辛酸 02
とても広い、大勢の人間が入る空間に響く轟声。
万に及ぶ観衆たちが発する声は、身体だけでなく建物すら震えているかのようだ。
都市ダンネイアで行われる闘技戦、その開催7日目。
この日行われるロウハイクの試合を見に来たボクとサクラさんは、客席の外れで今か今かとその時を待ち続けていた。
「結局、どうするかの結論は出ませんでしたね……」
「早々決断できるようなモノじゃないもの。どの道ここで選ばなきゃいけないけど、どちらを選んでも責められないかな」
観客席の上階、その隅にある少しばかり人の密が少ない場所。
そこで腰を降ろし眼下の闘技場を眺めながら、サクラさんは頬杖着きながら静かに感想を口にした。
つい昨日、ロウハイクから聞かされたのは、自身の雇用者であるベルガニーラ商会から八百長を持ちかけられたという内容。
この日戦う相手、ラネオンという商人が雇った闘技者相手に、ワザと敗退しろというものだった。
相手はベルガニーラ商会の上位に立つ商人。つまりその商人が雇った闘技者に負けることで、服従を証明しようというものだ。
「間違いなく、大会初日の夜に襲われたのは商会の差し金ですよね」
「あれで得をしたのが誰か考えれば、当然そうなるってものか。随分と手の込んだ真似をしてくれる」
ロウハイクが初戦突破後に襲われたのも含め、全ては最初から計画されていたに違いない。
襲ってきたゴロツキ連中を倒すことで、彼はより名を高めている。
逆に言えば、そんなロウハイクを相手にラネオンが雇った闘技者が勝利すれば、もっと評判を高めるということになる。
つまり勝ち進むのが許されたのはここまで、ロウハイクは依頼者の命令によって、ここで負けなくてはならないのだ。
「命令に従わなければどうなるかはわかりませんが、従えば10倍の報酬ですか……。悩んでも仕方がない額です」
「でもロウハイクだって、ここまで勝ち進んだ意地がある。さて、どちらを選ぶことやら」
もしこれを受けワザと負けたとしても、決して悪い結末にはならない。
なにせ口止め料も込みで相当額の報酬が約束されており、店を立て直し姉のロティーナさんを休ませるという目的を果たすには、十分な額となるのだから。
しかし彼は、それを受け入れて納得するような性格ではないはず。
いまだ出ぬ結論を抱いたまま、ロウハイクは試合を迎えようとしていた。
「サクラさん、出てきました!」
「もう私たちは応援することしかできないんだから、どちらの結果になっても慰めてやるとしましょ」
姿を現したロウハイクに、ボクはつい立ち上がる。
けれどサクラさんは平然としたままで、暢気に眼下の闘技場を見下ろしていた。
確かにここまで来れば、もう事を見守る他にない。
息を整え再度腰を降ろすと、円形の舞台へ出てきたロウハイクと、対戦相手となる男の姿を眺める。
見たところ相手は筋骨隆々としてはいるものの、たぶんロウハイクの方が強い。
サクラさんも一目見て同じことを考えたようで、「実力的には9割方勝てる」と太鼓判を押した。
「始めぇぇ!」
審判である男が舞台上で発した言葉と同時に、両者は地を蹴り接近していく。
勇者には及ばないまでも、十分に鋭く勢いのある突進に、観客たちは一斉に歓声を一段階上げる。
接近し、拳を放ち、離脱し、観客は興奮の度合いを高める。
その繰り返しが闘技場内を興奮の坩堝と化し、自身の声すら掻き消さんばかりの音に、ボクは戦いを見守りながらも耳を抑えた。
一進一退、なんとも見ごたえのある戦い。
けれどサクラさんはそんなロウハイクの戦いを眺め、軽く首を横へ振る。
「……迷ってるわね」
「まだ勝つか負けるかを決めかねていると?」
「なかなかに思い悩んでるみたいね。ここからでも苦悩の表情がよく見えること」
少しだけ歓声が納まったところを見計らって、サクラさんは見たままの感想を口にした。
ロウハイクの話しぶりからするに、きっと長年闘技戦への出場を願っていたのだと思う。
家業の酒場を立て直すという目的ありきとはいえ、ようやく願い続けた出場が叶ったのだ。意気込みは相当なものだったろう。
かと思えば自身の与り知らぬところで企みに巻き込まれ、負けを強要されている。高額の報酬と引き換えに。
今頃ロウハイクの思考には、葛藤が続いていると考えるのは想像に容易い。
「彼はさぞ辛酸を舐めさせられてるでしょうに。……でも」
試合の最中にどちらかを選ばねばならない。
それがどういう結果に終わるのかと考えていると、サクラさんは感慨深げな言葉と共に、ニヤリとした笑みを浮かべるのだった。
「結論は出たみたいね」
「え?」
サクラさんの言葉に反応し、急ぎ舞台の上へと視線を奔らせる。
そこでは拳を握り姿勢を低くしたロウハイクが、対戦相手となる男の蹴りを紙一重で回避。
直後、彼の身体は伸びるように上へ向かうと、拳が対戦相手の顎を強かに捉えるのが見えた。
一瞬にして静まり返る会場。
だが男が石造りの舞台へ倒れ込み身動きひとつせず、対しロウハイクが高く拳を掲げたところで、一気に歓声が爆発した。
凄まじい量の喝采と称賛の言葉が降り注ぐ中、ロウハイクはゆっくりと舞台から降り退場していく。
「おそらく衝動的に決めたんだと思うけど。対戦相手の男から、なにか話しかけられてたようだし」
「よく見えますよね、この距離で」
「そこらへんは勇者だもの。……この眼鏡もほぼ無用の長物ね」
サクラさんはそう言って、出会った時からずっと掛けている視力の矯正器具であるという、金属の輪っかを手に取る。
けれど無ければ無いで心地が悪いのか、苦笑しながら自身の顔へ掛け直すのだった。
「どうする気なんですかね。依頼主を裏切った訳ですが……」
「今頃頭を抱えてると思うわよ。彼一人だけで悩ませるのも可哀想だし、降りて顔を見に行くとしましょ」
やれやれと言わんばかりに立ち上がるサクラさんは、歓声を上げる客たちの間をすり抜けていく。
ボクも彼女を追い客席から出て、ヒンヤリとした闘技場の通路を歩き、階下に在る闘技者の控室へと向かった。
階段を降り少しばかり歩くと、小さな扉が目の前に現れる。
そこを軽くノックし、中の人間から返事が返されるのを確認もせずサクラさんは中へ。
ボクはそっと中を覗き込むと、部屋の隅には簡素な椅子へ腰かけ、頭を抱えるロウハイクの姿があった。
「まったく、エライ事をしでかしたものね」
そんな彼へと、サクラさんは挑発するように言葉を向ける。
頭を抱えていたロウハイクはそんな声に顔を向けると、どこか青くも見える表情で悪態ついた。
「そう思うんなら前もって止めやがれ!」
「私には口出しする権利なんてないもの。全ては貴方の決めたこと」
「わかっちゃいるがよ……。どうしても我慢がならなかった」
ロウハイクも、これがとんでもない行動であるという認識はあるらしい。
けれど彼からは後悔の色は窺えず、むしろ間違っていないと言わんばかりの意志が漏れ出ていた。
「で、相手から何を言われたの?」
「……姉貴のことをちょっとばかりよ」
「ロティーナ? 一発で仕留めるほどの拳を繰り出すなんて、いったいどんな発言をしたんだか」
対戦相手から何かを言われた。サクラさんも言っていたことだけれど、本当にそういったものが行われていたようだ。
ただサクラさんも内容まではわからないようで、好奇心を含んだ調子で尋ねる。
するとロウハイクは忌々しげに歯を軋ませ、吐き出すように事情を口にした。
「"お前が死んだら、姉は俺が飼ってやる"ってよ。あいつ、こっちが手出しできないと知ってやがった」
「ああ……、そりゃキレるのもわかるかな。うん、よくやったぞ男の子」
「結局褒めるのかよ。まぁオレだってあんな事言われて、黙ってるなんてあり得ないがよ」
ロティーナさんに関わる内容は、彼にとって逆鱗に触れるもの。
対戦相手であった男はそこを突いて挑発したのが、結果として明暗を分けたようだった。
とはいえ依頼主の命令を蹴ったのには違いない。
再びガクリと項垂れ頭を抱えるロウハイクの隣へ腰かけたサクラさんは、困った様子で息を吐き、今後の指針についてを口にする。
「さて、これからどうしたものやら。報酬は望み薄な気がするし」
「とりあえず、姉貴と合流したい。心配だ……」
「そうね。ゴロツキを雇うような輩だもの、変な嫌がらせをしてきてもおかしくない」
目下心配となるのは、現在観客席でアルマを見てくれているロティーナさんだろうか。
裏切りへの報復として、戦いとは無縁な彼女が狙われる恐れはあった。
ならばとロウハイクも立ち上がり、控室を飛び出して急ぎ観客席へ向かう。
「面倒な事になりましたね。……ボクらはちゃんと報酬を貰えるんでしょうか」
「そこはどうあっても払ってもらうわ。金銭はともかく、亜人たちの情報は必ずね」
ロウハイクだけでなく、こちらに対しての報酬すら怪しく感じてしまう。
その不安を口にするのだけれど、サクラさんは不敵で凶暴にも思える笑みを浮かべ、拳を鳴らすのであった。