愛玩人形の空 07
南部へ向け移動するにつれ、徐々に気温は穏やかになっていく。
当然それは、鼻先をくすぐる程度であった春が、すぐ手の届く距離にまで迫ったというのも理由の一つ。
けれどそう理解はしつつも、ボクは肌に感じる暖かな気温に、浮足立つ気持ちを抑えられずにいた。
とはいえ然程大きくもない馬車に揺られ、隣へと座るサクラさんは、ボクをジトリと眺める。
それはまだ完全には終わっていない行程に、緊張感を失い過ぎであると窘めるかのようだった。
「まぁ気持ちはわかるけどね。あとはもう国境を越えるくらいだし」
「……気を引き締めます。そ、それにしても思った以上に時間が掛かりましたね。何だかんだで、もう2ヶ月近く経ちますし」
「誤魔化したか。でもそうね、危うく滞在期間が過ぎるところだった」
本当に窘められてしまったボクは、ちょっとばかり話を逸らそうとする。
それはすぐさま看破されてしまうのだけど、サクラさんはこの話を肯定し、肩を竦めるのだった。
元々ここコルネート王国へは、2ヶ月という期限付きで滞在が許されている。
それを越えると他国への亡命とすら取られかねず、ちゃんと期限内にシグレシア王国へ帰還する必要があった。
けれど南部の都市ダンネイアでは長期の闘技戦に関わり、砂漠の都市アルガ・ザラでは黒の聖杯に苦しめられ、砂嵐によって閉じ込められた。
加えてその功績で王都ラベリアへ招待され、メイリシアさんのコルネート脱出と教会へ打撃を与える計画に加担。そこでも何日も過ごすハメとなっている。
「むしろよく間に合いましたよ。下手をすれば半年くらいかかってもおかしくないです」
「でもまだ終わってないわよ。国境まであと2日あるんだから」
再度叱咤の言葉を発するサクラさん。
そうだ、ボクらはまだ肝心な部分、メイリシアさんのコルネート脱出を成し遂げていない。
今頃教会は、王都での騒動によって王城から呼び出しを食らっている頃。
騎士団どころか女王もグルになって糾弾している頃で、たぶんメイリシアさんに追手を差し向ける余裕はないはず。
けれど王都脱出時、路地裏で待ち構えていたような連中も居る。
確かに緊張の糸を緩めるには早く、国境までの残り2日間、気合を入れておかねば。
その当人であるメイリシアさんはと言えば、今は馬車の荷台でアルマの相手をしてくれている。
サクラさんが教えてくれた、輪っかにした紐だけで遊べるアヤトリとかいうそれを、一緒にやりながら悪戦苦闘していた。
「でもまぁ、ここまで来れば戦いにはならないと思うけどね。まだ希望的観測だけど」
「追手以外だと、魔物の脅威くらいでしょうか」
「おそらくは。油断さえしなければ、何とかなるんじゃない?」
気を引き締めるよう口にするサクラさんだけれど、彼女もいい加減この長い行程に疲れの色が見え始めている。
ついさっき自身で油断大敵を口にしたばかりなのに、御者台の上でグッと大きく伸びをすると、小さな欠伸を噛み殺す。
しかし今度は、彼女が窘められる番に周ってしまったらしい。
荷台部分からひょっこり顔を出してきた、今回の旅における同行者のひとり、シグレシア王国近衛騎士のユウリさんがそんな空気を打ち消した。
「事はそう簡単にいきそうもありません」
「どういう意味? もしかして、教会が大挙して追いかけて来てるとか」
「いえ、教会の方は王都の騎士団が抑えています。ですが今から通過する地域に、少々問題が……」
今の今まで荷台で腰かけ、ひとり黙々と手紙を読んでいたユウリさん。
ついさっき走る馬車へと、伝書鳥と呼ばれる騎士団が主に使う連絡手段が届き、小さな紙を置いていったのだ。
どうやらユウリさんの表情を見る限り、そこには雲行きの怪しくなる内容が記されていたらしい。
「メイリシア嬢が愛妾になるようにと命じられた貴族ですが。今から通る土地は、その貴族が治める領地となります」
「そいつはまた、面倒臭い気配がするわね」
「どうやら彼女が王都から消えたことは伝わっているようで。領兵を動員して検問を敷いているそうです」
手にした紙に視線を落とし、ユウリさんは緊張感漂う言葉を発する。
王都からここまで約5日、ボクらは馬車に乗って普通の速度で移動をしてきた。下手に急ぐことで、悪目立ちするのを避けるために。
ただ伝書鳥のような速い連絡手段であれば、十分に長距離間のやり取りをすることは可能。
どうやら王都に居る貴族は、メイリシアさんが失踪したと知るなり、自身の領地に指示を飛ばしたようだった。
それでもこの街道を移動しているのは、王都脱出の時点ではメイリシアさんがどの貴族の愛妾になるよう強要されていたか、不明であったためだ。
もし知っていたとすれば、少々時間を要するのを承知の上で、国境までの経路を変更していたのだけれど……。
「地図を見る限り、その領地まで街道は一本道です。今からでも引き返しますか?」
「ちょっと難しいかも、道中食料がまともに調達できなかったから。馬の分もあるし」
かといって今から元来た道を辿り、別の道を行くのも儘ならない。食料が不足しているためだ。
なにせ今の時期は、どこの町でも大抵春の祭が行われている真っ最中。商店の多くは閉まっているし、よしんば開いていたとしても碌に買える物がない。
なので王都で積み込んだ食料だけで移動してきたのだけど、せめて水くらいは補給しておくべきだったか。
こうなると穏やかな春の気候が、逆に恨めしく思えてくる。
「やっぱりこのまま進むしかないわね」
「街道を外れて移動する……、のは難しいでしょうね」
「リスクが高すぎるもの。車輪が外れて立ち往生、なんてなっても助けてくれる人は居ないし」
この手の問題は、旅をしていれば度々起り得る。
それでも街道上であれば、報酬と引き換えにしてでも誰かへ助けを求めることは出来る。
けれど街道を外れればそこに居るのは野生動物と魔物のみ。春の祭が行われる時期というのを差し引いても、人は立ち入らない土地なのだ。
ならば選択肢はこれしかない。このまま危険を承知で、件の貴族が治める領地を進むのだ。
「あの、なにか問題でも……?」
ひそひそと、後ろに居る2人を不安にさせぬよう交わされる会話。
ただアルマの相手をしていたメイリシアさんは、こちらの発していた空気を感じ取ったのか、荷台から顔を出してきた。
流石にこう問われて誤魔化すこともできず、仕方なくボクは事情を話す。
すると彼女は僅かに顔を青くし、口を噤んで俯いてしまう。
当然かもしれない。メイリシアさんにとって、そこは忌々しいと同時に畏怖の対象でもあるのだから。
「大丈夫?」
「は、はい。わたくしは問題ありません。行きましょう」
けれど彼女には、ここで逃げる気などさらさら無い。
まだ具体的な対応を考える前だというのに、貴族の領地を抜ける意志を露わとしていた。
貢物の如く自身が差し出される相手だっただけに、余計反発心が強いのかもしれない。
とはいえ実際のところ、いったいどうしたものだろうか。
おそらくメイリシアさんの大まかな人相は、あちらに届いているはず。
こっちには近衛騎士のユウリさんが居るけれど、あくまでも彼女の権限は自国内や国境通過時のものに限られる。ここコルネートではあくまでお客様だ。
「検問ってことは、最低でも全員顔を晒さないとダメよね」
「今の時期は王都近辺を除き、旅人もそう多くはないと聞きます。春の大祭も終えたので、そろそろ人々が元の土地へ戻る頃ではありますが……」
「往来が少ないなら、特に念入りに通行人を調べるわね。どうやって突破したもんだか」
サクラさんとユウリさんは、貴族が敷いているという検問の突破方法について思案していく。
基本的には他者のフリをして通過するのが、最善なのだとは思う。
幸いなのは、大抵の人は身元を証明する物を持ってなどいないため、そこを検められる事がないという点か。
それとは逆に、実力行使という手段も無いではない。
サクラさんは言うまでもなく、ユウリさんは今でこそ騎士だけれど、元々はニホンから召喚された勇者。
なので意外とこれが最も現実的というか、強引に突破するの自体は案外容易かも。
問題にはなるだろうけれど、ここら辺はこちらの騎士団が何とかしてくれるはず。
「面倒臭いし、もう強行突破でいいんじゃない」
サクラさんもまた、これが一番無難であると思えたらしい。
口調こそ気怠そうではあるけど、半ば確定したような様子で実力行使を口にする。
しかしあまり暴力沙汰になるのは勘弁して欲しいと考えたのは、メイリシアさんであった。
「で、出来れば穏便な方向で……」
「なによ今更。王都から逃げる時には、あれだけ派手にやらかしたのに」
「だからこそです。不本意とは言え、教会の者も何人かは怪我をしました。出来ることなら少なくしたいと」
このあたりはやはり、長年聖職者を続けてきたが故か。
メイリシアさんは祈るように手を組むと、力技での検問突破に異議を唱えた。
彼女自身は別に王都脱出時に司祭たちを殴ってはいないけれど、ボクやサクラさんがしたそれを、自身がやったも同義と捉えているらしい。
「なら対案を考えないとね。領内へ入るまでもうあまり時間はないし、このままだと本当に領兵を蹴散らして進むことになる」
「変装……、などはどうでしょうか?」
「変装ねぇ。そっちもある意味無難だとは思うけど」
なにもサクラさんとて、闇雲にメイリシアさんの主張を払い退ける気はない。
ただもう少しすれば、件の貴族が治める領地へ入るのは確かで、時間の猶予が無いのは事実。
強行突破以外を選ぶのであれば、早々に手段を決めなくては。
その結果としてメイリシアさんが挙げた手段に、サクラさんは腕を組んで悩む。
結局は素性を隠せば問題ない訳で、メイリシアさんが逃げ出した司祭と異なると判断されれば、検問そのものは通れるに違いない。
サクラさんもそれはわかっている。それでも悩むのは、いったいどう変装するかということ。
「いっそ男性に変装してみては如何でしょう?」
「だ、男性にですか?」
「探しているのは女性の司祭です。教会の人間には見えない、それも男性であれば疑いの目はまず逸らせるかと」
そこで代わりに案を口にしたのはユウリさん。
彼女の告げた言葉に、メイリシアさんは少しばかり口籠りつつも、大きく頷く。当人が納得するのだから問題はないはず。
ただ教会で淑やかに育てられた彼女にとって、男装というのは抵抗が強いのは確かであったらしい。
恥ずかしそうに頬を染め、再び自身の信仰する神へ許しを請うていた。
そんな彼女の肩へ手を置くサクラさんは、気持ちは理解できると口にする。
「でも突然そんな事を言われても、難しいわよね」
「は、はい。ですがそれが最も安全に通れるのであれば、それに越したことはないかと」
「そこまで覚悟したなら、反対する気はないわ。でもそうね、独りでやるのが辛いなら、いっそもう1人巻き込んでしまえばいいかも」
頷くサクラさんが、ニヤリとし告げた言葉。それは一見して意味不明なもの。
当然ユウリさんとメイリシアさんは、怪訝そうに首を傾げる。
だがボクだけは、不敵に笑む彼女の言わんとしている意味が、瞬時に理解できてしまったのだった。