Act.2 微睡みの中で <2>
赤い雫を撒き散らし、錐揉むようにして近くのアパートに激突する力無き形骸。
否、「激突」と呼ぶことさえ憚れるような、まるで歩道橋下に殴り書きされた落書きの様な惨状であった。湿っぽい音を立てて飛び散った赤い血糊がベッタリとコンクリートを濡らし、肉片を周囲へと撒き散らす。
同様に、男が手にしていたライフルも紙細工のように無残にちぎれ飛んでいた。
鈍色の破片の一部が持ち主であった肉塊と一塊りとなって、ソフトコート舗装の路面を滑っていく。
「え……?」
赤い飛沫を浴びた兵士の一人が、顔に付いた血も拭わぬままに呆然と呟いた。
彼の者らにとって、絶望ともいうべき呟きを。
「も、もう……一匹?」
その問いには語弊があった。
背後からやってきた高さ五メートルはあろう新たな怪物は先程と同種ではなく、明らかに人間的ではない。ましてや「生物的」ですらなかった。
それは機械的な、例えるならば戦車のような胴体から溶接されたような取って付けられた感の否めない金属製の足が八本屹立し、蜘蛛のような姿を月夜に晒している。
八本の足の中の一本には茶色の錆びに混じるように生々しい血糊がこびりついており、見る者全てに嫌が応なく先程の惨状を彷彿とさせた。
怪物は蜘蛛のように、とまではいわないが酷く類似した動作で脚を忙しなく動かすと、ズルズルと住宅街から這い出してきた。
旧式の戦車とその乗員が“蝕われ”、怪物と化した成れの果て。
異形のモノたち――『ハンニバル』。
それが人が彼奴らに付け与えた、あるいは彼奴らが人類から勝ち取った名前だった。
機械仕掛けの蜘蛛は血のような、恐らくオイルであろう赤茶色の汁を路面へと吹きつけ身を震わせると。
「動物的」にではなく「静物的」に、金属が軋むような声で嘶いた。
化物はゆったりとした動作で鈍重な胴体を持ち上げると、民家の屋根を削りながら一歩。もう一歩と、糸に絡まった獲物へと近づく蜘蛛の如く兵士らの方へと前進する。
「う、うぁああっ!」
先の歓声から一変。兵士達の間に狂気にも似たひとつの感情が連鎖し、戦場を支配した。
いや、純粋な生物としての本能が彼らをある行動へと走らせたのだ。
怪物に背を向けて逃げるという、愚行へと。
「ひ、ひいぃ……!」
結果として、それは最悪の事態へと直結してしまった。
恐慌した兵の向ける標準の定まらない銃口は無意味に弾丸を浪費し、空の薬莢が虚しい音を立てて路面を滑る。
空虚な抵抗に怯む様子さえない蜘蛛。
おぞましい姿に慄いた兵士たちは空になった弾倉を投げ捨て、必死な、悲痛でさえある形相を浮かべ蜘蛛から逃れるように反対方向へ駆け出した。
結果として、あるいは必然的に隊列は崩れ、戦線はろくに機能しなくなっていた。
索敵も、また然り。
そう――。先の巨人の背後から迫っていた新たなる脅威。二体目の巨人の接近を誰も察知していなかったのだ。
無防備にも住宅の角を曲がった者達は不意を突かれ、正面から迫り来る巨大な掌を避けることができず、無残にもその一生を終えることとなってしまった。
巨大な掌は蟻でも捻り潰すかのように。幾人かの人束をアスファルトへと乱暴に撫でつけ、ゴリゴリと磨り潰してゆく。
死にゆく兵士たちの中でもLシールドを掲げた重装歩兵の幾名かが盾を掲げ必死に抵抗を試みたようだったが、虚しくも巨人の圧倒的な暴力に抗うことはできなかった。
ひとり、また一人と、無残に叩き潰されてゆく。
「クソッ、燃料切れだっ!」
光壁を維持するために必要なのは起動に要するエネルギーと、光壁の構造体となる粒子。エネルギーの供給停止は粒子同士を結び付けていた電磁気力の低下を招き、やがて、光壁を維持することができなくなる。
事実、幾度となく振り下ろされる拳を前に、輝く力場は光の粒となって宙へと霧散してしまった。力場を失った盾に鋼鉄以上の硬度などあるはずもなく、装備者諸共巨人の掌に捻り潰される。
「怯むなっ、重火器を使って迎撃しろ!」
しばらくして(実際には数秒程だろうが)、惨状を絶望的な眼差しで見送っていた兵士の幾名かがようやく我に返っていた。
素早く手にしていたSMAW(肩撃ち式の多目的ロケット擲弾発射器)を肩に担ぎ、その場で深く重心を落とす。
「撃ぇぇッ!」
迅速かつ的確な構え。兵士たちは慣れた手付きで照準を「蜘蛛」へと定め、一斉に引き金を引いた。
放たれた弾頭は白い尾を引いて空を滑り、巨大な「蜘蛛」の胴体部分に吸い込まれるように命中する。
着弾と同時。爆音と爆炎が膨れあがり、「蜘蛛」の身体が弾かれたように宙に浮いた。
しかし――白煙から覗く「蜘蛛」の体躯には、傷一つ付いていなかった。
「効いていない…のか?」
発射された弾頭は「蜘蛛」に命中こそしたものの、大した効力を獲得しえなかったらしい。
倒れることなく持ち直した「蜘蛛」は、兵士達が次弾装填を終えるよりも早く、鉄骨と紛うが如き機械仕掛けの前足を一蹴。逃げ遅れた幾名かの隊員は悲鳴を上げることさえかなわず、崩れた民家の瓦礫を赤く染め、惨たらしく同化した。
彼らの精神を侵すのは、濃厚な死の香りが漂う、暗い絶望。
部隊の約半数が死に、逃げ惑う者の悲鳴と罵声とが唯々飛び交う戦場の真っ只中で。
部隊長らしき一人の兵士が、祈り、懇願するかの如く声高に叫んだ。
「持ち堪えるんだ!もう少し――きっともう少しで、きっと彼らが…」
男の声の節々に宿るのは、揺るぎない意思。そして、「とある根拠」に基づいた希望そのものだ。
演説するような、滑稽さを孕んだ言葉の羅列が示すのは、
「“候補生”が来てくれる。紅蓮のっ……?!」
だがその叫びは掠れ、戦場のざわめきの中に呑み込まれることとなった。
「隊長ぉっ!!」
一人の兵士が男を見遣り、悲鳴じみた声を上げる。
部下の声を聞きながら、彼は自らの肉体を襲う激痛に顔を顰めた。
「ぐぅあ…っ!?」
彼が言葉を言い終えなかったのは故意ではなかった。
理由は、外的要因よって肺を圧迫されたことによる呼吸困難。
――男の身体は、巨人の掌に捕まれていたのだ。
全身の骨が軋み、悲鳴を上げる。
締め付けられ肺から吐き出された息は熱く熱を孕み、血の匂いを漂わせた。
肺から空気が溢れたことで内蔵破裂こそ免れたものの、肋の幾本かは持っていかれたかもしれないと、恐怖に冷え渡った脳の一角が自らがおかれた現状を冷静に認識していた。
錯覚なのだろうか?食いしばっていた口元からは、血の味が滲んできている。
「クソッ……たれっ!」
巨人は子供がプラモデルで遊ぶような酷く拙い動作で男を掴み上げると、躊躇いもなく口元へと運んだ。
疑うまでもなく食すつもりなのだろうが、大人しく食われてやるつもりなど男には毛頭なかった。彼は唯一自由のきく右手をベルトに下げていた手榴弾へと伸ばす。それをやっとの思いで掴み、口元へと運ぶと、
「お、まえはッ」
手榴弾の安全装置、リング状の金具を己の犬歯に引っ掛けた。
「これでも…食ってろッ!」
首と右手で力一杯ピンを引き抜く。
ピンを吐き捨て、手榴弾を化物の口内へと投げ込む、直前。
「ぐぁ…!?」
放物線を描いて投げ込まれる筈であった手榴弾は投擲の間際、巨人の掌から加えられた圧力によって男の右手から零れ落ちてしまった。
路面へと落下した手榴弾は間の抜けた軽い反響音を響かせた後、虚しく巨人の足元で炸裂する。その際、手榴弾から飛び散ったいくつかの金属片が巨人の足首に食い込みこそしたものの、巨人を怯ませるには到底至らなかった。
(万事、休すか…)
圧迫による酸欠と激痛に喘ぐ肉体からすうっ――と意識が遠退き、視界が歪む。
緩慢で一方的な暴力の中、男が己の死を覚悟した。
――その時だった。
美しくも涼やかな、凛とした少女の声が言葉を紡ぎ。
男の鼓膜を。大気を震わせたのは。