Act.5 そのレールの伸びる先 <2>
冷え冷えとした口調とは裏腹に、少女の表情は笑顔そのものであった。
豪壮な額縁に縁取られた肖像画のように美しい微笑みは、今回に限っては一切の温もりが感じられず、何より目が笑っていない。
「い、いや…その…」
この氷のような笑顔に一度触れれば、凍傷になること必至だろう。
今時の中学生は瞳のハイライトさえも自在に消せるのかと謎の感心を抱いていると、緊張に乾いた襲の喉が無意識のうちにゴクリと鳴った。
「そうですか……でも仕方ないんですよね?
私のライブ“なんか”よりも、彼女とのデートの方が大事、でしょうし」
幻覚でも何でもなく、紛れもない物理現象として逆立ち始めた少女の黒髪を見遣り、襲はぶるりと身を震わせた。
その痙攣は既に貧乏揺すりの領域を超越しており、食卓の上の食器たちも振動の主たる少年の恐怖をトレースしたかのようにカタカタと震え出す。
「そうだ!」
生まれたての子羊(小鹿でも子馬でもない)のように襲が身体を震わせていると、眼前の唯が何かを思いついたように手を合わせ、更に無機質な笑みを美しい顔立ちに張り付けた。
「でしたら私も後日、ご挨拶に行かなくてはいけませんよね?妹として。
不甲斐ない兄を宜しくお願いしますと、とびっきり美味しい菓子折りを持って」
「実は私、良いお土産屋さんに心当たりがあるんです」などと、冷たく微笑む少女。
セリフだけを見れば実に兄想いな妹の発言だが、今の態度を見ている限り、菓子折りではなく爆発物を持っていきそうな気配すらある。
このまま彼女を放置しておくと死人が出そうなので(自分も含む)、取り敢えず土下座する勢いで食卓に額を擦り付け、全力で謝罪を行うこととした。
「すみません嘘をつきました許して下さい」
「…まあ、元から襲さんに恋人なんていないことくらいわかってましたけど」
「じゃあ謝り損かよ…」と苦虫を噛み潰したような表情で彼が呻くと、唯は口元に手を当て、くすくすと朗らかな笑みを湛えた。
「罰としてライブの応援に来て下さい…と言いたいところですが、よく考えたら襲さん人混み苦手でしたよね。今年の初詣とか酷い有様でしたし」
唯の呆れたような声音に、ふと、初詣の悪夢が蘇る。
神社の境内にごった返す、人、ひと、ヒト…。
足を踏まれた挙句に背中を押され、ぶつかってしまった不良グループに「おい!テメェの所為でソースが服に付いちまったじゃねぇか!弁償しろや!」と絡まれるという不可避の現実。
あらゆる意味で詰んでいる。きっと神様は俺のことが嫌いなのだろうとも思った。まぁ、別に信じてはいないが。
とまれ、初詣は眠いし寒い。
神頼みなどという行為に有意性を見出す物理学的な根拠、即ち統計学的なデータ(神社を参拝した者としていない者との幸せ指数の差)などあろうはずもなく、そんな無為なことの為に初詣に行く者の気が知れない。
このように二十二世紀に入ろうかという現代においても初詣という日本独自の文化は残っており、不合理性よりも合理性、文化よりも文明を重んじる襲にとっては正直初詣などという形式美には大した関心を持ち合わせていない。
されど、文化そのものを否定しているわけではない。
京都に残る古都の風情を眺めれば心が少なからず昂るし、着物を着た女性を見れば日本人としてそれなりに感慨深くもなる。
文明が物理的な利益を追求するものであるならば、文化は人間の精神的安寧を充足する為のものであろう。
つまり、人間であるがゆえにその双方が必要であるとも言える。
まぁだからと言って、人混みに酔い、揉まれ、絡まれることによって、ただ悪戯に心を荒ませるだけの初詣には行きたくはないのだが。
これら初詣というイベントに対するマイナスの感情が表情に出ないよう心掛けながら、襲は淡々と事実だけを並べた。
「当たり前だろ、あんな人ゴミに放り込まれたら誰だって吐き気くらい催す」
「…今、人混みのニュアンス何か違いませんでした?」
きょとんと小首を傾げる唯の仕草に並々ならぬ愛嬌を感じながら、襲は半眼のまま続ける。
「別に?それより何であの時エチケット袋とか持ってきてくれなかったんだよ。楽になれたのに」
「吐く気満々じゃないですか!?」
頬の筋肉を引き攣らせて食卓から若干身を引いた少女の姿にため息を零しつつ、襲は鮭を啄んでいた箸を止めた。
「嫌がる人を無理やり連行したんだ。それくらい配慮するべきだろ」
「だって……ああでもしないと、襲さん休日とか家から全く出ないじゃないですか」
どこか残念な人を見るような目つきでぼそりと呟かれた言葉に、襲は不敵な笑みを浮かべる。
「当たり前だ。そもそも初詣ってのは、元々は年籠りと言って、家長が新年の安寧祈願の為に大晦日の夜から元日の朝に掛けて氏神の社に籠る習慣だったんだぞ?
逆説的に言えば、無宗教の俺は年初めは自室に引き籠るのが正しい」
我ながら素晴らしくロジカルで簡潔な主張だったと内心悦に浸っていると、こちらを見つめる唯の視線の温度が何℃か低下したように思えた。
「そんなこと言ってるから周りから産業廃棄物系男子って呼ばれるんですよ」
「…いや、今初めて聞いたんだが。それより早く飯食わなくてもいいのか?打ち合わせに遅れるぞ」
「えっ?あっ、はい!そうでした!」
再度掌を合わせてから朝食を食べ始めた唯に習い、その後は襲も黙々と箸を進めた。
◇◆◇◆◇
食後、先程の見返りとして唯から見送りを要求された襲は、渋々アパートから出て最寄りの駅まで向かっていた。
駅とは言っても乗るのは電車や地下鉄の類ではなく、近代的な造形が美しいリニアモーターカーである。
春らしい爽やかな色彩のワンピースに袖を通した唯はどこか楽しげで、鼻歌交じりに街道を歩いてゆく。
透き通った歌声に耳を傾けながら目線を唯へと流すと、それに気がついた少女が花が咲いたような笑顔ではにかんできた。
原因不明のこそばゆさを感じながらも、襲は無表情を貫く。
そんな少女に付き添いながらリニアモーターカーの改札口手前まで歩いていくと、突然彼女の方から声を掛けてきた。
「そういえば、襲さんも今日何か用事があったんじゃありませんか?」
「ん、用事…?」
「はい。そもそも今朝襲さんを起こしたのは、先日、明日は早めに起こして欲しいと襲さん自身から頼んできたからですよ?」
「そうだったか?」
「そうですよ?…もう、しっかりしてください」
唯の指摘を頼りに記憶の糸を手繰ってゆくと、思い当たるものが一つだけあった。
確認の為にズボンのポケットから携帯端末を取り出し、予定表を眺めてみる。それからほぼ間を置かずに、リニアモーターカーの到着予定時刻を知らせるアナウンスが駅のホームに響き渡った。
「じゃあ、行ってきますね。襲さん」
「ああ、達者でな」
「な、なんですか、その今生の別れみたいな言葉は……訴えますよ?」
「はいはい、いいから早く行けって。遅刻するぞ」
ぷくぅと可愛らしく頬を膨らませた少女から送られてくる、何か訴え掛けてくるような視線。
やや不機嫌と見える少女に対して、襲は苦笑交じりに手を上げた。
ぎこちない手付きで手を小さく振ってやると、ご希望通りだったのか、唯の表情に掛かっていた霧が晴れ満面の笑みを見せる。
「行ってきます!」
行き交う人の視線を釘付けにしながら駆けて行った少女の背中を見送り、襲は一人、静かに駅を後にした。
帰り掛けに立ち寄ったコンビニの買い物袋を片手に、アパートから駅までの間にある公園へと足を運ぶ。
(取り敢えず、連絡しておいた方がいいか)
思い立ち、携帯端末を操作してある人物へと電話を掛ける。
待機音を聴きながら近くのベンチに腰掛けると、接続された回線から聞き慣れた声が響いてきた。
『御用でしょうか?襲さま』
「ああ。イア、今どこにいる?」
スピーカーから届いたのは、落ち着いた口調の女性の声だった。その声の主は襲の脈絡もない質問に対し、不快感も疑問さえも滲ませることなく即答する。
『ウィスタリアにある“鳴神家”の別荘です』
「予定が変わった。『依頼』の都合で、以後の日程を五日繰り上げる」
抑揚のない襲の声には、先程まで少女との対話の中で感じられた感情の色がない。
それが原因なのだろうか?
互いに事務的な応答を返す電話は、その内容に反してどこか空虚な響きを帯びていた。
『了解しました。では、今日にもこちらにいらっしゃるのですか?』
「ああ、そっちで迎えの手続きを頼む。それから『当主』にも宜しく言っといてくれ」
そう告げて回線を切ろうとした襲の耳に、突如として声音を変化させた女性の言葉が入ってきた。
『それはそうと襲さま。ご依頼の品がまだ届いていないと当主さまが憤慨なされているのですが、如何なさいましょう?』
電話越しに掛けられた言葉は、先程とは一変してからかうような色合いを含んでいて。
彼女が言わんとしていること思い出した襲は、冷や汗ながらに口を開く。
「来週には――」
『そう言い始めてからもう半年近く経ちますが?』
「いや、それは気のせい――」
『Doubt』
流麗な発音にやや食い気味に諭され、襲は苦い顔で臍を噛んだ。
それにしても、ダウトなんて返答、今時流行らないと思うのだが…。
胸中に浮上した他愛ない疑問は一旦棚に上げ、襲は震える声で懇願する。
「ら、来月まで待ってもらえないか交渉してくれ」
『はぁ……Yes,my lord』
「おい、不服そうなため息と感情の全く籠っていないマイロードは止めろ」
『…つれませんね』
淡々としながらも、悪意を隠すことなく晒してくる彼の者の言の葉。
掴みどころのない女性との会話に言いようもない疲労感を覚えた襲は、こめかみを押さえながら一人呻き声を漏らした。
「…取り敢えず頼んだからな」
『承りました。では、先に自宅でお待ちしております』
電話一本でやけに疲労したなと思いつつ、襲はコンビニ袋から取り出したお茶を口に含み乾いた喉を潤した。
◇◆◇◆◇
それから一旦アパートに戻り出立の準備を済ませた襲は、再び最寄りの駅へと向かった。慣れた手つきで改札口を通り、目的のリニアモーターカーへと乗り込む。
静かに加速し始めた車内をちらと見渡してから、柔らかな背もたれに身を沈めた。ついでにコンビニで調達しておいた昼食をとる。
窓の外には変わり映えのない景色が続き、その全てが目まぐるしい速度で後方へと流れてゆく。
暇を潰せるようなものでも持ってくるべきだったな、などと後悔の念を抱き始めていた頃。窓の外の風景が、突如として異質なものへと変化し始めた。
近代的な構造のビル群に、広大な敷地面積を誇る工業団地が多数見受けられるようになっていく。
そんな中、ふと、車内の電光掲示板に表示された文字列が目に留まる。
『次は、ウィスタリアセントラルセンター。第七学園前行きの方はお乗り換え下さい』
乗り換えか――足元に置いていた荷物を肩に担ぎ、手早く降車の準備を済ませる。
電車の目的地は、構成学推進国策都市。
通称『ウィスタリア』。
神奈川県の沿岸部に形成された「ウィスタリア」は、構成学及び詞素学(フォノ二クス)関連企業によって形成された、日本最大規模の生産都市である。その一角に、此度の目的地があった。
詞素大学付属第七学園。
その高等部たる、詞素大学付属第七高等学校。
通称『七高』。
そこは、構成術によって生成される詞素と呼ばれる粒子について学ぶ詞素学のみならず、構成術に関わる“様々な学問”を学ぶ場である。
例年血気盛んな若者達が意気揚々と入学し、競い合い、各々の「道」へと歩んでいくこととなる学び舎だ。
そして、来月から襲が通うことになる学校でもある。
本来ならば五日後に眺めるはずであった光景を見遣り、襲はとあることを思い出していた。
(そういえば、まだ唯にアパートを出たことを伝えてなかったな)
唯はことあるごとに「私も一緒に第七学園に入学します!」などと涙交じりに訴え、同行したがっていたのだ。同行を拒否した挙句、引っ越しの手続きだけでも手伝いたいと懇願していた唯を置いて来てしまったのだから、激怒されて然るべきであろう。
せめて連絡だけでも…とタブレットタイプの携帯端末に指を滑らせたが、メールで謝罪文を認めているうちに、運が悪いことにバッテリー残量が尽きてしまった。
おいおい、マジか…。
暗転した画面に内心毒づくが、過ぎてしまったことは致し方ない。
諦めの良さには定評(悪評?)があると自負している襲は、例の如くタイムラグゼロで諦め体制へと突入していた。
うんともすんとも言わなくなった携帯端末をポケットに仕舞い、車窓の外へと思いを馳せる。
次の駅の到着予定時刻を確認した襲は、少し仮眠でもとろうかと考え、肩に担いだ手荷物を隣の席に置いてから静かにその瞼を閉じた。