Act.15 教室にて <1>
食堂でのひと悶着を終え、“椿たち”とカフェテリアで別れた後。襲はひとり、一号館へと辿り着いていた。
歩幅を緩めずに一階の正面玄関から踏み入り、建物の東に位置するB棟へと向かう。
(でかい建物だな…)
彼のいる一号館は、ガラス張りの正面玄関から見てコの字型の建造物である。
資料が正しければ、中央のA棟には一階に購買と職員室。二階には大型の食堂などを構え、三階には図書館や生徒会室などが設けられているようだ。
一号館の中で主に生徒が授業を受けることになるには、東側にあるB棟と西側のC棟だ。B棟とC棟は一般教養科目(国語・数学・理科・社会・英語等)を受ける教室があり、外見も普通の高校と大差無い。
ただし二棟ある本棟の内、ここ一号館には主に実技科目の教室(とその生徒)が集まっている。つまりは構成学部生が割り当てられる号館なのだ。
構成術師を目指すものが入学する、構成術学科(BDC)。
そして、詞素を用いた搭乗型の機械(兵器)の操縦技術を学ぶ、詞律操縦学科。
現在はこの2つの学科が、それぞれB棟とC棟に別れて授業を受ける体制を取っているらしい。
一方二号館は実験棟を近くに置くことからも察せられる通り、工学系の学科が主に集中している。とは言え大学ほど細分化しているわけではなく、むしろカリキュラム的には一つに統一されている感が強い為、まとめて「詞素工学部」と呼ばれることが多い。
正確には詞素材料工学科や詞律精密工学科、詞素エネルギー工学科の三本柱だが、それぞれの学科に付随した専門科目が組み込まれるのは二年の後半からなので、それまでは実質同じ授業を受けることとなる。
斯く言う彼も詞律精密工学科に入学を決めており、主に詞素と関わりの深い精密機械のカリキュラムを三年を掛けて消化していく予定である。
そんな襲が一号館を彷徨くこと自体が奇妙といえば奇妙ではあったが、彼が来月入学予定の一年生であることを除けば、実のところそう珍しい光景でもない。
五千人以上の生徒を抱える七高では部活以外にも様々なサークル団体が少なからず存在しており、そのすべてが実技棟や実験棟、準備棟を利用できるわけではなく。取れる対策として、必然的に学校側は本棟の教室や余っている実験棟をサークル団体に割り振っていくこととなり、自然と工学科の生徒たちも一号館を利用するようになるというわけだ。
もちろん、彼の所属しているサークルもその例外ではない。
ただし、一号館に一部屋しか存在しない“完全な空き教室”を割り振られていることを除けば、だが。
それはともかくとして。
実験棟や実技棟と比較すると、やはり建物の構造材の面で一号館はやや見劣りするものがあった。まぁ、飽くまでも比較的に、である。
事実、地下に存在する断震(制震ではない)装置を考慮しないとしても、一号館の造りは非常に強固なものだ。その強度たるや、遮水壁や大量の備蓄を備えることも相まって、国から“あらゆる緊急事態の避難場所”として指定されているほどである。
「ここか…」
教室の扉の多くは合板性の機械式自動開閉引き戸を採用しており、彼の向かった空き教室も同じ重厚な自動開閉引き戸だったのだが。
奇妙なことに、扉の脇にはモニター機能付きのドアホンが設置されている。
モニター付きのドアホンなんて、校長室か生徒会室くらいなもんだろう。
襲は胸中で陰ながらツッコミを入れつつ、代わりにドアホンを押した。
押してから幾秒の時が経っただろうか。
コール音からそう間を開けず、スピーカーから少女の陽気な返答が返って来る。
『――は~い。どちら様でしょうか』
条件反射的に、だろう。襲という偽名ではなく「本名」を名乗ろうとして、彼は胸中で頭を振った。
ひと呼吸を置いてその思考を整理してから、少年の日本における氏名であり彼の呼び名でもあるその言葉を、含みなく口にする。
「お初にお目に掛かります、雨宮襲です」
『んー、雨宮くん?』
―――気の抜ける返事だな。
人当たりの良さが滲み出ている、女性の声。それが気持ち弾んでいるように聞こえるのは、やはり気のせいだろうか?
モニター越しの本人に直接訊ねたいところだが、初対面の、それも先輩に対する返事をぞんざいにして場を無闇に荒立てるような冒険心もなく、結局形式張った返答を返すことにした。
そもそも既にこちらの個人データは受け取っているのだから、モニターを見れば名乗らなくとも分かるだろう、などと、今度こそ至極真当な不満を抱きながら引き戸が開くのを待つ。
ところが。
(あれ……?)
待てども待てども、一向にその瞬間は訪れない。
流石に不思議に思った襲が、ドアホンのスイッチを再び押してみたところ。
耳障りな電子音とともに、通話を拒否される。
驚きを通り越して唯々呆然と立ち尽くしていると、どこからともなく―――ではなく、ドアホンのスピーカーから、先程と同一人物と思われる女性の声が聞こえてきた。
『申し訳ありませんが、この部屋はこちらからお送りしたカードをお持ちでない方の入室はお断りさせていただきます。ご了承下さい』
あの悪趣味なカードか……。
最早、頓珍漢な主張を始めたその部屋の住民代表(寝泊りをしている、という意味ではなく純粋な皮肉だ)に対して、彼は不満というよりむしろ面倒臭そうに眉を顰めた。
「……わかりました」
襲は胸ポケットから頭痛の種であった黒塗のカードを取り出すと、ドアホンに付いているカードスキャナーに差込み、重力に従って下へとスライドさせた。
本来は学生証を読み取る装置であり、悪趣味なカードをスキャンする為の装置ではないはずなのだが…。
それを嘲笑うかの如く、ピッ、という軽やかな電子音と共に重厚な引き戸が音もなく開く。
『――はい、認証完了しました。
その制服、新入生の雨宮襲くん……だよね?中へどうぞ、すぐに紅茶を淹れます』
やっぱり見えてたんですね。
と、不発に終わった溜息にそっと不満を乗せ、襲はサークル長の悪趣味が治るように「要る」かもわからない神に祈りながら、中へと入る。
「失礼します」
扉を背に礼儀に習って一礼すると、ここでようやく内装を見渡す時間的(あるいはタイミング的)余裕が生まれた。
不自然に思われないよう視線だけを這わせ、周囲を確認する。
室内は思ったよりも広く、中央に置かれているのはデザイン性の高いディスプレイテーブル。他にも一目見ただけでは“彼にも”何に使うかわからない機材がテーブルの周囲に実験棟宜しく配置されており、空調の効いた室内で低い稼働音を上げている。
気密性の高いこの部屋には元より窓がないのか、壁には窓を模した壁面ディスプレイが取り付けられ、なぜか季節外れの秋模様を映し出していた。
そのことに少なからず疑問を覚え、部屋の入り口で暫し立ち尽くしていると。
「いらっしゃい。右手の席が空いてるから遠慮しないで座って」
「……お気遣いありがとうございます」
本当は立ったまま話を聞こうと考えていた彼は少しばかり思案して、先輩の顔を立てる意味も込めて彼女のご厚意に甘えることにした。
恐らく指定されたのは、ホスト席から見て右手の一番下座の席だろう。明らかに左右で男女別になっている為迷いもしなかったが、移動する前に軽く会釈をしておこうと声の主を見遣った。
そこでようやく少女の姿を正面から捉えた彼は、一瞬でその容姿を観察する。
(彼女がサークル長か?)
機械仕掛けの方卓のホスト席。つまり一番上座にあたる椅子の脇に立つのは、緩やかなウェーブを描く黒髪を背中の半ば程まで伸ばした水色の瞳の少女だ。
朗らかな雰囲気を漂わせた少女は何が楽しいのか常時ニコニコと愛想の良い笑顔を振り撒いており、耐性の低い男なら一瞬で骨抜きにしてしまいそうな色香を醸し出していた。
女性としてもやや小柄と言うべき身長ながら、ブレザーを押し上げる胸の膨らみは決して控えめなものではなく。失礼ながら、小柄な身長にそぐわないほど女性らしい印象を襲に与えた。
冷静に容姿を考察する一方、一般男子高校生同様そういった感性が枯れているわけではない――少なくとも彼自身はそう思っている襲だったが、彼の関心は少女を包む生体放射に移っていた。
(…なるほど、確かに強いな。纏っている詞素が、段違いに濃い)
それは、構成術師特有の“生命活動に伴う詞素の循環活動”。
俗に「詞素呼吸(フォノンブリ-ズ)」と呼ばれるこの現象は、その者の構成術師としての素質を判断する為の一般的な一つの指標として知られている。
そもそも構成術師は己の意思の力、つまり思念波を用いて詞素を始めとした「情報体」を操り術式に基づいた効力を獲得するが、その過程としてミーム細胞から発生させた思念波を「情報体」へ送信するというプロセスが必ず生じる。
それこそが構成術であり、そこに異論を唱える者は少ない。
だが、例外として。構成術師にとって、謂わば『呼吸』とも言うべき「無意識的な思念波」が存在する。この思念波によって外部に漏れ出た詞素の動向こそ、詞素呼吸だ。
まず大前提として、生物は生命活動を維持する中で物質流動と物質変異を常とする。
代謝に代表される自己の維持や増殖がその一例として挙げられるが、簡単に言えば血液循環と呼吸、細胞の増殖もそうした生体活動の一種だ。
一方、詞素の代表的な性質の一つに、「物質に吸蔵される特性」がある。
端的に述べると、詞素は物質の分子結合の隙間に浸透することで分子間の結合力を高めつつ、外部から加わった力に対してそのベクトルを相殺する形でエネルギー放射を行う特性があるのだ。
こうした詞素の『吸蔵特性』は物質の強度を飛躍的に高めることが知られており、遂には「詞素材料工学」という新たな分野を確立するまでに至ったわけだが。その最たる例が、“詞素を扱う構成術師本人の肉体”であることは想像に難くないだろう。
以上のことから、優れた構成術師ほど詞素の持つ「吸蔵特性」によって強靭な肉体を有し、余剰エネルギーの放出に伴う活発な生体放射、「詞素呼吸」を行う傾向にあるのだ。
(しかも詞素の流れが流動的だな。洗練された、無駄のない“呼吸法”だ)
彼の『視力』は彼女の詞素を青色に捉え、揺蕩うように循環するその流れを素直な感情で「美しい」と感嘆し、胸のうちで手放しに称賛した。
ふと、傍から見ると、女性の容姿に見蕩れている劣情豊かな男子高校生に見えるかも知れないなと夢想した襲は、ごく自然な動作で視線を外す。
そもそも女性に対する劣情とは無縁な生産性重視の思考回路を構築している彼にとって、大した視覚情報となり得なかったのも確かではあったが。
彼が少女を見詰めていたのは恐らくほんの二、三秒の出来事だったはず。
しかし、それを目敏く察知した人物がいたようで。
「フフフッ。どうやら彼は明日香に魅了されてしまったようだな」
ホストから見て左側の一つ下座に座る女子生徒から、明らかなからかいの声が飛ぶ。
ちらりと下座へ視線を流すと、サイドテールと小麦色の肌が健康的な、どこかボーイッシュな印象を与える少女が腰掛けていた。
彼女は無防備にも脚を組んだまま机に身を乗り出し、ニヤニヤと人の悪い笑みを浮かべている。
明日香と呼ばれた少女はそんな少女と襲を交互に見遣りながら、胸の前で両の拳を握り締め、わざとらしく眉を吊り上げて“観せた”。
「もうっ……!紗雪!あんまり茶化さないの!」
サークル長と思しき少女は流石に花のような笑みを崩してはいたものの、すぐさま冷静を顔に貼り付け、紗雪という少女に正しい注意を促した。
頬を膨らませながらぶんぶんと両手を上下させるその姿は、恐怖よりもある種の和やかさをその場に居る者に与えていただけだったのだが……恐らく、場を和ませる為の一芝居を演じていただけなのだろう。
二人以外の生徒(厳い男子生徒一名)が平然とした態度で姿勢良く着席していることからも、常日頃から行われてきた通過儀礼のようなものであることが伺える。
取り敢えず、明日香と呼ばれている少女は「小悪魔乙女な部長」に相違ないと、彼は自身の憂人帳(友人帳ではない)に無言のうちにフォルダリングした。




