そこに人の数倍程に相当する穴が開く。
そこへ少しして何かがせり上がってきたのだが、よくよく見ればそいつは眼。
「い、いったいどうなっているんだ!?」
「見ている……。間違いない、ヤツはこっちを狙っている!」
突然走り出したサクラさんに驚くアヴィ。
彼女は揺られながら諸々状況の説明を求めるのだけれど、追いかけるボクはまず端的に逃走の理由を告げた。
黒の聖杯に現れた目は、間違いなくボクらを見ていた。
ボクをなのか、サクラさんをなのか。それとも一時はヤツにとって"エサ"と認識したであろうアヴィをなのか。あるいは全員。
どれが正解かはわからないけれど、無数の黒の聖杯が融合し巨大となった存在は、ボクらを敵だか捕食対象だかであると認識しているらしい。
「参ったわね。これじゃたぶん町の外まで追いかけてくるわよ」
この都市から逃げ出したとしても、おそらくヤツは町を踏み潰しながら追いかけてくる。
見た限りヤツの移動速度はそれほどでもない。けれどどこまで逃げれば諦めるとも知れない存在だけに、もし国境を越えられるとしても、それをして良いもかどうか。
「でも今は逃げる以外に手はありませんよ」
「そうね。気が向かないけど仕方ない、ここの兵士たちに押し付けるとしましょうか」
とはいえそいつを考える前に、まずこの町を出なくてはいけない。
その為の障害として、きっと兵士なりアバスカルの勇者なりをやり過ごさねばならぬと思っていると、すぐ目の前に兵士の一団が。
一瞬だけ身構えるも、連中はボクら等はなから眼中にないらしい。
それもそうか、周囲には突如現れた化け物によって逃げ惑う大量の人々。ボクらにかまけている暇などないし、そもそもまだ他国から来た間者であるともバレていないのだから。
サクラさんはそんなアバスカルの兵士たちに、迫る黒の聖杯を押し付ける気であるらしい。
「頼んだわよ、ちょっとでも私たちが逃げる時間を稼いでくれれば――」
果敢にも立ち向かおうとする、アバスカル国軍の兵士や勇者たち。
そんな彼らに向け、サクラさんは都市外へ繋がる門へ向け走りながら、小さな希望を口にする。
現在のアバスカル共和国が、アレの存在を理解していたかどうかは不明だけれど、少なくとも一般の兵士や勇者は知らなかったはず。
だとすれば得体の知れぬ化け物相手に向かっていく彼らは、ただひたすら自身の使命だか義務で立ち向かっている。
そんな人たちに押し付けるのは若干心苦しいけれど、今はそこに縋るほかなかった。
とはいえ数十以上もの黒の聖杯が融合した存在だ。並の魔物とは一線を画す存在であるのは確か。
立ち向かっていく兵士たちの姿を目に映すボクは、グッと息を呑みながらサクラさんの願望に口を挟んだ。
「ダメ、みたいですね」
「もうちょっと踏ん張りなさいよ! ……って言うのも可哀想か」
勇敢にも、正体のわからぬ異形の存在へと立ち向かったアバスカルの兵士たち。
しかし残念なことに、彼らはいとも簡単に蹴散らされてしまう。
ドス黒い体躯から無数に伸びた触手は、刃の如き鋭さを持って襲い掛かり、数十に及ぶ彼らを瞬く間に切り裂いたのだ。
決して、アバスカルの兵士や勇者が弱いのだとは思わない。
というよりもおそらくは、ドス黒い塊となって迫る黒の聖杯が強力過ぎるのだ。
次々と立ち向かっては切り刻まれ、赤い血を撒き散らしていくアバスカル兵たち。
目が覚めた直後にそんな光景を目の当たりにしたアヴィは、サクラさんの脇に抱えられたまま、目を見開き小さく呟くのだった。
「な、なんなのだこれは……」