Act.3 微睡みの中で <3>
『Alea jacta est――.』
朦朧とした意識の中で聴こえたのは、少女の詩。
その詩が、己の心の奥底へと抵抗なく深く染み渡ってゆくのを彼は自覚した。
大した声量を有していたわけではない。
だが、力強い旋律は空間そのものを掌握する。
原子の熱振動さえ支配し得たかのような錯覚をその場にいるものへと与え、大気を震わせたのだ。
爆音と爆風。
周囲の気温が跳ね上がるのを感じた瞬間、視界が白く塗り潰される。
「なっ!?」
思わず目を閉じた男が感じたのものは、形容し難い、大気を鳴動させるような強い衝撃だった。
大気が乾き、帯電する。
肺が焼けるような痛みを自覚する。
それら全ての事象変移が刹那的に、彼女の詞に応じるかのように引き起こされた。
激動の最中、男を拘束していた巨人の掌が緩み、身体が宙へと投げ出されてしまう。
不味い――!!
全身に襲い掛かる背筋が凍るような落下感に、男は歯を食いしばった。
巨人の身長からして地上まで五、六メートルはあったはずだ。落ちれば間違いなく重傷は避けられない。打ちどころが悪ければ最悪死ぬ可能性もあるだろう。
せめて足から着地しようと藻掻いてはみたものの、直ぐに無駄だと気づき、絶望した。
暗い夜闇の中五メートル以上離れた地表など見えるはずがない。ましてや仮に民家に燃え移った炎を頼りに地表を見出したとしても、数秒の間に体制を立て直せる自信など彼にはなかったのだ。
一瞬にしては長く、走馬灯にしては短い意識の時間。
気づけば、既に眼前まで地表が迫ってきていた。
頭から落ちては助かりようがない。
そんな当たり前のことは頭ではわかっていたことなのだが、それでも身体は正直だった。本能的に両手で頭を押さえ、感じられるかもわからない衝撃に思わず目を閉じる――。
「うぉっ?!」
落下の直前。
男を襲ったのは路面に頭を打ち付け骨が砕けるような強い衝撃ではなかった。
むしろ、ぐんっ――と引き戻られるような、綱で身体を引っ張り上げられたかのような奇妙な感覚が男の全身を襲ったのだ。
同時に何の前触れもなく、淡く白い「光」が男の全身を包んでゆく。
「この光は……」
夜闇に注意を向け、輝きへと目を凝らす。
発光の様子から見るに、単純な光ではなく粒子から発せられる光だと男は推察した。
彼の全身を取り巻く数多の粒子から放たれるのは、純白で無機質な光。その「光」が彼の落下速度に干渉し、中和していたのだ。
自身の身に起きた事象を把握した瞬間、彼の思考を一つの考えが支配した。
(間違いない、これは…)
男の身体が地面に着地したのを悟ったように、男の身体を包んでいた粒子が音もなく宙に溶け、淡い輝きを失う。
夢幻のような光景を呆然と眺めていた男は幾度となく瞬きを繰り返した後、ようやく身体を包む落下感が消え失せたことに気づき、慌てて立ち上がった。
そして背後を、先程まで彼を拘束していた巨人の方を見遣る。
すると確かに、熱気渦巻く視界の先には巨大な影を落とす怪物の姿を見い出すことができた。
しかし、何かがおかしい…。
動かぬ巨人を見上げながら彼は胸中で首を傾げた。
「なんっ……だ?」
相も変わらぬその姿に思わず後退り視野が広がったことで奇妙な点に気づいたのだが、あまりにも非現実的な違和感に男は困惑の色を浮かべることとなった。
一見、巨人は先刻と変わらずに立っているように思える。
だが巨大な胴体から落とされるべき影には、不自然なことに、その中央を射抜くように陽光が差し込んでいた。
それが巨人の肉体に穿たれた半径一メートルほどの風穴から差し込む、戦場の炎の揺らめきだと気づくまでには、これもまた、幾許かの空白を要することとなる。
「倒した…のか」
事実、彼が怪物の死を認識したのは、巨人が血を吐き崩れ落ちた直後のことであった。
地に這う怪物の死体を見遣り、何者かが巨人の肉体に巨大な穴を穿ち倒したのだと、安堵と共に理解する。
その時だった。
上空から炎の渦が竜巻のように舞い降り、猛烈な熱風が周囲に吹き荒れたのは。
業火の中心から、声が響く。
『大丈夫ですか?』
涼やかな、平坦な口調。
幼げな少女の声でありながら感情の色が伺い知ることのできない軍人調な語り口に、男は恐る恐る顔を上げる。
男が立ち尽くす傍らで。
暖かで、しかしながら苛烈な「紅蓮の炎」が控えていた。
形のない「それ」は蝋燭の炎のように不確定に揺らぎ、やがて人のかたちへと収まってゆく。
(人間……?)
楊炎の彼方。熱く眩い光の中央に。
炎の尾を後ろ髪に引く、一人の「少女」の輪郭が浮かび上がった。
その輝きの前には、きっと太陽でさえ霞んでしまうことだろう。
「あ、ああ……」
圧倒的な存在感と熱放射に狼狽しつつ、男はこくこくと頭を上下させ肯定の意を示すと、「炎」は再びその輝きを強めた。
まさしく天裂く火柱。
火柱は周囲を神々しく照らし出しながら、死の匂いが粘りつくように沈殿した戦場の空気を、熱く、吹き散らしてゆく。
舞い上がる粉塵は炎に焦がれ、少女の幻影を中心に逆巻いた。
熱に煽られたことで急激に大気が膨張し、凄まじい爆風が生じる。
叩きつけるような爆風から両腕で顔を覆い保護しながら、その場に居合わせた兵士達は目の前の光景を呆然とした表情で見守っていた。
『少し離れていてください』
紅蓮の炎の軸心にいるというのに、少女の声はどこまでも冷淡で、不思議なほど男の鼓膜を強く刺激するものであった。
我に返った男は軋むに肉体に鞭を打ち、慌てて少女から距離をとる。
男がその場を離れたことを確認した少女は、迅速に苛烈な行動へと移った。
『Scintilla』
火柱の中から突き出される華奢な腕と、流暢な少女の呟き。
それは炎に命を吹き込むが如く。
周囲に纏っていた紅蓮を肉体の一点へ、前方へと差し出された右手へと移動させる。
少女の掌の上に集まった紅蓮は純白の猛火となって小さな竜巻のように渦巻くと、急激な収縮へと転じた。
集った炎は帯電しつつ、燦然と輝く純白の光球へと姿を変える。
眩い逆光の中。炎の鎧が剥がれた少女は右手でそれを無造作に「掴む」と、腕を胸のうちに折り畳み、祈るようにして光球を抱き留めた。
「――行け」
呟きと共に。
少女は身体を百八十度反転させ、振り払うようにして折り畳んだ右腕を後方へと突き出した。
流れるような所作は、少女が洗練された兵士であることを窺わせるもの。
手の内に握られていた光球は、ダーツの投擲を思わせる優雅さで放たれた。
自然の炎とは異なった、混じり気ない無機質な輝き。
夜の街道を跳ね上がり流星を彷彿とさせる軌跡を描いて放たれた光球は、白い尾を引く弾丸と化し、標的を目前に急激に加速。アパートの屋上から身を乗り出していた「蜘蛛」の胴体へと吸い込まれるように突き刺さった。
光球は内包された熱量を以て分厚い金属の装甲を瞬時に灼き熔かし、熔けた金属は血のように踊る。
やがて光球は蜘蛛の内部へと吸い込まれ、
轟――。
という爆音と共に蜘蛛の体内で純白の光を産み落とし、一瞬の内に膨張。凄まじい衝撃波を「蜘蛛」の体内で発生させた。
内部から破壊の限りを受けた「蜘蛛」は生物らしく苦しげに悶えると、次の瞬間には膨らみ過ぎた風船のように――バラバラに四散する。
支えを失った「蜘蛛」の足は重力に引かれるように傾ぐと、周囲の民家を巻き込み白煙を舞い上げて倒れてゆく。
「ま、魔法……?」
茫然とした男の呟きが宙に溶け、焼けた金属片が雨のように街へと降り注ぐ。
燃える棟々の焔が少女の横顔を照らし出し、紅蓮の双眸が暗闇の中に薄ぼんやりと浮かびあがった。
髪も紅蓮。背中に流れる長髪は艶やかに、爆炎の空に揺れる。
ここに至るまでに数多くの死線を潜り抜けてきたのであろう。
色の白い身体には多くの裂傷と自身のものではない血糊が見受けられたが、不思議とその表情には疲れや迷いの色は窺えなかった。
カーキー色の軍服を身に纏ったその姿は、まさしく戦乙女のよう。
戦場に降り立った勝利の女神を彷彿とさせる立ち姿だった。
「右翼後方より敵影!接触します!」
敵――。
その言葉に少女は赤の瞳をちらと流し、明確な殺意を露わにした。
正直なところ、未だ部隊の索敵能力が機能していたことに男は些か驚きを禁じ得なかったが、今はそんな悠長に構えてる場合ではないだろう。
右翼後方、「蜘蛛」の死骸を踏みしだき接近する脅威に対して、男は全神経を集中させた。
(何か武器になりそうなものは……)
男は先程の戦闘で自動小銃を落としてしまっていた為、何か代わりになりそうな武器はないかと夜の闇へと視線を走らせた。すると幸運なことに、男から見て数メートルほど後方の瓦礫の隙間に鈍く黒光りする銃身が覗いているのが目に留まる。
「よしっ」
男は姿勢を低く保ったまま駆け出し瓦礫に取りつくと、下敷きになっている銃を掴み、引き抜くべく銃身に力を加えた。
しかし瓦礫に銃の金具部分が噛んでしまっているのか、そのまま引っ張っただけではビクとも動かない。
胸中に湧いた若干の焦りを強く自制しながら、慌てず腰を落とし、綱引きの要領で全体重を掛ける。
「――ぅおおおぉッ!!」
肺から漏れた雄叫びがそうさせたのか、瓦礫を押し退けるように銃身が滑り出した。やっとの思いでズルズルと動き出したことに内心安堵しつつ、額の汗を拭うべく顔を上げる。
そこには変わらぬ暗闇と。
一つの身体から奇妙なほど長い首を三本生やし、先端に三つの頭部を据えた成りの「化け物」の姿が。
身長は先程の巨人と同じくらいだろうか。化け物の顔には数十の眼球がその表面を埋め尽くすように光り、それぞれが別々の方向を虚ろに見据えていた。
阿修羅を思わせる三頭の化け物は男からそう遠くない距離で立ち止まると、“胴体に生えた巨大な鼻”を鳴らし、まるで臭いを嗅ぐような素振りを見せる。
豚のように鼻を鳴らしつつ、ぐるりと視線――というより首を巡らし、眼下の街並みの中から確かな「生」の匂いを探っているのだろう。
死の匂いが満ち満ちた戦場の中で、脈動する鉄分の匂いを辿り。
そして、男の姿を虚ろの眼孔に捕らえた。
「クソッ!」
鼻息をより一層荒げながら駆け出した巨体は、他の兵士たちが放った鉛玉をものともせず、凄まじい速度で男へと肉迫する。
男はなんとか引き抜けたアサルトライフルを構えて応戦しつつ、握り潰さんとする勢いで伸ばされた右腕を必死の思いで掻い潜った。
街灯をもぎ取りアパートの一階部分へと腕を突っ込ませた怪物は、砂塵を舞い上げながら停止。戦場に幾許かの空白をもたらす。
しかし。身動きが取れなくなった怪物は長い三つ首を擡げ、生物ではあるまじき行為でその空白にピリオドを打った。
持ち上げた三つの頭を振りかぶり、まるで双節棍でも用いるかの如く。無造作に、そして乱暴に。近くにいた男と男の部下達に対し、絶望的な質量差による「頭突き」を放ったのだ。
場数を踏んだ兵士たちであっても、この行動は予想だにしないものであった。
ましてや彼らが危機感を抱いたのは回避が不可能な間合いまで怪物の頭部が接近した後のことであり、気がついた時には、時既に遅し。
悲鳴じみた声が上がる。
刹那――、
「――Praepes」
彼らの悲鳴を掻き消すように。
不死鳥が如き光翼を携えた少女が紅蓮と共に飛来し、兵士たちと化物の間に降り立った。
殺気を漲らせた瞳は、血のように赤く。
彼女は腰に下げた獲物。西洋の長剣に似た造形を晒す刀身を引き抜くと、巨人の三つ首へと流れるような斬撃を放った。
細身の鋒を爆炎が伝い。
閃光がその軌跡を舐める。
空を裂いた斬撃は熱を孕み。
一つの刃となって巨人へと殺到した。
紅蓮の刃は肉を炙り、炭化させ、骨まで焼き尽くす。
肉の焼ける匂いが周囲に立ち込めたのは、巨人の三つ首が地に落ちた後のことであった。
事実、物体に熱が伝わる速度。つまり定常伝導伝熱速度は物体中を伝わる音速よりも遅く、その距離も短い。
これは熱が伝わるプロセスと音が伝わるプロセスに大きく起因するものであるが、少女の放った斬撃は周囲に放射された熱量から見ても、おおよそ巨人を瞬時に両断せしめるほどの火力はなかったといえるだろう。
それでも、少女の放った炎の斬撃は巨人の首を瞬時に両断していた。
この事実はつまり、彼女の放った炎は自然的な炎ではない、ということを示唆している。
同時に、彼女が「何者」であるのかということも。
兵士たちは各々の表情で少女を凝視し、まだ幼さの残る顔立ちに驚きの色を隠そうとはしなかった。
その中の一人。巨人の猛攻から命を救われた一人の若い兵士が尻餅をついたまま恥ずかしがる様子もなく少女を見上げ、震える唇から言葉を零した。
「あ、アンタは……まさか。ぐ、紅蓮の…」
少女は刃に付いた血を軽く払い鞘に収めると、切れ長の眼差しを彼らへと投げた。
そこには先程まで浮かんでいた殺気はなく、無機質な色も消えていた。
代わりに温かな、そして少し大人びた少女の微笑みが、そこにはあった。
宇宙を構築する「情報体」――高次元空間構造に干渉し、自らの内に描いた構成を、ただの「幻想」から現実の「結果」へと結び付ける力。
「魔法」「魔術」「錬金術」
「呪い」「超能力」「神通力」
それらオカルトではなく、「科学」として定義された技術。
そして、それを行使する「術」を持ち合わせた者達。
人は「彼ら」のことを、畏敬と妬みの念を込めて“こう呼ぶのだ”。
『構成術士』―――と。
それこそが彼女らの。
あるいは「人間兵器」と謳われた、彼らの呼び名だった。