愛しきその香り 10
「髪……」
目に映る暗い坑道の、半分すら照らしてくれぬランプの明り。
その明かりを時折よぎり照らされた、元は勇者であった漆黒の魔物。
ボクはほんの一瞬だけ目に映ったヤツの動きへ、無意識にそう口が動くのを感じた。
髪だ。ヤツにとって、カガミにとってなによりも重要なのは。
サクラさんが振るイチノヤの大きなナイフ。ヤツは自身の身体が裂かれるのは気にもしないが、髪だけはその限りではないのか、嫌がる素振りを見せたのだ。
これといって人を説得できる根拠のない、半ば直感にも近い感想。
それでもボクにはこれしかないと思えてならず、サクラさんへ向け叫ぶ。
「髪ですサクラさん。ヤツの髪を狙ってください!」
「了解!」
ほぼ無意識の内に発してしまったその叫びに、サクラさんは迷うことなく反応。
飛来する黒い刃を横っ飛びで回避すると、坑道の壁へ着地するように足を着け、反動を利用し突っ込んでいった。
さらに迫りくる刃。そいつの内幾本かが彼女の身体を掠めていく。
けれど浅い傷をものともせず突進するサクラさんは、手にした大きなナイフを逆手に持ち直すと、鋭い勢いでヤツとすれ違った。
一房の黒い束を切り裂いて。
「あ……」
硬直。サクラさんを除くすべてが、それこそあのカガミまでもがその瞬間に固まる。
そして次に漏らすような声を発したのは、黒の聖杯によって取り込まれたカガミ自身であった。
これまでのヤツはまったく声らしき物を発してこず、それどころか感情すらも見えなかった。
けれど今はカガミであった存在がチラつくかのように、動揺を漏らし言葉にならぬ声を発している。
そんなヤツの声も、あるところでプツリと途切れた。
背後からヤツの胸を、腕ほどもある巨大なナイフが貫いたからだ。
ゆっくりと引き抜かれるナイフ。それと同時にサクラさんは距離を取る。
ただ彼女を追撃する攻撃は無い。代わりにヤツはゆっくり膝を折ると、固い地面へ座り込んでしまった。
「終わったんでしょうか?」
力なく座り込んでしまう魔物の姿に、ボクは息を呑み隣のイチノヤへ問う。
もしかして最後の攻撃は上手く効いてくれ、致命傷に至ったのではという淡い期待を込めて。
「まだわからん。……いや、勝ちは決まりのようだ」
「え?」
「見ろ。崩壊が始まっていやがる」
イチノヤの指さす方へと視線を向ける。
するとそこでは膝をついたヤツが、自身の髪と思わしき切断された箇所へと、震える手で掴んでいた。
ただその腕からは鱗が落ちるかのように、ボロリボロリと黒い皮膜が剥がれ、その奥にあった人としての肌が露わとなりつつある。
腕から肩へ、肩から胴へ。剥がれていく黒い体表の下には肌が見え、徐々に人としての姿が見えつつあった。
そうして頭部や足先まで達し現れたのは、一糸纏わぬカガミの姿。
具体的にどういう理屈かはわからない。けれど彼女を支配していた黒の聖杯は失われたようで、咳込む彼女の口からは鉛色の破片が落ち、空気に混じって消えていく。
「加賀美?」
「せ、先輩。あたし、こんな――」
人としての姿を、おそらく彼女は取り戻したのだと思う。
けれど完全にもとの姿に戻れたとは言い難い。なにせ彼女の髪は切り裂かれたことで一房が失われ、胸からは赤黒い血が滔々と流れていたのだから。
当然それはサクラさんが最後に放った一撃によるもの。
カガミは自身の穿たれた胸を抑え、血を吐いて地面へと倒れ込んだ。
「加賀美、どこまでが本当の貴女なの?」
そんなカガミへと、サクラさんはゆっくり近づく。
既に魔物としての在り様は失われたと考えているようで、武器こそ手にしてはいるけれど、それを構えることもなく。
近づいた彼女はしゃがみ込んでカガミへ触れ、小さな声でその人の本質を問うた。
やはり勇者としての高い生命力の影響だろうか。常人であれば即死しているような深い傷を受けるも、カガミはまだ命を繋いでいる。
胸に空いた傷口へ触れ、流れ出る血を抑えようとするサクラさんに、カガミは小さく口元を歪める。
「すべて……。全てですよ。これがあたしのすべて」
「そう。ならクルス君を襲ったのも、黒の聖杯のせいなんかじゃなく、貴女自身の意志ということね」
「……はい。だって――」
向けられた問いに、カガミは一切を誤魔化すことなく返す。
てっきり彼女の黒々とした感情に浸け込まれ、黒の聖杯によって精神を操られたのではとも考えた。カラシマの時と同じように。
けれど彼女はそれを否定。異形の存在に取り込まれながらも、これそのものは自身の意志であったと断言したのだ。
サクラさんから隠れ、ボクに向けてきたあの敵意。
どうやらそれは彼女の本性、本質そのものであったらしい。
そしてカガミは口の端を歪ませると、その理由を端的に告げた。
「羨ましかったんですもの」
「……嘘はなさそうね。なら私は、貴女を"そういう人"として扱う」
誰に憚る気もなく、堂々とその自分勝手な理由を口にしたカガミ。
そんな理由で狙われたのでは堪ったものではない。けれどカガミにとってはとても大きな、看過できぬ理由だったのだろう。
とはいえその言葉を聞いたサクラさんは、血の流れ出る傷口から手を放す。
そうして立ち上がると、一瞥だけをくれてカガミに背を向け、離別の言葉を発するのだった。
「さようなら加賀美。以前からの"知り合い"である貴女には悪いけれど、私は敵を助ける手を持たない」
彼女は背を向けたままでそう告げると、固い足音を慣らし坑道を進もうとする。
自分の世界に居た頃からの仲間ではなく、向けるのはあくまでも敵に対しての言葉。
あまりにも冷徹な、極端にすら思える割り切り。
敵であるのだから、それはきっと間違っていないのかもしれない。
それでもこれまで見てきた冷たくも優しい、そして存外お人好しなサクラさんとは一線を画す鋭い空気を感じる。
けれどそんなサクラさんの姿に対しボクが抱いたモノと、カガミが抱いたモノはまったく異なっていた。
「嗚呼、つれないアナタもステキ。……でも」
傷口を塞いでいた手が、慕っていた相手の声が遠く離れ、ドクリドクリと流れ出る血液。
地面に置かれた小さなランプの明りですら、ハッキリとわかる色を失っていく肌。
死を色濃く感じさせるカガミは、自分自身の命などどうでもよいとばかりに、背を向け遠ざかるサクラさんを見つめ、向けられる態度すら恍惚と受け取った。
死に瀕している状況だというのに、まるで理解の及ばない感覚。
いやむしろ死に瀕しているからこそ、このような精神状態で在れるのだろうか。
どちらにせよこれまで見てきたのと同じ、微塵も振れのないカガミの姿に背筋を寒くする。
そんな彼女は、生の最後に残す足音を口から漏らそうとした。
「でも、せめて長い髪の、あなたが、見たか――」
自身の短くなった髪を、鼻先へと当てる。
そうして小さく発した言葉を最後まで言い終えることなく、その身は動きを終えた。
目はハッキリと見開き、死の後もサクラさんから外そうとしない。そしてサクラさんと同じ香料を使って、同じ香りとなった髪を鼻先に当てて。
そんな強い執念や妄執がありありとした、壮絶な死に様に声を漏らすこともできない。
ボクはそんなカガミを、ただジッと見下ろす。
人であるかすら怪しいそれを、手に取ったランプの明りで照らしながら。
けれどしばし呆然と見下ろし、時折見えなくなったサクラさんの進んだ方向を見ていると、ガシリと頭を掴まれる感触が。
「呆けるな。俺たちも行くぞ、まだひとり生きているかもしれないんだろう?」
「……そうでした。行き、ます」
そうだ。この坑道の中では、まだリアが倒れているのだ。
望み薄ではあるけれど、まだ彼女が死んだとは限らない。少なくともそこへ行き、確認をしなくてはいけないのだ。
たぶんサクラさんがカガミに背を向けたのは、そちらを優先したからに違いない。
ならばとボクは視線を外し、遺骸を放置しその場を跡にする。
駆け足で、サクラさんに追いつかんと、振り向きたくとも振り向けないように。
ただ転ばぬよう注意しながら進んでいると、すぐ背後についているイチノヤが、妙に陰鬱さ漂う声で呟いたのに気付く。
「……あのお嬢ちゃん、危いな」
「どういう意味ですか?」
突如発せられた、意味の解らぬ言葉。
それがどうにも放っておけないように思え、ボクは歩きながらちょっとだけ振り返った。
「普通は、ああも簡単に向こうの世界での身内を斬ったりはできん。例え自分の召喚士が危険な目に遭っていたとしてもな」
立ち止まるイチノヤ。彼は静かに、抱いたであろう感想を口にした。
確かに動きを止めたカガミへと、サクラさんは迷うことなく追い打ちをかけた。
その後にかけた言葉も含め、あまりにも非情な割り切り方であるというのはボクも思う。
勇者たちは例え互いに干渉をせずとも、それでも同郷の者同士であるという意識が根底に存在している。
故に過度の敵対視をしようとはしない。もちろん戦えば互いに無事では済まないという理由もあるけれど。
でも実のところサクラさんは、同胞である勇者を自らの手で討つのはこれで2度目だ。カラシマの件も含めれば3度目。
イチノヤと同じく慣れた、……と言っていいのかはわからないけれど。
「もっともそうしてしまう程に、お前が大切だったのかもしれんがな」
「そう、なんでしょうか?」
「間違いないだろうよ。だが……」
サクラさんがカガミを討つのを迷わぬほどに、ボクの方が優先の度合いが強かったのではと告げるイチノヤ。
たぶん、そうなのだとは思う。サクラさんの言葉や態度から推測する限りでは。
けれどもそこを差し引いても、迷いなくカガミを討った姿は、ボクが抱く彼女の像からは少々離れているように思えた。
「よく見ておけ。一歩間違えば、俺たち勇者は同じ道を辿りかねない」
「サクラさんが、カガミと同じになると言うんですか?」
おそらく黒の聖杯は、力もつ勇者が抱く負の感情に引き寄せられている。
それはカラシマの時の経緯や今回の例を考えれば、間違いないのだと思う。
イチノヤはその片方を見てはいないけれど、そのように考えたようだ。そしてサクラさんの姿を見て、同じ恐れがあるのではと感じた。
そんなことはないと、断言したい。けれどボクには、どういう訳か否定を口に出すことが出来ずにいたのだ。
「絶対とは言い切れないさ。だが万が一そうならないように、クルス……、万が一の時にはお前が相棒の足を止めてやるんだ」
不穏な空気を漂わせる彼の言葉。ボクはその声に、どう返していいか迷うばかりであった。




