愛しきその香り 02
ずっと高い位置から、都市の東側に位置する砦の波を見下ろす。
いまいちよく見えはしないけれど、そこではここ"自治都市アマノイワト"に属する多くの守備隊員たちが、攻めてきたアバスカル国軍と対峙しているようだった。
ざっとではあるけれど、相手は数万に及ぶ軍勢。消費する食料だって膨大であろうに、ご苦労なことだ。
対するこちらは2000かそこらといったところ。
こちらにも勇者が数十人は居るけれど、おそらく向こうはもっと大勢に違いない。
とはいえそういった戦力差はあれど、国軍側が攻撃を仕掛けてくる気配はなかった。
「最初のころは、本当に攻撃してきたらしいぜ。最近はああやって遠いところから睨み合ってるだけだけどさ」
アマノイワトの市街を巡回し、不審な事態が起きていないか警戒する。
その最中に眼下で行われる睨み合いを指し、案内役であるリクは面倒臭そうにそう話してくれた。
「またどうして?」
「砦の防御が固いんだとよ。あっちの被害を考えたら割に合わないって、一ノ谷のおっさんが言ってた」
「そうと知っていても、砦での防備に参加したいんだ?」
「なんもないってわかってるのに、ずっと見回りをするよりはマシだろ」
どうやらここのところずっと、それこそリクたちがこの都市へ来た頃には既に、両軍は膠着状態となっていたらしい。
なので今は実質、都市と国軍の対立による戦闘は起きておらず、必然死傷者も居ないのだと。
なんとも肩透かしを食らうものだけれど、それでも度々国軍が攻めてくるのは、単純に易々と自治を認める気が無いという意思の表れ。
けれどあちらの立場を考えてもみれば、そうするのが当然と言えば当然にも思える。
「なんだか急に馬鹿らしくなってきた……」
「そう言うなってクルスー。前線に入れて貰えない子供同士、一緒に遊ぼうぜ」
「ボクは一応成人してるんだよ、だから本来なら向こう側。っていうか遊んでる訳じゃないから」
思っていたそれとは異なり、この都市を取り巻く状況は思いのほか平穏。
てっきり国軍と常に戦闘を繰り広げ、多くの死傷者が出るような状況を想像していただけに、肩透かしを食らった感は否めない。
だからこそこうしてリクとリアもノンビリ巡回の役割を与えられているのだろう。
別に戦闘へ参加させられるような事態を求めているとは言わないけれど。
ボクはなんとなく力が抜けてしまい、張っていた緊張感が霧散していくのを感じる。
本当はこんなところで悠長にしている場合ではない。早く首都リグーに行き、調査をしなくてはいけないのだ。そのために危険な国境越えを試みたのだから。
しかしふと袖を引く感触に気付きそちらを見てみると、服を引っ張るリアがボクの顔を覗き込んでいた。
「一ノ谷が言ってた。そのうち戦いが起きるって。だから人は必要」
ポツリポツリと呟くような喋りの彼女は、ボクへと自分たちの意義を主張する。
今はまだこのように、少々緊張感が無い対立ではあるけれど、いずれ国軍が本気で落としにかかる日が来ると言いたいようだ。
少なくともあの人、イチノヤはそう予想しているようで、リアの目はどこか真剣だ。
「……わかったよ。気を抜かないようにしておく」
「そうして。わたしたちも、クルスが危なくなったら助ける」
どうやら彼女、淡々とした喋り方をするものの、それに反しなかなかに責任感というか使命感のようなものが強いらしい。
ボクが警戒を続けると口にすると、ほんの少しだけ笑みを浮かべ、碌に戦えぬボクを守ってくれると告げた。
年下の少女にそう言われ妙な感情を覚えるも、実際勇者としての血を上手く使いこなせないボクより遥かに頼りになる存在だ。
それに考えようによっては、これはこれでアバスカルの内情を探る好機。
本来の目的である、"黒の聖杯"に関する情報を集めるという役割が果たせなくても、アバスカル国内の情勢という情報は手に入る。
ゲンゾーさんやクレメンテさんが求める情報とは異なるだろうけれど、手土産としてはこの上なく有益な筈だった。
「クルス、なんか悪い顔してねーか?」
「悪い顔。してる」
そんなボクの思考は表に出てしまっていたのは、リクとリアは揃ってジトリとした視線を向けた。
彼らの鋭い指摘を、軽い咳払いでなかったこととし、ボクは話を逸らそうとする。
けれど何か適当な言葉を用いお茶を濁そうとした時、どこからともなくボクの名を呼ぶ声が聞こえる。
いったいどこからと思い周囲へ視線を巡らすと、坂の下から走る人影が目についた。
髪を振り全力で駆けてくるその姿は、この目で見間違おうはずがない、サクラさんのそれだ。
どうやら彼女も砦ではなく都市での警戒という役割を担っていたらしく、その最中にボクの姿を見つけたのかもしれない。
そして彼女の背後には、……当然のようにカガミが。
ボクはどう対処したものかと困惑するのだけれど、そんなことは関係ないとばかりに、近づいてきたサクラさんは腕をガシリと掴む。
「クルス君、こっちに灰色の帽子を被った男が来なかった!?」
突然腕を掴まれ、ボクは手近な路地へと引っ張り込まれる。
サクラさんの妙な行動によって、さらに混乱は深まる。またカガミに妙な圧を食らってしまうのではと考えたためだ。
けれど今はそれどころではないのか、それともそういった気分ではないせいか、カガミもこれといった反応を示さない。
その代わりにとばかり、路地へ入ったサクラさんが声を潜め問うてきたのは、ひとりの男を見なかったかというもの。
「帽子、ですか? フードの人なら多いですけれど……。その人がどうかしましたか?」
ここいら一帯はそれほど雪が降りはしないけれど、標高の高さもあってある程度は寒いため、フードをかぶった人なら何人も見かけた。
けれど帽子となるといまいち記憶に残っていない。
ボクは今まで、サクラさんへ極力近づかぬようにしていたことを横に置いておき、その人物がどうかしたのかを問う。
「接触してきたのよ。まさか本当に来るとは思ってもみなかった」
「って、もしかしてアバスカルの――」
「しっ、声が大きい。この話を聞かせる訳にはいかないんだから」
ボクがハッとし声を上げようとすると、サクラさんは口を塞ぎ人差し指を自身の口元へ。
こうしてコソコソ路地に入り込んでいる時点で、怪しく思われているのは間違いない。
けれどこの話を聞かせると言うのはマズイ。万が一、聞かれた相手が国軍の送り込んだ間諜である可能性は捨てきれないのだから。
「2人でなにをして?」
当然のように、リアが路地を除き込み小首を傾げる。
彼女の背後には弟のリクが。そしてさらに後ろには、どこか面白くなさそうなカガミが。
勇者と召喚士という間柄、そこにある程度他の人間には聞かせられない秘密があって当然。
それはリクたちもわかっているはずであり、ボクは少しだけ彼らの方を向くと、"気にしないで"といった意味を込めた苦笑いを送る。
とはいうものの、ボクらがイチノヤから別命を受けている事くらい、彼らだって勘付いているはず。
すぐさまそこに思い至ったのか、まだ少年少女という齢であるというのに、気を利かせたようでリクとリアは口を噤む。
一方のカガミも若干面白くなさそうな表情をしつつも、口を開くことをなんとか自制したようだった。
「ゴメンね、ちょっとクルス君をもらっていくから!」
そう告げるサクラさんは、ボクの腕を引くと路地の奥へと進んでいく。
ほぼ持ち上げられるような勢いで走り、幾度かの角を曲がりながら、ボクはサクラさんの顔を見上げる。
こうして言葉を交わすのは、触れるのは2日ぶりか。
「えっと、こっちで合ってるんですか?」
「さあ? どのみち見失ってるんだから、捜し歩くしかないでしょう。それに――」
サクラさんへと、見つけたという男についてを問うも、どいうやら当てずっぽうでこちらへ走っているらしい。
それにしてもまさか、本当に国軍の間諜らしき相手が接触してくるとは。
サクラさんは現在、この都市においてかなり目立つ存在だ。
アマノイワトの守備隊で最も強いのはイチノヤだけれど、その彼が自ら連れてきた他国の勇者という噂は、既に町中へ広まっていた。
もちろん人の口に戸を立てられぬというのもあるが、イチノヤによって意図的に広められたために。
ともあれそのせいでサクラさんは、下手をすればイチノヤに次ぐ実力すら持っているのではという噂が独り歩き。
その反面自ら望んで来た訳ではないという、これまたイチノヤが意図的に広めた話も伝わっているため、そういった手合いが接触する可能性は常に存在した。
なのでいつ来てもいいよう覚悟をしていたサクラさんだったけれど、本当にこうも簡単に釣られるとは思ってもみなかったらしい。
「それに、なんですか?」
「ちょっとだけあの子と離れる時間が欲しかったのよ。……別に悪い子じゃないんだけれど」
ただこうしてボクを引っ張っていったのは、なにも捜索だけが目的ではなかったらしい。
サクラさんはちょっとだけ困った様子で、切実な言葉を口にした。
彼女自身はカガミから発せられた異様な気配に気づいていないのだとは思う。けれど四六時中隣に居るというのは、少々気疲れするものがあるようだ。
ではボクが隣に居るのはどうなのだろうと、不意に気になってしまうのだけれど、それを考える前にサクラさんはドキリとする問いを向けてきた。
「クルス君は、あの子のことが嫌い?」
「別に嫌いってわけでは……」
「でも避けているじゃない。最初は私が機嫌を損ねたのかと思ったけれど、様子を見る限り理由は加賀美の方ね」
こういったところはやはり鋭い。というよりもボクがわかりや易ぎるのだと思うけれど。
あれだけ露骨にサクラさんを避けていたのだから、今更言い訳がましい言葉を吐くこともできず、どう説明したものかと悩む。
案外サクラさんは、不審な輩を追いかけるという目的もあるが、ボクにこの話をするというのが主な理由だったのかもしれない。
ただ彼女はそこを聞いても答えが返って来るとは思わなかったようだ。
立ち止まると小さく肩を竦め、そのうち聞かせて頂戴とばかりに前を向いた。
「……これはもう見つからないかもね」
そう呟くサクラさんは、ボクの頭へポンと手を置くと元来た道を戻る。
ゆっくりと歩を進める彼女の様子は、まるでちょっとだけ時間を使って帰ろうと言わんばかり。
ボクは久方ぶりに二人だけで行動する時間に、ほんの少し穏やかな気分になれるのであった。