Act.1 微睡みの中で <1>
二千九十六年 五月八日。
鮮血が舞う――。
隊列を組み、月明かりのない街路を駆ける青服の一団の一角。
先頭集団の数人が、人の背丈よりも遥かに巨大な“人影”に薙ぎ払われ、非現実的とも思える放物線を描いて吹き飛んだ。
肉が潰れ、骨が砕ける。
粘着いた体液が糸を引く躰は重力に引かれ、荒々しく路面へと落下する。
その様子を例えるなら――そう。
濡れた雑巾を床に叩きつけたような、そんな耳朶を打つ不愉快な水音とともにソフトコート舗装の美しい街道へと飛び込んだのだ。
衝撃的ともいうべき光景を目撃した幾人かの兵の間に、明らかな動揺が走る。
視線の先には、無惨な形骸を踏みしだき、生者へと歩みよる化物の姿が。
ヒトのなりをした化物の背丈は見上げるほどで、恐らくは一般的な二階建ての住宅ならば屋根など楽に手が届くほどの大きさを有していた。
しかし山の如き巨体は表向きの輪郭でしかなく、火の手が上がった民家に照らされ映し出された彼のモノの肖像は、おおよそ人間的ではない。
いや、それでも生物的ではあったのだ。
犠牲者達の血で濡れた化物の皮膚は生皮のようにてらてらとその全身を覆っており、双眸は井戸の底のように深く黒く虚ろに窪んで、口は横ではなく衣服のジッパーのように縦に開いている。刃物のような歯もそれに習っていた。
巨人は嬉々として人間を手に取ると、頭からまるで飴でも舐めるかのように。
熱心にしゃぶり始めた。
「ひぃ……」
誰の悲鳴か。
それを悟るよりも早く、声の主は事切れていた。
頭蓋が歪み全身の骨がゴロゴリと鈍い音を立てて砕ける。
家屋を支える木材の酸化還元反応によって生じた上昇気流が風を生み、戦場を支配する大気に気化した血の臭いを綯交ぜてゆく。
戦いの中で家々に飛び火した炎は血のように、どこまでも赤い。
「――っ!ライトシールドを持っている者は前へ!他は援護だ、撃ちまくれ!」
部隊員の一人。恐らく責任者だと思われる男が手にした自動小銃を振りかざし、勇ましく声を張り上げた。
男の度重なる叱咤の声にようやく正気を取り戻したのだろう。
立ち尽くしていた幾人かの兵士が恐怖に震える身体に喝を入れ、一斉に行動を開始する。
先ず始めに動き出したのは、隊の中でも重装歩兵と呼ばれる兵士たちであった。
彼らは金属の鎧に身の丈程はあろう盾を構えた、まるで西洋の物語に出てくるような王国騎士さながらの兵装を携えており、戦場に赴く武装と言うより仮装会へと出掛けるコスプレのような体が拭えない。
しかし、戦いの炎に縁られた姿はどこか幻想的ですらあった。
金属特有の鈍色の光沢には赤い舌がちろちろと、炎の揺らめきが映し出されている。
「攻撃が来るぞ、急いで隊列を組めッ!」
重厚で身の丈程もある機械仕掛けの盾を手に、彼らは鎧を身に纏った体躯をしなやかに夜の街へと滑らせてゆく。
外見的には鎧というより関節を除く全身に鈍色の装甲を張り付けただけのツナギのようにも見えるが、恐らく機動性を重視した結果、各関節部分の装甲が排除され軽量化が図られたのであろう。
彼らはカチャカチャと小気味良く鎧を鳴らしながら、足並みを揃えて前進してゆく。
隊列を崩さずに駆ける兵士達の姿はまさしく金属の壁そのもの。
しかし怪物からしてみれば己の膝丈にも及ばない人間など畏れるはずもなく、既に丸太の如き豪腕を虚空へと振りかぶっていた。
「ライトフィールド展開用意!」
何処ともなく発せられた号令に、重装歩兵の隊列は迷うことなく横一列に静止した。
続けて手にした盾を路面へと置き、身体を預けるようにして一斉に防御体制へと移行。盾の裏面に取り付けられたタッチパネル式の制御モニターへと指を滑らせると、機械仕掛けの盾が低い唸り声を上げて稼動した。
それを合図に。盾の前面壁に淡い緑色の火が灯り、揺らめくことなく発光する。
燃焼によって生じる炎とは明らかに異なるその輝きの本質は、中波長程度の電磁波を放つ粒子束がもたらした光学現象だった。
「構えぇぇぇ!!」
先程叱咤の声を上げた兵士が、再び声を張り上げる。
恐らくは、足を震わせた兵士達を鼓舞した言葉だったのだろう。
あるいは、自身に向けた言葉でもあったのかもしれない。
盾を手にした重装歩兵の一団はその声を背に足を肩幅より大きく開き、歯を食いしばった。
刹那、戦場を裂くが如く。
淡い緑光を放つ交差状の力場が兵士達と巨人とを隔てるように屹立。彼らの意思に応え部隊全体を包むように展開した。
障壁の完成から幾許と経たず、間合いを詰めてきていた巨人が光の壁へと飛び込み、肉の焼けるような異臭とともに後方へと蹌踉めく。
「隊列を崩すなっ!」
シールドを手にした重装歩兵の一団はその場で等間隔に隊列を組み、盾より生じた緑光壁を重ねるように足を運んでゆく。
事実、光壁を重ね合い合成することでその輝きが増し、展開範囲と強度を互いに補い合っていた。
そして、化物へと相対する。
「前進っ!!」
彼らが手にしているLシールドと呼ばれる機械盾は、警察や軍隊に支給される四角形のライオットシールドの類には違いないものの、外見を含め、従来のものとは明らかに異なる特徴が多く見受けられた。
盾の裏面に取り付けられた取手下の制御モニター然り、所々に点在する電装部品然り。
重厚な見てくれではあるものの、重量自体は外見ほどないのだろう。
一メートル以上ある大盾を扱うとは到底思えない程の機敏さで、兵士達は再び盾を持ち上げ構えてみせる。
「よぉしっ、押せ!一歩も下がるんじゃねぇぞ!」
輝きを強めながら前進する光壁を前に、化物は押されるように後退した。
近くの民家を踏み付け、薙ぎ倒すように体制を崩す。
「今だ、撃てぇぇ!」
転倒を機に、後方部隊が掩護射撃を開始した。
隊長と思しき男はその喧騒を背に背後を振り仰ぐと、後方に待機させていた一人の兵士にハンドサインを送る。若い兵士は瞳で頷くや、旧式の自動小銃が火を噴く中、長さ一メートル半ばはあろう大型ライフルを抱え近くのアパートの屋上へと駆け上がって行った。
アパートの屋上に立つ兵士と巨人との間合いは、距離にしておよそ百メートル前後。
巨人の全身が視認できるポイントまで辿り着くと、狙撃兵は手馴れた手付きで二脚(バイポッド)を組み立て、ライフルを固定。スコープを覗き込むようにその場に伏せ、伏射と呼ばれる射撃体制をとった。
「フレイム、設置完了。射撃シークエンスを開始します」
明らかに対物ライフルの面影を残した「FLAME」と呼ばれるこの兵器は、今作戦から新たに支給された新型兵器の一つであるものの、実弾を用いることには変わりない。
こうした大口径のライフルの特徴を残しながらも、「FLAME」と呼ばれるライフルは弾丸を発射するメカニズムにおいて通常の対物ライフルとは大きな相違点があった。
火薬ではなく「とある粒子」の性質を変化させ、それを偏向(粒子運動ベクトルの任意操作)して運動エネルギーを抽出する。ただ一点において。
「フレイム、射撃シークエンス完了。詞素充填開始」
それを肯けるかの如く。
FLAMEの銃身が淡く燃えるような光に包まれ、周囲の兵士達は高音が夜闇を劈くを知る。
恐らくこの場にいる多くの兵士達がその意味と無言の重圧の存在を肌身で感じ、五感で認識していたのだろう。
フレイムの名を冠する通り、炎に覆われ、陽光纏う銃身からもたらされる灼熱の風が戦場に織り成す、破壊の限りを。
そして、それは紛う事無き事実なのだろう。
引き金に掛けられた兵士の頬からは緊張の汗が伝い、指先は僅かに震えていた。
「発射!」
彼の者の指先は力強く、躊躇いなく引き金を引き搾った。
瞬間、数コンマにも満たないであろう刹那に。
銃身を覆う紅蓮は純白の光と華し、花開いた光輪は銃口にて嫋やかに膨れ上がる。生じた輝きは「力」の体現そのものであり、輝きは弾丸の運動エネルギーへと昇華した。
この一連の動作がFLAMEに兵器としての意義を与え、結果として対象へと牙を剥く。
――放たれた弾丸は化物の側頭部へと吸い込まれるや、着弾地点に巨大な穴を穿った。
弾丸に血肉を喰いちぎられ穿たれた巨大な風穴からは滝のように、化物の赤黒い血がごぽごぽと音を立てて噴き溢れていく。
一拍遅れて、悍ましい、地獄まで尾を引くような巨人の悲鳴が響き渡った。
だが死に抗う術を持たない巨人は緩慢な動作で撃たれた頭を両手で押さえ、山のような巨体を傾がせた。
脳髄を吹き飛ばされたにも関わらず、己の血に濡れながらも数十秒に亘ってもがき苦しんでいた様は生物としては異様ではあったが、やがて失血により体力を失ったのだろう。
身体を支えることさえままならなくなり、巨人は既に半壊しつつある周囲の民家を巻き込みながら土を舐めた。
「よしっ!はは、やったぞ!」
舞い上がる粉塵の中、兵士達の歓声が上がった。
外敵を排除したことによる優越感。あるいは極度の緊張状態から開放されたことによる、一種のアドレナリンの作用によるものなのかもしれない。
だが、悪夢は終わらなかった。
FLAMEを手にした狙撃兵が二脚を取り外し責務を果たした安堵から上体を上げた、丁度その時。
アパートの屋上を地震を紛うが如き激震が襲った。振動で体制を崩した男の頭上に、何かが黒く、暗い影を落とす。
幾許かの間を置いて。ようやく体制を立て直した男が呆けた表情でその影を見上げた瞬間。
なんの前触れもなく。
息つく暇もなく。
背骨の粉砕を知らせるくぐもった粉砕音と共に、背面へと二つ折れになった狙撃兵の身体は血飛沫を撒き散らして宙を舞った。