甘き記憶 03
我ながら信じられない程に、猛烈な勢いで地面を蹴る。
瞬く間にゲンゾーさんの側へ達すると、ボクはそのまま真上を見て、覆いかぶさるように腕を振り降ろす魔物を睨みつけた。
手には金属と木材で出来た頑丈な弓。蹲っているサクラさんの横に落ちていた物を、駆けだす時に無意識で拾った物だ。
彼女が愛用しているそいつを、ボクは迷うことなく魔物に向けブン回した。
「退けぇ!!」
自身にしては珍しいと自覚のできる、ありったけの感情を乗せた怒号を発する。
その声と同時に振られた大弓は、カラシマさんであった魔物の脚を横から薙ぎ、大きく転倒させた。
激しく軋む弓、そして腕と身体。
自身の行動そのものに驚き困惑するも、今はそれどころではない。
使い物にならなくなってしまった弓をその場で投げ捨てると、急ぎポケットから小瓶を取り出す。
ボクが持つ薬品類は幾つもの種類があるけれど、こいつはその中でもとびっきり強力な"気付け薬"。
一度試しに自身へ使用したことがあるけれど、その時はあまりの刺激によって、逆に数時間も意識を失ってしまうほどだった。
けれど幻の中に引きずり込まれた勇者を目覚めさせるには、このくらいでないと。
「お願いです……、起きてくださいよ」
小さな願いを口にしながら、手にしたそいつをゲンゾーさんの顔面へとぶつける。
蓋を開き口に流し込む手間も惜しくやったそれは、彼の顔へと当たり砕け、強い異臭を周囲へ撒き散らした。
ボクはこれによって、この場の最大戦力であるゲンゾーさんが起きてくれるよう祈る。
強固で柔軟性のある金属を豊富に使用したサクラさんの弓は、さっきの攻撃によって曲がってしまった。
けれどそんな攻撃も、たぶん僅かな時間を稼ぐだけの効果しか得られてはいないはず。
それにおそらく、いや間違いなくボクの片腕は骨がへし折れている。
自分自身のした攻撃によって身体が耐え切れなかった結果であり、実のところ足もほとんど感覚がない。
痛みが過剰に過ぎるせいか、逆に苦痛らしきものは感じないけれど、骨が割れ筋肉の一部が千切れていくのが理解できた。
そんな状況では、もうここから逃げ出すことも叶わない。
これはほぼ賭けだ、絶望的と言っていいほどの。
その賭けに挑んだボクは、ゲンゾーさんが起きてくれるかどうかにチップの全てを投げ打った。
……けれど、一世一代の賭けは敗北に終わったのかもしれない。
「参ったな。ここで終わりだなんて」
ゲンゾーさんが起きるのを待つほんの短い間に、そいつは復活し起き上がってきた。
思いのほか攻撃は効いていたようで、ユラリ立ち上がり、辛うじて踏ん張っているという有り様。
それでも上半身は健在であり、鋭い爪の生えた腕を掲げるその姿に、ボクは小さく諦めの言葉が口を突いてしまった。
「いいや、よくやったぞ坊主」
しかし自身の命を諦めかけたボクの耳へ、ぼそりと発せられた声が届く。
声の主、ゲンゾーさんは一気に立ち上がると、勢いのままに大斧を真上へ向け唸らせた。
ついさっきまで、あれだけ苦しそうにしていた姿から一変。
ゲンゾーさんの身体は激しく伸び、魔物の身体を真正面へ捉え、縦に一本白い筋を奔らせる。
ここまでは意外にも堅実な防御と素早い動きによって、碌に攻撃を与えることは出来なかったのかもしれない。
だが脚をやられた今のヤツには、ゲンゾーさんによる剛力の一撃を防ぐ術は残っていなかったようだ。
「すまない、親友よ。坊主の献身に免じ、大人しく眠ってくれ」
ゲンゾーさんによる別れの言葉を受けた魔物は、縦に割られドサリと膝をつく。
黒い身体は傷口から徐々に崩れていき、腰の辺りで中から現れたのは、幾度か見てきた鉛色をした器の影。
黒の聖杯と呼ばれる、魔物を召喚し今では人を呑み込むことすらわかった、人の世界にとっての敵だ。
あいつを破壊しなければ、またカラシマさんのような目に遭う人が出て来かねない。
そう考え破壊しようと試みるのだが、ヤツは既に器の中から黒い粘性ある液体を溢し、魔物を召喚しようとしていた。
しかしそれを留めたのは、突然に突き刺さった1本の短剣だった。
ハッとして顔だけで振り返ると、視線の先に居たのは身体を地面に転がしたまま、腕を伸ばした体勢のサクラさん。
いつの間にか意識を取り戻していた彼女は、荒く弾む息のまま、腰に差していた短剣を投げつけたのだ。
黒の聖杯ごと、カラシマさんであったそいつは霧散していく。
せめて人であった時の身体くらいは残って欲しい。そうゲンゾーさんは期待したに違いない。
けれど結局後に残されたのは、魔物の身体へ取り込まれていた彼愛用の槍が1本のみ。
「ワシはどうやらお前さんに助けられたらしい。感謝する」
地面に落ちた槍を拾うゲンゾーさん。
彼は手にしたそれへ視線を落としながら、沈んだ声でボクへ感謝を口にした。
おそらくゲンゾーさんもまた、ボクと同様に幻の中に囚われていたのだと思う。
どうしてボクが先に目が覚めたかは定かでないけれど、ゲンゾーさんが困惑もなく攻撃に打って出たのも含め、結果的に救いだったかもしれない。
いったい彼がどんな内容を見せられたのか、気になるところではある。
けれどそれを言葉にして問うのは憚られ、ボクは動かぬ脚のまま再度サクラさんの方へと顔を向ける。
するといつの間にか彼女の方から近づいており、ボクは焦燥感に満ちた表情をする彼女へと、状態を問うた。
「大丈夫、ですか?」
「……最悪。こんなに酷い寝起きは初めて」
その問いに返すサクラさんは表情を険しくし、胸糞悪いと言わんばかりに大きく息を吐く。
彼女が見せられた夢の内容もまた気にはなる。
けれどボクの方は穏やかさすら感じる想い出であったのに反し、サクラさんが見たのは決して好ましくない記憶だったようだ。
「っていうか君の方が大丈夫じゃなさそうね」
「……正直指一本動かせません。怪我が酷過ぎて逆に痛みも感じませんし、喋れてるのが不思議なくらいですよ」
「とりあえず大人しくしてなさい。たぶん脳内麻薬が出過ぎてるせいで、痛みがわからないのね」
脳内麻薬というのが、どういったものかはよくわからない。
けれどサクラさんの言葉や視線からすると、どうもボクの身体はなかなかに酷い有様であるらしい。
碌に見ることすらできないけれど、自分の身体がかなり危ない状態であるというのは理解できる。
ただ外傷によるものではなく、自身の力に耐えきれず内側から破壊されているのだから、この場では処置のしようがない。
そのためサクラさんはボクの鞄を漁りながら、とりあえず使えそうな薬が無いかを問うてきた。
「痛み止めはどれ? いや、睡眠薬の方がいいか」
「……」
「今は私の提案に乗っておいた方がいいわよ。想像だけれど、たぶんもう少ししてからとんでもない痛みに襲われるはず」
徐々に朝日が昇り始め、朝靄のかかりつつある中。
サクラさんは鞄の中から、残り全ての小瓶を取り出し地面に並べていく。
「なら眠っておきます。痛いのは嫌なので」
「素直でよろしい。それで、どいつを使えばいいの。自分じゃ飲めないでしょ?」
「緑色の液体が入った小瓶を。全部だと二度と目が覚めなくなるので、3割ほどを」
「はいはい。なら口を開けて雛鳥みたいに待ってなさい」
ボクは彼女の勧めに、素直に従う事にする。
たぶんこの痛覚がわからない状態も、いずれは元に戻るのだとは思う。
そうなった時、悲鳴を上げるだけでは済まない苦痛に襲われるというのは、想像に難くない。
サクラさんは小瓶を開き、優しくボクの口へと当てる。
告げた量を少しずつ流し、ゆっくりと呑み込んでいった。
ただ本来はとんでもなく苦いはずなのに、今は痛みだけでなく味覚の方も馬鹿になってしまっているようで、まるでそれを感じられない。
とはいえ薬の効果の方は実感できるようで、徐々に意識が白濁していくのを感じる。
けれどボクはそんな中だからこそか、素面であればたぶん聞けないであろう、疑問が口を突いてしまった。
「サクラさんは……、どんな夢を見たんですか」
「あまり聞いて楽しい話じゃないわよ?」
「それでも、聞きたいです」
「我儘な子ね。わかったわよ、次に目が覚めた時にでも話してあげる。少しは痛みを紛らわす助けになるでしょ」
いつの間にか彼女の膝に頭を乗せていたボクは、サクラさんにちょっとばかり我儘を突き通してみる。
すると彼女はやれやれと言わんばかりに肩を竦め、目覚めた後に話すと約束してくれるのだった。
なんだかそれが夢の続きのようで、大きな負傷をしている状態だというのに、心地よく感じてしまう。
いっそこのまま怪我人でいるのも悪くはないかも。
そんな事を考えながら、サクラさんの膝の上に頭を預けたまま、ボクはゆっくり瞼を閉じた。