甘き記憶 02
次に視界が開けたのはさっきと同じ、お師匠様の家がある森の中だった。
昔のボクが見た光景を通じてであるため、自身の身体を窺う事は出来ない。
けれど端々に映る手や脚などから察すると、さっき見たよりもさらに数年先、おそらく10歳かそこらの頃であるように思えた。
『ティルタ! どこに居るの?』
ボクはその森の中を、今度は手に木剣を持たず走っていた。
その最中、舌っ足らず感が抜けたボクが叫ぶ名に、ちょっとだけ懐かしい記憶が蘇る。
"ティルタ"というのは、かつてボクが可愛がっていた犬の名前。
親犬とはぐれたのか、森の中を一匹だけで震えていたのを見つけ、拾って飼っていた。
もっとも当時それをお師匠様には言えず、こっそり家の裏手にある納屋の中で飼っていたのだけれど、今にして思えばたぶんお師匠様にはバレていたのだろう。
『居た居た。お腹空いたろう、今ごはんをあげるから』
ボクは納屋に入りティルタを撫でると、鞄の中から雑穀や野菜の端、それに自身の食事から抜いた肉を混ぜた、適当なエサを取り出す。
そいつをティルタが食べるのを眺め、水をあげると今度は遊びの時間。
敷かれた藁の寝床に身体を放り、同じように幼い犬とじゃれ合った。
『くすぐったいよティルタ。ほら、今日は新しいおもちゃを作ってきたんだ、これで遊ぼう』
次いで取り出したのは、木片を加工した犬用のおもちゃ。
前の木剣もどきとは異なり、ちゃんと刃物やヤスリで加工したそいつを、あまり広いとは言えない納屋の中で投げて遊ぶ。
共に楽しげであるボクとティルタの姿に、なんだかとても懐かしくなってくる。
ただおそらくこれは、ボクが召喚士となるべく騎士団へ行く少し前。
ティルタはこの後、結局お師匠様によってどこかの家に貰われていったらしいのだが、イマイチその辺りの経緯を覚えていない。
案外その辺りも、この幻が見せてくれるのかもしれない。
ボクは我ながら危険な状況であると知りつつも、どういうわけかこの穏やかな記憶に、抗う気が起きずにいた。
『少しだけ外で遊ぼうか。でも昨日魔物が出てきたばかりだから、家の近くだけだよ』
とはいえ幼いボクと子犬、狭い納屋の中だけで遊ぶのは物足りない。
ソッと外を覗くと、嬉しそうに扉を開け放つのだった。
このメルツィアーノは"不死者の町"と呼ばれ、近辺には非常に弱いアンデット型の魔物が定期的に出現する。
倒したり朝日を浴びると崩れ、土に戻ってしまうそいつは、非常に弱いながらこの地域の脅威となっていた。
どうやら前夜に魔物が出現していたらしく、納屋の周囲にはその魔物が変じた土の残骸が大量に積まれている。
結局それは魔物などではなく、黒の聖杯が操る土人形であったと知ったのは、この時よりもずっと後の話だ。
『こっちだよ、お師匠様は森の作業小屋に居るから、今のうち』
少しばかりヤンチャをするボクは、お師匠様の留守を狙って遊ぶつもりのようだ。
舌を出し興奮するティルタを連れ、軽快な足取りで家の周囲を走る。
ひたすらに無邪気だった頃の光景に、ボクの精神はなお穏やかになっていくのを感じた。
しかしそんな子供のボクは、走っていた足を突然止める。
どうしたのだろうかと思うよりも先に、ボクは楽しい時間を停止させる理由を察した。
視線の向かう先、家の在る少しだけ開けた場所と森との境に、ゆったり歩く骸骨の戦士の姿が見えたからだ。
普段であれば、決してこのような昼間に現れるはずのない存在。
しかしこの日は空が重い雲に覆われているためか、深い森が太陽の光を遮っていたためか。魔物は存在を保っているようだった。
『に、逃げようティルタ。お師匠様を呼ばないと……』
いくら普通の人ですら倒せる弱い存在とはいえ、なにせこちらは子供と子犬。
当然子供のボクは、自身で対処が出来る相手ではないと判断し、お師匠様を呼ぶべく踵を返す。
これが過去の記憶であるなら、ボクはきっとこの後無事に切り抜けるに違いない。現に無事で生きているのだから。
けれど引っかかるのは、こんな光景が記憶はボクに残っていないこと。
これだけ鮮烈な体験であれば、当然記憶に残っていてもいいだろうに……。
逃げようとする子供のボク。だがそれに反しティルタは、言葉に従わなかった。
ボクを守ろうとしているのか、前に出るとスケルトンとの間に立ち、身を低くして幼い呻り声を上げていた。
『ダメだよ! こっちにおいで』
陽の下に出て来れないのか、こちらを補足するも近付いては来ないスケルトン。
そいつへの敵意をむき出しにしたティルタは、自ら走り噛み付きに行くのだった。
慌ててその後ろを追いかけるボク。
しかし動物故の能力か、子犬とは言え思いのほか素早いティルタは、瞬く間に接近し噛み付く。
ただ素早さに反して、噛み付く力はとても強いとは言えないらしい。
実際には骨ではなくただの土の塊であるそいつに、大した傷を負わせることも出来ず、早々に振り払われ、近くの木に叩きつけられてしまうのだった。
『ティルタ! ……くっそー!』
そんなティルタの姿に、ボクは逆上したのかもしれない。
叫び声をあげ、手近に落ちていた木の枝を拾って突っ込んでいく。
しかし騎士団に入った後であればともかく、ここまでちゃんと指導されての訓練を受けたこともない身、攻撃というよりもただ闇雲に振り回すだけ。
当然それは、知能の存在しないスケルトンにすら通用はしなかった。
振り回す一撃によって、ボクの身体もまた容易にふっ飛ばされる。
地面を転がり、身体を傷だらけとしながらも立ち上がり、再度向かっていく。
ただ勇敢さを表に出すのは、ティルタも同じであったらしく、再度吼え立ち向かっていった。
『やめてティルタ! そんなことしたら……』
ティルタへと、スケルトンは腕を振り降ろそうとする。
危ない。たぶんあの一撃を食らえば、ティルタは命を落としてしまう。当時のボクもそう考えたのかもしれない。
そのため賢明に体当たりをせんと、木の棒すら投げ出しスケルトンへ突っ込んでいく。
"無謀"という言葉が、この光景を見るボクの頭に浮かぶ。
普通であれば間に合わない距離であるのに加え、たぶん体当たりをしても碌に倒すことなどできず、逆に大怪我をするのがオチであると。
しかしこの時ボクは、子供であった自身の動きに目を見張った。
力強く地面を踏み込むと、弱々しい身体では到底成せぬ勢いで跳躍。肩から突っ込みスケルトンをバラバラに破壊したのだ。
まるで勇者を見ているようなその動きに、感想すら抱けずただただ唖然とするばかり。
そしてこの光景に驚いたのは、古い記憶を見ているボクだけではなかったらしい。
『……こいつは驚いた。よもや単独で倒してしまうとは』
朦朧とし、薄ら目を開けるボクの視界に飛び込んできたのは、軽く息を弾ませたお師匠様の姿。
たぶんボクの叫び声に気付き、急いで駆け付けてきたのだと思う。
そのお師匠様はボクとスケルトンの残骸を交互に矯めつ眇めつし、弱いとは言え子供が魔物を倒したという事実に驚愕していた。
『確かにこういう例が無いでもないが、まさかこの子が……』
一応無事であったティルタを抱き抱え、お師匠様はボクへ近づきしゃがむ。
薄れゆく意識の中にあるボクの身体へと触れ、ケガの程度を確認すると、とりあえず命に別条がないことを安堵する。
けれど少しばかり険しい表情を浮かべ呟くのは、この一つ前に見た光景で話していた内容。
お師匠様が言いたいのは、おそらくこれがボクの父親から受け継いだ、勇者としての血の片鱗であろうということ。
ボク自身本当にそんなものがあるとは思っていなかったけれど、ティルタを助けるために見せた瞬間的な脚力、あれは確かに勇者のそれを彷彿とさせるものだった。
……そういえば、少し前にもこんなことがあったか。
領都ツェニアルタへ現れた、巨大な単眼の魔物へ薬品の小瓶を投げた時、自身の力にしてはやたら遠くまで届いた。
てっきりあれは火事場の馬鹿力の類だと思っていたけれど、実のところこいつが理由だったのかもしれない。
『しかし脚はもう限界だな、身体への負荷が大きすぎるか。……この事は知らぬ方が良さそうだ』
自分自身でも意外に過ぎる秘めた力。もっともコイツが有用だとは思わない。
どうやらこいつは自身で制御できるような類ではないし、たぶん身に余る力は己を滅ぼす。
現にお師匠様の言いようであると、ボクの身体は相当に酷い有様となっているようだ。
そんな状態のボクを見て、お師匠様は軽く頭を振り、自身の下げる鞄から一つの小瓶を取り出す。
『おししょ……、さま』
『よく頑張ったなクルス。だが覚えておかずともよい記憶もある、これはお前にとって悪い夢であったのだ』
そう告げると、お師匠様は小瓶の中身をボクに呑ませていく。
これは見たことがある。重傷者などに用い、一時的な意識の混濁を引き起こす代物だ。
お師匠様はきっとこれを利用し、今あったことを幻であると思い込ませようとしているらしい。
ボクがこれを覚えていなかった理由に納得しつつ、薬の影響もあってゆっくり視界は霞んでいく。
これもまたお師匠様の優しさだったのかと思い、薄れていく中で次の記憶を待つ自身に気付いた。
……そうか、カラシマさんが黒の聖杯が見せる記憶に酔ったのも、こういう事なのかも。
懐かしく、心穏やかであった頃の優しい記憶は、ぬるま湯に身体を預けるような、柔らかな毛布に包まれるような心地よさ。
なんだかもう、ここにずっと身を任せてもいいような気さえしてくる。
身体を蝕むような甘い欲求に襲われるボクであったけれど、その直後に見えた光景は、これまでと異なっていた。
「ここは……、確か……」
次に見えたのは、真っ暗な夜の光景。
けれどボンヤリとする思考の中でもすぐに気付く、これは記憶の中ではないと。
視線の先には、地面に突っ伏し呻き声を上げるゲンゾーさんの姿。
そしてすぐ隣には荒い息を吐きながら瞼を閉じ、多量の汗を流すサクラさんが蹲っていた。
ああ、長い時間であったと思ったけれど、実際にはほんの一瞬。それこそ夢のようなものであったらしい。
どこかもったいないような、もう少しだけあの幻に浸っていたいような気持になってしまうボクであったが、すぐさまその思考は払い退けられる。
暗い中に立つ、真っ黒な巨躯の魔物。カラシマさんであったはずのそいつが、鋭い腕をゲンゾーさんに向けようとしていたからだ。
「サクラさん、サクラさ――」
ボクはハッとし、うずくまる彼女を揺り起こそうとする。
けれどたぶん、サクラさんは目を覚まさないだろうという確信を持つ。さっきのボクと同じく幻を見せられているのだ。
どうして一人だけ早く目が覚めたのかは知らないが、彼女がこうである以上、この場で動けるのはボクのみ。
しかし夜の闇に溶け込む、おぞましい姿の魔物に腰が引ける。
動け、走れ、今ゲンゾーさんを助けられるのは自分だけだ。
動けなくてもきっと誰もボクを責めはしない。けれど親しい人が目の前で命を砕かれていくのを、黙って見届けるなどできようものか。
頼むから動いてくれボクの身体。あの時の、ついさきほど見た幻の中に居た、幼い頃の自身のように。
そんな言葉を自身へ瞬時に言い聞かせ、腕が振り降ろされるほんの僅か前、ボクは大声を上げながら地面を蹴った。
その動きはさながら、幻の中で見た子供次代の自分と同じであった。