地喰らい食らい 03
サクラさんの背後へと躍り出た黒い影は、全てが巣へと戻ったと思っていた、巨大な蟻のものであった。
ボクがハッとし叫ぼうとするも、既にその鋭い顎はサクラさんへ向け唸りを上げる。
しかし彼女はボクの反応で察したか、それとも気配を感じ取っていたのか、表情一つ変えることなく素早く振り返る。
「クルス君、ちょっと火を熾して頂戴!」
振り返るなり腰に差していた短剣を引き抜き、視界にとらえた大蟻を叩き落とすサクラさん。
6脚ある大蟻の脚。その根元へ向け、彼女は手にした短剣を突き刺しながら叫ぶ。
いったいどういった意図かと困惑するも、とりあえずボクは背負っていた背嚢を降ろし、中から着火に必要な道具を取り出した。
火打ち石で火花を散らし、燃えやすい繊維へと火を移す。
それを木片へ灯すと、サクラさんへと手渡した。
「えっと、どうするんですか?」
「いいから見てなさいって」
いつの間にか脚の全てを落とされ、身動きできなくなった大蟻。
そいつへと歩み寄るサクラさんは、適当にそこいらの草を刈って蟻へ被せると、受け取った火を放り投げた。
草へ、そして蟻の身体へと燃え移る炎。
こんなことをせずとも倒せるはずなのに、いったいどうしたのだろうかと訝しむ。
けれどサクラさんはその光景をしばし眺めた後、難しい表情をし肩を落とした。
「やっぱり厳しいか」
「燃え……、ませんね」
「どうやら火への耐性が高いみたいね。巣に火でも放てば楽かと思ったけど、この様子だとたぶん無理」
サクラさんが試みていたのは、この大蟻に火が有効であるか否かであった。
けれどその試みは、彼女の期待通りとはいかななったらしい。
蟻は脚を失った事で身動きこそ出来ないものの、自身に纏う炎に対しては、さして影響がないように見えた。
もちろん延々燃やし続ければ、流石にいずれは力尽きるに違いない。
ただそれがいつかもわからず、下手をすれば1000体に上るかもしれない魔物相手に使うには、少々首を傾げざるを得ない手段だと思う。
「けれど、どのみち火を使うのは難しいと思うけどさ」
「下手をすればこの辺り一帯が焼野原ですからね。……そうなればお説教では済まないと思います」
それにどのみち、魔物退治の方法として火を使うというのは難しいはず。
なにせここは草原地帯。下手をすれば草へと燃え移ってしまい、辺り一帯が火の海となってしまう恐れが捨てきれないのだから。
海が近いため、ボクら自身は逃げるのに苦労はしないだろうけれど、それでももし森の方にまで延焼してしまえば大事だ。
もしそうなったとすれば、騎士団からはきっとこう言われることだろう。
「調査や破壊は依頼したが、焼け野原にしろなどとは言ってない!」と。
「今襲ってきたのを見る限り、かなり凶暴そうだから、出来るだけ直接の対峙は避けたかったんだけど……」
「火がダメとなると、水でしょうか? 幸い海水ならいくらでもありますし」
「たぶん虫にはそっちの方が効果的かも。でもどうやって巣まで運ぶのよ?」
最初に襲ってきた時も、サクラさんの背後から襲い掛かってきた時も、かなりの攻撃性を露わとしていたこの大蟻。
今もなお火に撒かれながら生きているそいつは、尋常ではない個体数もあって、単純な戦いに持ち込むのは流石に気が向かない。
となれば一挙に殲滅するべく、ボクは背後の海を利用できないかと口にした。
当然サクラさんはすぐさまその問題点を口にする。
けれど一応試しにとばかり、燃え続ける大蟻へと短剣を刺し、背後の海へと放った。
すると意外に重さがあるせいか、そいつは沈んだきり浮き上がって来ない。
そしてものの1分ほどで、大蟻は浅瀬の中で身動き一つしなくなるのだった。
なんだか子供の頃に、地面を這う虫で遊んでいたことを思い出す。
子供ゆえの無邪気な残酷さを今になってやっているようで、少しばかり気まずい想いをしてしまう。
「水は有効、と。運ぶ手段に関しては追々考えるとして、……クルス君」
「なんですか?」
海水による水攻めが有効であると確認するサクラさん。
彼女は大きく頷いて納得を露わとすると、目線を合わせることもなくボクの名を呼んだ。
いったいなんだろうかと思うボクへと、彼女は静かな調子で、妙な説明を口にしていく。
「私は蟻についてあまり詳しくはないんだけど、こういった群れで生息する昆虫って、中にはものすごく仲間の危機に敏感な種が居るのよね」
なにやら意味深な、サクラさんの言葉。
いったいそれにどんな意図があるのかわからぬままで、彼女の声に耳を傾けていく。
「蜂とかが特にそうね。1匹が攻撃されたら、群れそのものを攻撃されたと判断し、一斉に襲い掛かってくる」
「聞いたことはありますけど……。その話がどうかしたんです?」
「……いや、コイツらもそういった習性があるのかなって」
そう告げるサクラさんの顔に、一筋の汗が流れる。
気付けば彼女の表情は若干強張っているようで、その視線はボクの背後へと向けられていた。
ボクは急激に嫌な予感がし、促されるように振り返ってみる。
視線の先、春の盛りによって濃くなった緑が広がっているはずの草原。
そこを埋め尽くさんばかりに黒く染めていたのは、ゆっくりと移動する大蟻の大群。
波打つように接近するそれは、まるで夜闇のように真っ暗で、鋭い牙の如き口を噛み合わせカチカチと鳴らしていた。
「燃やしたのがマズかったのか、それとも海に沈めたのが原因かしら?」
「……両方、じゃないですかね」
「それなら仕方ないか。もしあれを人間に置き換えたら、相当に非道な真似だものね」
そう言って、軽く笑うサクラさん。
けれどボクにはわかる、その声が決して愉快さを纏っていないことを。
そんな感想を肯定するように、サクラさんはボクの腕をガシリと掴む。
彼女はそのまま急ぎ肩へと担ぐと全力で跳躍、大量に迫る大蟻から逃走を図るのだった。
ボクを抱えたサクラさんは、まさしく脱兎のごとく草原から逃げ出す。
脇目も振らず、海水に自身が濡れるのも厭わず。
ただひたすらにおぞましい光景から逃れるべく、己が全力で大蟻の群れから逃走を続けた。
抱えられ後ろを向くボクは、徐々に遠ざかっていく黒い波に安堵する。
ただサクラさんはそれでも念の為か、かなりの距離を駆け続け、一度として止まることなくカルテリオまで辿り着いた。徒歩で半日はかかるような距離を。
相変わらず勇者の無尽蔵な体力に驚くばかりだ。
「えっと、代わりに報告をしてきましょうか?」
「お、おねがい。ちょっと、もう限界だから……。あとは任せた」
ただ流石に息は上がってしまったようで、正門をくぐるなり警備に立つ騎士から、何杯もの水をもらうサクラさん。
少しばかり親交のある女性騎士へと、限界を迎え荒く息を吐くサクラさんを任せ、ボクは一人協会支部へ行くことに。
都市全体を壁に囲まれた、カルテリオの農業区画を抜け市街へ。
そこから大通りを抜けて辿り着いた協会支部に入ると、ボクの姿を見たクラウディアさんが、意外そうな表情を浮かべる。
「随分と早かったじゃない。もしかして忘れ物でもして戻ってきたとか?」
彼女は相変わらずうず高く積み上がった書類との格闘を中断、ちょっとばかり冗談めかした言葉を口にしながら立ち上がった。
彼女は目の前に置かれたそれらに辟易しているようで、休憩がてらかボクの方へと歩いてくる。
「そういえばサクラはどうしたの? まさかこんな時間から酒場に繰り出してるんじゃ」
「いえ、実は……」
そのクラウディアさんは、すぐさまサクラさんの姿が無いのに気付く。
別に四六時中一緒に行動している訳ではないのだけれど、それでも依頼の最中はまず共に行動しているだけに、この場に来ていないのが不思議だったようだ。
ボクはそんな彼女へと、ここまでの事情を説明する。
草原へ行き調査対象を発見するも、そいつが巨大な蟻型魔物の巣であったこと。
地中まで巣が伸び、かなりの個体数が居るであろうこと。そして水攻めはともかく、まず火による攻撃が通用しないことなどを。
そんな話を聞いたクラウディアさんは、しばし押し黙る。
まさか信用して貰えていないのだろうかと不安になるも、実のところはそうでなく、なにかを思い出そうとしているようだった。
彼女は少しして小さく頷くと、突然カウンター向こうの部屋へと引っ込んでしまう。
「えっと、クラウディアさん……?」
「ちょっと待ってな。確かこの辺りにあったと思うんだけど」
そこでなにかを物色しているようで、物が落ちる音や戸を開く音などが、こちらにまで漏れ聞こえていた。
口振りからすると、きっと何かを探している。
「あったあった。もう随分と古いもんだから、保管が大変で奥にしまい込んでいたんだよ」
ようやく目的の代物を見つけたらしきクラウディアさん。
彼女は埃だらけとなった髪や衣服を払いながら、とある物をボクへ差し出してきた。
そいつはかなり古ぼけてはいるけれど、一冊の本。
古い年代の物にしては珍しく、紙を使って作られた高級品だ。
装丁もかなりボロボロであるため読み辛いけれど、おそらくは過去にカルテリオ近郊で発生した、魔物に関する記録を纏めたものであるらしい。
「この町に勇者が多く住むようになって、アタシも少しは勉強するようになったんだよ。新入り共になにか聞かれて、答えられないのも癪だからね」
クラウディアさんが渡してくれた本を丁寧に持ち、ゆっくりとめくっていく。
どうやらこいつには、魔物の特徴やらなにやらが克明に記されているようで、彼女は古い記録であるこれを以前に引っ張り出し、参考にしようとしていたのだと。
そしてこの中に、説明したような大蟻型の魔物が記載されていたと言うのだ。
「魔物が出現を始めた頃と今とでは、連中の顔ぶれもかなり違うらしい。今では見なくなったのも多いけど、たぶん君とサクラが遭遇したってのは、その内の一種だと思う」
「どうやらそうみたいですね。ボクらが見たのも、ここに載っている絵と同じヤツです」
少しばかり捲っていくと、探している対象を見つける。
真っ黒な体色に、小柄な人間ほどもある体躯。そして強靭な顎と凶暴性に、盛り上がった土の巣を築くという習性。
記されている内容は、なにからなにまで見てきた物と一致する。
どうやらこれが記された何十年も前、魔物が出現を始めた初期頃、カルテリオは相当こいつの被害を受けていたようだ。
そして対処を行うため仔細に観察を行い、結果どういう手段を講じたのかすら記されていた。
「どう? 役に立つかな」
良い物を見つけただろうと言わんばかりなクラウディアさんの表情。
ボクは丁寧に本を閉じると、彼女に向き直って小さく笑み呟いた。
「ええ、とても」