蠱惑の兎 04
手洗いの中で息を潜めていたボクは、少ししてその場から解放された。
単純に向こうで話をしていた人物たちが去っていったからなのだけれど、得体の知れぬ状況に晒された緊張感から、大きく脱力し壁にもたれかかってしまう。
そんなボクへと声をかけてきたのは、扉を開いたタケル。
彼は酒による酩酊感も露わな、緩んだ表情でボクを眺める。
「どうしたんだよクルス、こんな所で死にそうな顔して。もしかして吐いたか?」
「だったらもっとマシかも。……外に誰かいる?」
「トイレの前にか? いや、別に誰も居ないが」
「それは良かった。とりあえず出よう、出来るだけ早く」
用を足し始めたタケルへ確認をし、ボクは手洗いから顔を出し周囲を探る。
ただ店の奥まった場所であるというのもあってか、人の目はなくそのことに安堵する。
どうやらさっきの2人は、とっくに何処かへ行ってしまったらしい。
けれど少なくとも内片方は、この店の人間だと思う。
でなければこんな場所で密談らしきものを交わしているはずがなく、その人に見つからぬよう、用を足し終えたタケルを連れ素早く移動するのであった。
店の人を急かし会計を済ませると、とっぷり日の暮れた小都市"ユノサト"を足早に歩く。
タケルはもう少し居たかったようだけれど、その欲求を叶えてはあげられない。
さっき聞いた話が、いったいどういったものかは定かでないけれど、あまりあそこに長居をして良い流れになるとは思えなかった。
「どうしたんだよいったい。折角珍しい酒を出してくれるって言ってたのに」
身体が痛むのを無視し、ボクはタケルを連れ歩き続ける。
どうやら彼は手洗いから戻った後で、少々楽しみにしていた酒が待っていたらしい。
気持ちとしては理解できるけれど、彼にその営業に乗らせてあげる訳にはいかなかった。
そこでボクは宿へ戻りながら、小声で事情を説明する。
ただタケルはその話に対し、最初は半信半疑。酔いもあってかこれが冗談の類であると思ったようだ。
けれど真剣な調子で口にするこちらの態度や、歩いて徐々に酔いが覚めてきたのもあってか、徐々に表情は真剣なものへとなっていく。
「だがあの店は、どこかの勇者が経営してるんだろ。そんな店で悪さをするもんかね」
「ボクも最初はそう思ったけれど、さっき一度でもそれらしい人を見た?」
「いや、そういえば居なかったな。客の中には居たがよ」
おそらく出資したという勇者たちは、基本的にこの町には居ないはず。
なにせ物価が異様なまでに高く、基本的には暮らすのに向かない町なのだから。
なので普段は各々が拠点とする町で、本来の役目である勇者稼業を営んでおり、店の経営そのものは誰かに委託しているのでは。
もっともその勇者たちが、今さっき客としても来ていたならその限りではないけれど。
「なら騎士団にでも通報しておくか。俺らじゃどうにもなんねーし」
「いや……、それは止めておいた方がいいかも」
ボクが焦燥感を露わとするのに反し、タケルはどこか乗り気ではなく、騎士団に投げてしまえばいいと口にする。
とはいえそれも当然で、直接やり取りを聞いたボク自身でさえ、あれが悪事に関わる内容であると断言はできなかった。
けれどこれはあくまでも予想や予感の類であり、まだ騎士団に助けを求められるような段階ではない。
それに騎士団に通報できないのは、もう一つ理由がある。
完全には聞き取れなかったけれど、女の片方が言っていた言葉が気になって考えていた。
おそらくそれは、"連中の中にも協力者は居る"といった内容なのだと思う。
「ていうかさ、そもそも首を突っ込まなくてもいいんじゃないのか? どうして自分でなんとかしようとするんだか」
「……そこを言われると反論が難しいけど、案外サクラさんの悪癖が移ったかも。あの人ってああ見えて、何気にお人好しなところがあるし」
「そうは見えないがなぁ……」
横から少しばかり視線を細め、タケルはボクを眺め呟く。
言いたい事はわかる。このまま知らぬフリをし、療養だけを終えて帰ってしまうというのが、最も無難な行動なのだと。
きっとサクラさんにこれを相談したら、タケルと同じことを言ってくるに違いない。
けれどなんだかんだで、結局首を突っ込んでしまう気がしてならなかった。
彼女は基本的に人前では澄ましているけれど、何気に直情的な性格をしている。たぶん予期せぬところから事態に足を踏み込んでしまうのだ。
タケルにそれを言っても、たぶん呆れられるか怪訝そうにされるだけ。
これは近しい相棒であるボクだからこそ抱く、一種達観にも似た感情なのだと思う。
「そういうもんかね。……まあ、実際にどうかはすぐわかるだろうがよ」
「え?」
「嫌な気配がビンビンしてるぞ。たぶん居るな」
突然立ち止まるタケル。
彼はなにやら意味深な言葉を発し、辿り着いた宿の入り口を凝視した。
一瞬意味がよくわからず、前方を窺う。
ただボクにもすぐ、タケルが何を言わんとするのかが理解できた。
なにせ宿の入り口からは妙に禍々しい気配が漏れ、近くで眠っていたであろうネコすら怯え、身を縮めていたのだから。
あの向こうにナニが存在するのか、言われずともわかる。
「覚悟しろよクルス」
「……覚悟っていうか、もう諦めた。連れ出したことを恨むよタケル」
間違いなく、あの扉の向こうには彼女が居るはずだ。
それも戻ってきたボクらを、今か今かと待ち構える肉食獣のような心持で。
顔を見合わせたボクらは、息をのみながら扉へ手を掛ける。
そして意を決し開いた先には、案の定腕を組んで立ち、ジトリとした冷たい視線を向けるサクラさんが居たのだ。
「た、ただいま戻りました」
「お帰り。随分と楽しい思いをしてきたみたいね」
戻って来たことを告げるも、彼女から返されたのはズシリと重く圧し掛かる気配。
表情には笑顔が浮かんではいる。けれどきっと怒気の類であろうその声は、他に人の居ない宿の玄関でボクらを襲った。
「私はクルス君を信じていたのよ。自分では大人だって言いながらも、実は背伸びしてるだけの小心者な子だって」
「それは……、どう受け取って良いものやら」
一歩、前へ出るサクラさん。
それに反し、ボクとタケルは同時に一歩下がり、圧力を受けまいと逃げ腰になった。
彼女はそんなボクらの姿を見て、深く息を吐く。
草木すら枯らしかねない時の空気を吐き終えると、今度は大仰に腕を広げ声を張る。
「それがこんな、宿を抜け出して大人の店に行くような子に育っちゃって。……お姉さんは悲しい!」
けれどさっきまで怒気満載だったサクラさんの気配は、ここで一気に霧散していく。
代わりに纏うのは、愉快そうな軽い雰囲気。
いったい急にどうしたのかと思うも、視界の端にソニア先輩の姿が映るのに気付く。
よくよく見れば、彼女は小さく笑みを溢している。
ということはどうやら、宿へ戻ってきたボクらをからかうつもりで、2人揃って小芝居を打っていたようだ。
「で、どうだった?」
「どうだった、と言われますと」
「だからあの派手な店に行ったんでしょ。さっき宿の人に、あそこが勇者の作った店だってのは聞いたんだけどさ、どんなのかまでは聞いてないのよね」
現在のサクラさんの態度を言い表わすならば、興味津々といったところだろうか。
一緒に外観を見た時には、あれほど無関心よりであったというのに。
いったい宿の人にどんな話を聞いたのかは知らないけれど、彼女の好奇心を刺激するような切欠にはなったようだ。
ボクはそのサクラさんの手を取ると、宿に取った自身の部屋へと引く。
突然の行動に面食らったであろう彼女は、困惑しながら妙なことを呟くのだ。
「ち、ちょっとどうしたのよ!? いくら温泉地だからって、そんな急に大胆な……」
「何を言ってるんですか。あの店について、少し話したいことがあります」
いったい何を考えたのか、サクラさんの顔は若干赤い。
これはこれで珍しいと思うけれど、今はそれを暢気に堪能している気はなく、杖を突きながら部屋に入っていく。
タケルとソニア先輩も部屋へ入ってきたところで、誰か居ないかを確認してから扉を閉める。
そして彼女らが椅子へ腰を下ろしてから、ゆっくり事情を話し始めるのであった。
「……それだけだと、なんとも言えないわね」
「確かにそうなんですけれど、なんだかとても不穏な気がして」
「本当なら騎士団に相談をして、後は任せちゃうってのが無難なんだろうけど……。それは危ないかもしれないと?」
「止めておいた方がいい気はします」
怪訝そうな、あるいは不審げな表情を浮かべるサクラさんとソニア先輩。
彼女らへと事情を話していくのだけれど、返される反応はタケルがしたのとほとんど同じモノ。
何故自分から首を突っ込むのかと言わんばかりなサクラさん。
ボクは一瞬だけそれに不満を口にしたくなるも、グッと飲み込む。
「これはあくまでも、君の想像かもしれない。しかも酒に酔った状態での」
「わ、わかっています」
「……人を動かすには説得力が足りないわね。でも――」
サクラさんがそう言うのも当然だ。所詮はボクが会話から察した空気に過ぎず、明確に誰かを動かす根拠足りえない。
ボクは容赦ない彼女の言葉に、ついつい項垂れる。
ただ下がった頭の後頭部へ囁くように、彼女は言葉を継ぐのだ。
「クルス君が突然口にする予感って、案外馬鹿に出来ないのよね。半分は勇者の血を引いてるってことだし、そういうスキルでも発現したのかしら?」
「それってつまり……」
「まだ半信半疑よ。けれど確認くらいはしてもいいんじゃないかなって思う、君の相棒としては」
サクラさんは上げたボクの頭に、ポンと手を置く。
そして穏やかな表情で、信用を表すに等しい言葉を口にしてくれた。
ボクはそんな彼女の言葉が嬉しく、つい目元が緩みそうになってしまう。
ただそれを指さして笑うサクラさんの様子に、再び不満で口を横一本に結んでしまうのだ。