蠱惑の兎 10
普段よりも少しばかり早い時間。
まだ太陽も落ちきっていない夕刻に、ボクとタケルは揃って件の店に入っていった。
事前にサクラさんからは、主だった面々が町を離れるとは聞いている。
それはどうやら明日以降の話らしいけれど、いつもであればボクと顔を合わせていた女の姿はなく、代わりに接客してくるのは別の女性。
ただ出立の準備をしているだけで、店の中には居るとのことだった。
ボクはその女性に案内され奥へ向かい、上等なソファーへ腰かける。
「き、今日も来て下さったんですね……」
接客をする女性は、目の前に置かれたグラスへと、注文をしていない軽めの果実酒を注ぐ。
おそらくはこの人、無理やりに悪事へ加担させられている人なのだと思う。
昨夜ボクらの泊まる宿へと、助けを求めに来た女性によれば、好き好んで協力している訳ではない人が何人も居ると言っていた。
見れば昨夜の女性も視界の端に映り、こちらへ意味深な視線を送っている。
「すっかりこの店にハマってしまいまして。お邪魔でしたかね」
「い、いえ……、そんなことは。ところでお連れの方とは、ご一緒でなくてもよろしいのですか?」
女性は困惑した様子で、ボクへと連日の来店の真偽を問うような言葉を向ける。
おそらく昨夜の女性は、救いを求めて来たことを他の人間には話していないらしい。
賢明だと思う。何処で誰から漏れるとも知れないのだから。
ボクの真横に座る彼女は、チラリと店内の隅へ視線を向ける。
そこにはタケルが座っており、何人かの女性を周囲に侍らせ、既に大きな笑い声を上げていた。
「いいんですよ。半ば無理やり付いてきたようなものですし、互いに別々の方が気楽です」
ただボクはその問いに、素っ気ない素振りを作って返す。
タケルとは当然一緒に来たのだけれど、扱いとしてはこういったほぼ他人に近い扱い。
というのもとある目的のため、特別近しい関係であると思われるのが好ましくなかったのだ。
ただ完全な他人のフリをするのは難しい。なにせ初日、あれだけ一緒に同じ席で酒を呑んでいたのだから。
ボクはそこから、女性の酌を受けつつ度数の低めな酒を呑んでいく。
ただその女性はこれまでの人と異なり、あまり積極的に例の薬品を勧めようとはしてこなかった。
たぶん罪悪感もあろうけれど、上から指示をしてくる例のリーダー格な女が、今は目を光らせていないため。
正直助かる。事前に効果を抑える薬を飲んだとはいえ、あまり口にしたい代物ではないのだから。
チョッコレイトとかいう菓子が目の前へ出てこないことに、ボクは密かに安堵する。
ただそんな時だった。店内で突然に大きな声が上がり、幾つかのグラスが割れる音が響いてきたのは。
「ふっざけんな!!」
音のした方へ視線を向ければ、そちらでは立ち上がったタケルの姿が。
彼は激昂したように手にしたグラスを床へ叩き付け、肩を震わせていた。
「こんな物を俺に食わせようってのかよ! 俺は勇者だぞ、なに考えてやがんだ!」
どうやら始まったようだ。
タケルは事前に"打ち合わせていた通り"に、機を窺って店内で騒ぎを起こしてくれていた。
見ればタケルの前に置かれたテーブルの上には、例の薬物混じりなチョッコレイトが置かれている。
接客をする女性によってはアレを出していたようで、タケルはこれ幸いと立ち上がり、大きな声で喚いている。
けれど若干棒読み臭い。やはり当人も言っていたように、あまり演技が得意ではないのかも。
ただ酒が入っているというのもあって、その下手さもあまり気にならないのが救いに思えた。
「お、落ち着いて下さいお客さん……」
「なにが落ち着けだ。こんな危険なもんを客に出しやがって、すぐ騎士団に通報してやる!」
宥めようとする女たち。しかしタケルは当然のようにそれを払いのける。
そもそも勇者や召喚士というのは、騎士団の一員であるのだからそういった反応をされるのが当然。
ボクに関しては薬物に狂って協力を口にしていたことで、たぶん女たちは変に勘違いをしていたに違いない。
タケルが騎士団への通報という言葉を発したことで、女たちは俄に色めき立つ。
いくらこの町の騎士団が抱き込まれているとはいえ、そこへ勇者が駆け込もうものなら、流石に町の人間たちの目を引いてしまう。
そうなるとこの町で暮らしている女たちにとっては、相当に困る事態だと言えた。
「これはいったい何事?」
そんなタケルが憤慨する様子を眺めていると、店の裏から一人の女が現れる。
……居た。今までボクに対し薬物入りの菓子を渡し、協力者に仕立て上げようとしていた女が。
ヤツは他の女から事情を説明されるなり、険しく表情を歪め女たちへ指示を出す。
「騎士団そのものは怖くない、けどあまり騒ぎになるのは……。早くなんとかなさい!」
「そ、そのようなことを言われましても……」
やはり人の目を引くのは避けたいようだ。
周囲へ指示するあの女からは、これまで見たことのないような狼狽が漏れ出していた。
となればここが好機。
「仕方ありません、ボクがあの人をなんとかしますか」
「え……?」
「不本意ではありますが、一応連れてきた責任がありますから。それに、邪魔をされては面白くない」
そんなタケルが憤慨する演技をしている中、ボクは立ちあがり女へ近づくと静かに告げた。
返される言葉も待たず、タケルの方へと歩いて行くボクに対し、例の女は止める素振りを見せようとしない。
タケルが脅し文句を発した状況に在って、おそらくボクの存在はあの女にとって渡りに船に違いあるまい。
特に召喚士という立場もあって、勇者の扱いには成れていると考えているはず。
そんな妙な思い込みと、動揺し平静な思考が揺らいでいるヤツの状態を利用させてもらう。
ボクが歩いていくと、タケルはギラリとこちらを睨む。
「なんだ、まさかこれを黙ってろってんじゃないだろうな!」
「とりあえず落ち着きなよ。今ここで騒いだって、ボクらに得はないんだからさ」
「なんだと……」
もっともこの流れは、当然のように事前に想定していたもの。
タケルに、そして一応サクラさんにも話しておいた即興の策ではあるが、今のところ上手くいきそうに思える。
なんだかすっかり悪役気分となったボクは、ニヤリと笑むタケルに近づく。
全てはこの実権を握っているであろう例の女に、少なくともボクが協力の意志有りと認識させるために。
チラリと一瞬だけ見てみれば、ヤツは表情こそ平然としてはいるが、内心の動揺が滲んでいるのか額に汗しこちらの様子を窺っていた。
「どうだ、クルス。俺からは周りの様子がよく見えないんだが……」
グッと肩を組み、タケルへと説得するような素振りを見せる。
たぶん周りで見ている女たちには、その通りな光景に見えているに違いない。
けれど実際に囁くように話しているのは、これからの行動について。
光源の位置関係のせいもあって、タケルからは周りの様子が窺い辛いようだ。
「大丈夫だよ。今のところは、上手くいっていると思う」
「俺みたいに大根な演技でも案外役に立つもんだな」
「ダイコ……? なんだかよくわからないけど、今の状況はこっちにとって好機だ」
従業員の女たち全員ではないけれど、例の薬物を摂取させられている者も居るとのこと。
居丈高なリーダー格の女も同様であり、おそらく多量の摂取はしてこそいないものの、判断能力には若干の悪影響が出ているようだ。
雰囲気作りのためか、わざと店内の照明が暗めにされているのも、下手な演技を隠す一助となってくれている。
「それじゃ任せたぜ。俺は良い感じの所で逃げ出すからよ」
「了解。とりあえずこの場は任せて」
ボクはそう言って、幾ばくかの貨幣を懐から取り出す。
わざと見えやすいように取り出したそれは、普段であればあまり使う機会などない高額貨幣。
大抵は土地や武具の購入、もしくは商取引などで見せ金として用いられるそれを、タケルのポケットへと捻じ込んだ。
傍から見れば、怒り狂った勇者を金銭で懐柔したように見えるはず。
それに説得力を持たせるかのように、タケルは荒げていた声を鎮め、わざとらしい舌打ちをし店から出て行くのであった。
「……あ、あんた達! 今の男を……」
「大丈夫、彼は口外したりしませんよ。帰しても問題はありません」
ただ店を出るタケルの姿に、リーダー格の女はハッとし引き止めさせようとする。
ボクはそれをさせる訳にはいかないと、女を引き留める言葉を発した。
当然女はボクに対し、鋭い視線を向けてくる。
「どうしてそう言い切れるんだい」
「あんな物を受け取った以上、言い逃れなんて出来やしません。もし本当に口外しそうになったら、ここに居る全員でそれを証言すると脅せばいい」
女の言葉に、用意しておいた答えを淡々と返す。
明確な根拠には乏しいとは思うも、焦りを覚えた上に薬物の影響が僅かなりと残る女には、こんな言い訳でも十分。
悪いがタケルには、少々悪党を演じてもらうとしよう。
たぶん事態が解決し女が騎士団に拘束された暁には、金銭を受け取ったタケルの件を掘り起こそうとするはず。
もっともその時には、本当の事情を話せば問題はない。
「……わかった。でも念には念を入れておく。そこのあんた、さっきの勇者を尾行しな」
一応ボクの言い分を受け入れてくれたか、女は首を縦に振る。
しかし完全には主張を信用はしきれなかったようで、店の従業員である女の一人に、タケルの所在を掴もうと指示を飛ばした。
ただここも予想済み、タケルには既に宿を移って貰うよう伝えている。
なにせ彼と同じ宿を利用しているとなれば、色々と疑われてしまう可能性が高い。
なので宿を出る前にサクラさんに頼み、ソニア先輩と一緒にタケルたちの荷物を別の宿に移してもらっているのだ。
「ともあれ助かった。流石にあたしらじゃ、勇者相手に歯向かったりは出来ないしさ」
「構いませんよ。これからはボクも共犯になるそうですし」
「……そうかい。ところでそんな共犯のあんたに、ちょいと頼みがあるんだけど」
指示を出したことで、ようやく少しばかり気を落ち着けられたらしい。
そこで女が持ちかけてきた"頼み"という言葉に、ボクは内心でニヤリと笑む。
具体的に何を求めて来るかはわからないけれど、少なくとも女はこちらのことを多少なりと信用する気になったようだ。
ボクは女が口にしていく内容を耳にしながら、この先に取る次なる行動を考え始めていた。