Act.4 そのレールの伸びる先 <1>
二千九十八年、三月二十二日。
目眩く駆け抜けた、俺の中学生時代。
思えば長かったようにも、短かったようにも思える。
泡沫のようなひと時は、いつか己の中で掛け替えのない宝物へとなっていくのだろうか?
例えば――そう、ロッカーに後生大事に仕舞っていた上履きに、同級生から生卵と小麦粉を塗されたこととか。
あれには驚いた。まさか他人の上履きを天ぷらにしようとする奴がいたとは。いくら腹が減っていたとはいえ、流石に上履きを食べるのは止めた方がいい思う。
そのことを当人たちに懇切丁寧に教えてやった結果、次の日、俺の机の上には小綺麗な花瓶が置いてあった。更には綺麗な花束までそこに活けられている始末である。
流石に花瓶自体は学校の備品だったのだが、花瓶に活けてあった花束は“誰かの善意”だったようなので有り難く頂戴した。
……まぁその結果、翌日、俺の上履きが再び天ぷらの具とされていたことは言うまでもない。
いやぁ、今思えば全部良い思い出だったなっ。
どれくらい良い思い出だったかと問われれば、職員室で借りたスリッパを履いて教室に入った瞬間、周囲から向けられた嘲笑とも憐れみともとれぬ視線を思い出す度に思わず涙が出そうになるくらいには良い思い出だった。もう思い出したくもない。
それから、記憶に新しいと言えば「俺だけはぶられた中学最初で最後の修学旅行!」なんてのもあったな。
念の為に弁解しておこう。
あの学校にはいじめはなかった。絶対。
「お兄さん!」
布団に包まったまま微睡みに身を任せていると、突然、部屋に侵入してくる気配があった。
何度か繰り返される呼び掛けを無視していたのだが、痺れを切らしたのか、その人物は布団越しにこちらの肩に手を当ててゆさゆさと左右に揺さぶってくる。
「お兄さん、起きて下さい!」
「無理、俺は布団と結婚する」
「いや、意味わからないですから…」
「おい、それ以上の接触はセクハラで訴えるぞ」
布団の隙間からベット脇の電波時計を見遣る。
日付を見る限り今は春休み初日の朝七時らしかった。折角の休みなのだ、後五時間は惰眠を貪りたい。
断固として布団からの追放を拒否していると、侵入者は許しがたい暴挙へと躍り出た。
布団の端を掴み、思いっきり引く抜くという暴挙へと。
「えいっ!」
ドスン、という重量感溢れる効果音と共にベット下への落下を強いられた少年は、無言のまま、寝惚けまなこで侵入者を睨み付けた。
「おはようございます、襲さん」
柔らかな笑みを浮かべてこちらを見下ろしてきたのは、青みがかった黒の長髪が艶やかな少女である。
透き通るような瑠璃色の瞳に、人形のように整った目鼻立ち。
彼女の微笑みが万人受けするであろうことは想像に難くなく、襲は床から身体を起こしながらため息交じり言った。
「セクハラだけでなくDVまで…、ユイファン、お兄さんは悲しいよ」
「はいはい、恨み言なら朝食の後に聞いてあげますから早く着替えて下さい」
洗濯でもするのだろうか?布団だけでなくシーツまで手に掛けた(犯罪的な意味で)少女を横目に、少年はのそのそと部屋から這い出した。
「眠い…布団が恋しい」
両目を閉じたまま角を曲がり、目的地たる洗面所へと辿り着く。
そのまま顔を冷水で何度か洗っているうちに、眠気が取れたのか、ようやく少年の瞼が開いた。
鏡に映るのは、東洋人らしい黒髪に、やぶにらみ気味の黒目。
いや、正確には彼の瞳は黒ではない。やや色の薄い肌色に揺蕩う双眸には紫苑が差し、眠たげながらも鋭い光を宿している。
その色にやや暗い、と言うよりは黒同然の翳りを落としているのは彼自身が不機嫌だからだろうか。
全体のパーツとしては日本人に似ているものの、「東洋人然とした顔立ち」と言うよりは「どこか東洋人の血筋を思わせる顔立ち」だと言うべきなのだろう。
数多の国家間協定を経て、国同士の摩擦が薄まった現代においてはさして珍しくもない平凡な顔立ちである(あくまでも彼自身の自己評価として、だが)。
しかしながら一般的とは毛頭言い難い瞳の色によってそれらの平凡性を欠いてしまっていることは筆舌に尽くし難く、悪い意味で彼が目立つ要因ともなってしまっているのは明らかであった。
とは言え、さほど鮮やかな紫ではないので、顔を凝視されない限り黒目と勘違いされるだろうが。
――閑話休題。
手短に歯磨きを終えた襲は適当に引っ張り出した私服に着替えると、鼻腔を擽る朝食の匂いに釣られ、リビングへと足を運んだ。
「それにしてもどうしたんだ、こんなに早くに。仕事か?」
エプロン姿で味噌汁をお椀に注いでいる少女へと声を飛ばしながら、襲は食卓に置かれた椅子へと腰を落とした。ついでに、並べられている朝食にも視線を落とす。
「はい、十時からライブの打ち合わせがありまして」
味噌汁を運び終わった少女が、エプロンを外しながら答えた。
「ライブの日程は決まったのか?」
「予定では一週間後の土曜日になりますね」
そういえばコイツ、歌手活動なんてしてたなぁなどと感慨に浸りつつ。
「そうか、まぁ頑張ってくれ。自宅から応援してる」
「ちょっ、ライブに来てくれないんですか!?」
食卓を挟んで反対側に置かれた椅子に腰掛けた少女は、こちらの解答に悲鳴じみた声を上げた。
安眠を邪魔された仕返しだと少女の問い掛けを華麗に無視し、襲は両手を合わせて食材と調理者への感謝の言葉を口にする。
「いただきます」
「あっ、いただきます……じゃなくて!初めてのライブなんですよ!?来て下さいよ!」
「やだ、面倒臭い」
理由を端的の述べ、味噌汁を啜る。
美味い、日本人に生まれてきてよかった。
現実逃避気味にそんな些細な幸せを噛み締めていると、
「お兄さん!」
「な、なんだよ。あと、お兄さんって言うな」
激昂すると同時に若干涙目になるという、実に器用な芸当を見せている少女の姿に動揺を覚えつつ、襲は鮭の塩焼きへと食指を伸ばした。
「さっきは自分からお兄さんって言ってたじゃないですか!それに、日本に来てから暫く経つっていうのに未だに私のことユイファンって呼んでますし…。
日本の戸籍上では雨宮唯になっているんですから、そっちで呼んで下さいよ!」
「さっきのは年功序列的な意味合いで言ったんだ。てか、家の中では本名でいいだろ?外ではちゃんと偽名使ってるし」
「…なら襲さんのことも本名で呼びますよ?」
じとっとした眼差しに射竦められ、襲は慌てて話題転換紛い(というより話題転換そのもの)のフォローを行った。
「今日の朝食本当に美味いよ、唯!」
「あ、ありがとうございます……じゃなくて、何で来てくれないんですか!?
一緒に遊ぶ友達もいないでしょうし、どうせ春休み中ずっと暇なんでしょう!?」
一瞬、白い肌を照れたように紅潮させた唯だったが、思い出したかのように話題を振り出しに戻してきた。まだ覚えていたのかと内心面倒に思いながらも、襲は唯の詰問に懇切丁寧に解答を述べておく。
「あのなぁ、勝手に友達いないように扱うのはやめてくれ。事実だけど」
「じゃあいいじゃないですか!」
食事中に会話をするのはマナーが悪いと口を酸っぱくして言ってきた所為か、先程から唯の食事は一向に進んでいないように見受けられる。
そのマナーについて説いた当の本人は会話しながら食事を進めていたが、これは相手方がこちらの食事中に一方的に会話を押し付けてきている所為である。
決して朝食が美味過ぎたとか、そういうわけではない。……誓って。
朝っぱらからクレーム対応とかテレアポ(テレフォンアポインター)の鏡だな、などと益体もないことを思いつつ、ヒートアップする攻撃ならぬ口撃に、襲は必死に思いつく限りの抵抗を試みた。
それが、墓穴を掘る行為だとは知らずに。
「ほら…あれだ、恋人とデートがあるんだ……よ」
襲がセリフの最後で言葉を詰まらせたのは、恋人という単語を発した瞬間――正確に言えば「恋び…」のあたり――に、並々ならぬ寒気を背筋に覚えた為であった。
「お・兄・さ・ん」
「はぃ!?」
妙に間をおいた唯の言葉に感じたものは、恐怖か、あるいは恐怖か。
結局恐怖一択じゃねぇか…と一人胸中でツッコミを入れたくなるくらいには混乱していた襲は、恐る恐る顔を上げ、その恐怖の根源と対面した。
「恋人とデートって……本当、ですか?」