Act.29 遭遇 <2>
その間にも唯の瞳からは一雫の涙が伝い、ひとつ、またひとつと少女の上着を濡らしてゆく。
『もしかしたら、不出来な私に愛想を尽かして出て行ってしまったのではないかと――』
「そ、そんなわけないって。ユイは良い子だし」
何やらネガティブな思考に走り始めた少女に、カレンは冷や汗をかきながら窘めに掛かる羽目となった。
そもそも、アイツに尽かすほどの愛想があったのか、という点に関して、カレンは甚だ疑問ではあったのだが…。
対する唯は、画面の向こうで黒い髪を乱すように頭を振った。
『いえ、別に私のことはいいんです。ただ襲さんのことが心配で……その、悪い大人に騙されたりしていのではないかと』
「いや、アイツはそんなに若くないでしょ……」
唯のやや(?)過保護過ぎる心配に、カレンは呆れ半分に毒を吐いた。
若気の至りとか、若さゆえの過ちだとか…そういった青春時代の少年然とした慣用句とは天涯無縁のアイツに、ありきたりな心配を寄せる方が間違っているようにカレンは思えてならない。
しかし醒めた考えを巡らせるカレンと異なった考えを持つ唯の思考は、更にヒートアップを続けるようだった。
胸の前で両拳を握り、今にも歯軋りを始めそうな形相を浮かべている。
『襲さんは若いですっ、ピッチピッチですよっ。ですから、どこぞの女狐に襲われていないかと……』
(あぁ、本音が漏れてる、漏れてるって)
瞳の奥に不穏な陰りを見せ始めた少女に、やや怖気付きつつ。
カレンは手をポンポンと叩いて少々強引に話題の転換を図った。
「はいはい、もちろんわかってるって。それより私に電話してきたってことは、アイツがもうウィスタリアに居るって知ってるんでしょう?」
大分無理がある切り口だと自覚していたのだが、冷静さが欠落し始めて久しい思考には違和感なく届いたらしい。恐らくは襲に対する極度の心配性が功を奏したのだろうが、それを幸いと言えない辺りカレンの心境は複雑である。
ともかく、ようやく少し冷静さを取り戻した様子の唯は、少々歯切れ悪く肯定した。
『はい、実は襲さんが七高に入学するという話自体は前々から聞いてはいたんです』
「なら別にユイを見限ったとか、そういうわけではないんでしょう?
……まぁ、突然いなくなったこととか、連絡の一本もないってのはどうかと思うけど」
苦笑混じりに、カレンはユイに同情を示す。
確かアイツ――襲と唯は、昨年まで普通の中学校に通っていた。それ自体はカレンも知ってはいたのだが……。
彼らが普通校に通っていたのは当人たちの、特に襲の意向によるところが大きいが、その真意がわからないほど今のカレンは幼くはないつもりである。
アイツ自身、構成術士としての才能が劣っていることを自覚していると言っていた。要は自覚していたのだ。何かと“危険”の多い詞素大学の付属校に唯を連れて行く為には、己の実力が不足していることを。
元々襲自身は詞素大学付属第一中学校への進学を望んでいたのだが、唯を傍に置いてから一変。普通校への進学を決めた。
志望校を急遽変更した理由を本人に問い質してみたところ、あくまでも「なんとなく」だと言い張っていたが、アイツが特に理由もない「気紛れ」で志望校自体を変更するような性格ではないことを、他ならぬ彼女自身が良く知っている。
だが、彼が護るべき少女は“有名”過ぎた。何より、構成術士として“有能”過ぎたのだ。
捻くれた根性の持ち主のアイツはきっと、本人には――唯には面と向かっては絶対に言わないのだろうが、何よりも彼女の身を案じていたのだろう。
本人は認めないだろうが、アイツはそういう性分なのだ。
恐らくは唯も、薄々理解はしているはず。案の定、彼女は躊躇いがちにこくりと小さく頷いた。
『そう……ですよね。わかってはいるつもりですが……』
先程とは打って変わって、深刻そうな――彼女にとっては先の話も深刻な問題だったのだろうが――色を言葉の節々に宿らせた唯はそう言葉を濁した。
憂いを帯びた表情を見せた理由に心当たりのなかったカレンは、正直不意を突かれた思いだった。
「えっと、他に何か気になることでも?」
唯は俯かず、背筋を正して。自らのこめかみに人差し指を突き付けた。
傍から見れば、拳銃で自殺を試みる自殺願望者のような構え。
意味深な行動に、カレンは余計に混乱するのを自覚する。
対して、画面の向こうの少女の瞳は真剣そのものだった。トントンと軽くこめかみを叩き、胸のうちに巡る不安の源泉を語り明かす。
『つい先程、襲さんが私の……構成術を使ったみたいなんです』
ここまで言われれば、流石にカレンも少女の言いたいことを察することができた。
「構成術って、もしかして例の中二病……じゃなくて、確か『半自動自己復元』だっけ?」
『はい、例の中二病臭いやつです。いつもお耳汚ししてしまって申し訳ありません』
カレンの失言に対して唯はくすくすと笑ってから、悪戯っぽい口調で拗ねてみせた。
冗談めいた態度だとは知りつつも、カレンは慌てて謝罪の態勢に入る。
「ごっ、ごめん。そんなつもりじゃ……」
『いえいえ、確かにちょっとバカっぽいですし、元々あった術式名を言い換えてるだけですからお気になさらないで下さい。事実、襲さんも気にしてましたし』
やはりこちらのことをからかっていただけのようで、口元に手を当てて微笑む少女の機嫌はむしろ上機嫌に見える。
その様子を見て内心ほっとしていたカレンだが、多少の気まずさもあってか本題に移ろうと自ら口火を切った。
「そ、そう言ってもらえると有り難いけど……。
えっと、『半自動自己復元』が使われたって言ってたけどどうして?」
『実は私自身も本人の口から詳しい事情を聞いたわけではないので……。
一応起動式を逆算して術式を解析してみたのですが、お恥ずかしい話、自分の術だというのに“極小規模のもの”であったことしかわかりませんでした』
口早に言って肩を落とす唯を横目に、カレンはその術式の詳細について思い出していた。
唯が得意とする「半自動自己復元」とは、術式の「対象」となったモノが何らかの改変を受けた場合において半自動で発動し、その「改変をなかったことにする術式」である。
「半自動自己復元」は端的に言ってしまえば――そう。
詞素を用いて、分子レベルでの外科的手術あるいは修繕を対象に行う術式……とでも表現すればいいだろうか?
分子間に吸蔵させた詞素を“分子ごと”操作することで、分子構造を復元し、怪我などを完治させることができる。
分子レベルでの復元である以上対象に修復の跡など残るはずもなく、やはり手術や修繕とは到底言い難いのだろうが、術のイメージとしてはそこまで間違っていないと思う。
これは変な例えになってしまうのだが、例えばアイツが……襲の腕が切断された場合、術を発動した瞬間、切断された腕が元あったように復元されるわけだ。まるで、時が巻き戻されたかのように。
だが決して、不死身ではない。
詞素が致命的に不足している襲一人では当然この術式は実行不可能であり、また、体細胞の増殖などによって常に物理的に変化し続けるのが人体である以上、唯一人ではやはり行使できない。
つまり、二人の間で「起動式」と「詞素」を何らかの方法を使って共有する必要性がある、というわけだ。
本来ならば、構成術士同士の間で詞素や起動式を共有するなど不可能。
しかし、襲と唯の間であれば、その限りではない。
――何故なら、襲と唯の二人の詞核は「とある事情」によって一部接続しているからだ。
具体的には、「半自動自己復元」の「起動式」の提供は襲自身の詞核から行われ、「詞素」の供給は唯の詞核から行われている。
詞核が接続している以上、構成術の発動において互いの距離や壁などの三次元的(物理的)な要素は障害にはならない。だから、例え互いが地球の裏側にいようとも、術の発動には一切の影響は生じない。
それゆえに可能な術式。
だが、それゆえに不完全な術式でもある。
まず、術の発動には時間が掛かる。
そしてもう一つの大きな障害に、術の発動が半自動であることが挙げられるだろう。
全自動ではなく半自動ということは、術者の意識がなければ発動しない、ということに他ならない。つまり襲と唯双方の意識が、覚醒状態にあることが最低条件なのだ。
更に言えば唯の詞素が尽きているときにも使用できないし、唯が他の構成術を行使しているときにも当然ながら行使できない。
単純な話、かなり使用条件が制限される術式なのだ。
術の欠点を誰よりも―――そう、“術式を開発したアイツよりも”深く理解しているのは他ならない唯自身なのだろう。
彼女は不安げに、それでも強がりだとわかる笑みを作り、浮かべる。
健気で、痛々しい姿だった。
『襲さんは普段は冷静なくせに、たまに無鉄砲ですからね。少し…不安にもなります』
カレンは口を噤み、無言の肯定が二人の間に深く沈み込んだ。
沈黙は鉛のように、数百キロの距離を超え双方に重い空気となって伸し掛る。
事実、アイツは身体が丈夫に“造られている”反面、命を軽んじるような、常人でなくとも並の構成術士でさえ一歩間違えれば死にかねないような「綱渡り的行動」を澄ました顔で実行してしまう悪癖がある。
見ていて危なっかしいと言わざるを得ない、要はかなり生き急ぎな節があるのだ。
「半自動自己復元」が死さえも退けるようなそんな完璧な術式であったならば、唯の不安も少しはマシになるのだろうが…。
(自分の構成術、しかも治療用の術式が自分の知らないところで使われたともなれば、まぁ心配にもなるわよね……)
不完全な術式に、不完全な安寧。
彼女の抱える不安はきっと、いや、間違いなくアイツは知らないだろう。あるいは、考えたことすらないのかもしれない。
不思議と腸が煮えくり返る――ほどではないが、焦燥にも似た怒りが沸々とカレンの中で沸き立ち始めていた。
相談してきた唯の気持ちに応えたい。使命感にも似た想いが、カレンの中で確かなものとなった。
大きく頷き、どん、と胸を叩いてから、カレンはニヤリと不敵な笑みをして見せた。
「わかったわ。七高にも丁度用事があったところだし、説教ついでに確認してきてあげる。
まぁ、アイツのことだからピンピンしてると思うけどね」
カレンの明確な口調に、唯は青の瞳を一層丸くして。
くすり、と小さく花のような笑みを零した。
『はいっ、宜しくお願いします、カレンさん』
やはり唯にはいつも笑っていてもらった方が気分が良い。彼女の笑顔に癒されて、カレンも釣られるように微笑んだ。
暫しの合間、二人の間に沈黙が漂う。だが、悪くない沈黙だった。
「じゃあ、あのバカを見つけたらすぐに電話するから、期待して待ってて――…?」
得意げに沈黙を破ったカレンの語尾に、何故か疑問符が付属していた。顔を上げ、画面の向こうの唯から見て右方向へと首を巡らせる。
そのことに疑問を覚えた唯の頭上にも、同様に疑問符が舞い踊ることとなった。
『ん?どうかしましたか?』
彼女の問い掛けが聞こえていないのか、カレンの視線は固定されたまま微動だにしない。
唯も画面へと身を乗り出してみるが当然画面外の映像まで見えるはずもなく、そわそわとカレンの表情を伺うことしかできなかった。
最新の携帯端末といえどTIGのテレビ回線は基本的に画面側にしか機能しないものであり、いくら映像が立体的に投影されていたとしても「見える範囲が拡張された」とそれを見るものが勝手に錯覚しているだけである。
だが幸いにして。
状況が全く飲み込めない唯の耳に、呆然とした表情から呆れたような表情へとシフトしたカレンの呟きが入って来た。
「いた……」
カレンの赤の瞳が赤く、燃えるような色を帯びて。
二人の回線は一時遮断されることとなった。




