Act.10 予兆 <2>
「痛ぁっ!?」
案の定、背中と後頭部を打ち付けた少女はベンチの上で翻筋斗打つこととなり、後頭部を自らの両腕で抱えたまま涙目に、苦悶の表情を浮かべていた。
投げ捨てた当の本人は何処吹く風に。
ベンチから離れ、十メートルほど後方で横転したままのトラックの運転席を覗き込む。
横倒しになったトラックのフロントガラスは蜘蛛の巣状にひび割れているものの、車内にガラス片が飛び散っている様子はない。それ自体は最新の材料工学技術に舌を巻く結果ではあったのだが、
(誰も乗っていない…無人車両か?)
肝心の運転席には誰も乗っていなかったのだが、襲はこれを奇妙に感じていた。
確かに現代の輸送業務の現場では人件費を減らせる無人車両が好まれてる傾向にあり、世界的に見ても自然な流れと言える。
しかし無人化を進めるにあたって唯一のネックと言えるのが積荷の搬入と搬出だ。こればかりは作業内容にしても防犯面にしても、そう簡単に人の目を無くすわけにはいかない為である。
一方、運送機械や物流監視システムを導入している現場では、完全な無人化に成功している例もある。
しかし、ここは世界有数の構成術師教育機関。
生徒の個人情報が仮に洩れたとしたら「裏」でさぞ高額で取引されるであろうこの学園で、一度人の目に触れる食堂の食材配達なら未だしも、人の手が必要と思われる自動販売機の補填に無人車両を使うのだろうか?
疑問を禁じえない。
偶々なのかもしれない。
それでも襲は直感的に、“何かがおかしい”と感じていた。
(厄介なことにならなければいいが……)
野次馬根性とは天涯無縁な彼にとって、真に憂慮すべきことは自身にとって利となるか害となるか。これに限る。
それを暫し思案した結果、襲は至って恬淡な結論を導き出した。
触らぬ神に祟り無し、という結論に。
そうと決まればこれ以上この場に留まるわけにはいかない。
車両の防犯システムは既に起動して事故発生座標をCTCSへ送信しているだろうし、最悪、学園内の監視カメラに事故の様子がバッチリ映っているかもわからないのだ。
襲は無駄のない動作で腰を上げると、まるで加害者のような心境で目の前の禍根から離れるべくそそくさと歩き出した―――のだが、
「待ってっ!」
少女の静止を促す声と共に突然背後から服を、それもなぜか襟首を掴まれ、不本意ながら不格好につんのめる羽目となった。
同時に、吸いかけた息が口内で逆流する。
襲は若干むせ返りつつも何とか身振り手振りで項を指差して、その手の主に離してくれるよう頼んだ。
「おい、襟首は止めろ。首が絞まる」
「あっ、ごめん!」
咄嗟のことだったからなのか、それとも無意識でやったことだったからなのか。
まぁ、両方という可能性も否めなかったわけだが、こちらのジェスチャーに気づいた少女は慌てて手を引っ込め、悲鳴交じりに謝罪を述べた。
(むしろ突然のことに、悲鳴を上げたいのは俺の方だったんだが…)
それを言葉にするとより面倒な事態になることが容易に予想できたので、襲は至極建設的な判断で自身の感情を飲み込んだ。
「で、何?」
半ば諦めにも似た心境でため息を押し殺し、振り返ると、案の定先程抱えた少女の姿があった。
なお、彼にとっては「助けた少女」ではないところがミソである。
そんな襲の奇妙な心境は一旦隅に置いておくとして。
華奢な体付きの少女にはやはり先程ベンチに放り投げたことが余程堪えたのだろう。睥睨の念を感じさせる表情の合間に、確かな涙の気配が感じ取れる。
と言うより、明らかに不機嫌そうであった。
だが残念なことに、目元を吊り上げ紅潮させている姿は微笑ましい限りだったのだが。
「痛かった…」
「はぁ……?」
憤る少女の、忌々しげな表情。
対する少年の、訝しげな表情。
少女は精一杯のテノールを絞り出したのだろうが、元の声が高い所為なのか大した威嚇効果は生じておらず、襲は必死に笑みを噛み殺すこととなった。
結果、「何言ってるんだコイツは?」という失礼極まりない態度だと、少女に勘違いされてしまったのだが。
「だから、痛かったの!そりゃあ助けてもらったことにはスッゴく感謝してるけど、何も投げ捨てなくてもいいじゃん!せめて普通に降ろしてよ!」
少女の訴えが、木漏れ日の合間から青空の彼方まで響き渡り――、
対する少年は、顔色一つ変えず無表情に言い捨てた。
「………え、嫌だけど?重いし面倒臭い」
「重っ――!?」
襲にとっては質量のある物体の運搬は面倒だ、という偽らざる本音だったのだが、少女はどうやら妙な勘違いを起こしてしまったらしい。
赤から急速に青くなった少女は無防備にも目の前で無造作にシャツをまくり上げ、細く折れそうな腰にしきりに手を遣っている。
このまま鑑賞しているのも世間体を度外視すればそう悪くはなかったのだが、この場においてはそういった加虐的思考は働かず、結局飾り気も思い遣りも無いフォローを口にすることで会話の軌道修正を図ることとなった。
「別に太ってるって意味じゃないから気にするな。
それと一応お前も女子なんだから、そういうことは人目の無い所でやってくれ」
襲の虚心坦懐な態度がお気に召さなかったのか。はたまた無神経な物言いが不味かったのか。
少女の表情に、再び怒気が増す。
「なっ…!ばかへんたいちかんむしんけいごろつき!」
そう早口にまくし立てられては絶賛現実逃避中の襲の頭では処理が追いつかなかったのだが……。
まぁ要約すると、馬鹿野郎、と言うことらしい。流石にゴロツキは心外だったのだが。
「悪かった。このままだと会話が進まないから、取り敢えず落ち着いてくれ」
むぅと頬を膨らませはしたものの、一応沈静化には成功したらしい。
数秒の間、少女は不機嫌そうに柳眉を逆立てたまま両腕を胸の前に組み、赤い果実のような唇をきつく結んでいたが、それから幾許かの間を置いてようやく冷静さを取り戻したのだろう。
ちらと倒れたままのトラックを見遣り、
「あの車。誰か…乗ってた?」
「いや、無人車両だったが」
無愛想に襲が返事を返すと、そっか…と少女は俯き、心底安心したような表情を浮かべた。
にこりと微笑む姿はやはり美少女然としたものがあり、場の空気もいささか和やかなものになる。
「えっと、さっきは取り乱したりしてごめんなさい!」
そう告白して、少女はペコリと勢いよく(潔く、ではない)頭を下げた。
よく考えてみれば――よく考えてみなくても、事故の直後ということもあり、少女は少々錯乱傾向にあったのかもしれない。
とは言え失礼したのはお互い様だったので、こちらだけ謝らないわけにはいかないだろうと襲は一応軽く会釈しておくこととした。
「いや、俺こそ無神経なことを言った。許して欲しい」
「い、いえ。助けていただいた相手にいきなり突っ掛るなんて、私どうにかしてました」
それを言うならば、回収した(心中でさえも頑なに助けたとは言いたくない)相手をベンチに放り投げた自分こそどうなのだろう?
罪悪感にも似た陰鬱な疑問を胸中に抱きつつも、解を一時棚上げした返答を返すこととする。
「あんなことがあったんだ、無理もない」
襲は口元に愛想笑いを浮かべ、無難に肯定の意を示しておいた。
何も含むところのない真摯な返答とまではいかなかったものの、まずまずの結果。及第点と言ったところだろうか?
にも関わらず少女は満面の笑みを零し、口元に手を当てて声を押し殺していた。
解せん、とでも言いたげに襲が眉を顰めていると、その異変に気がついた少女は目元の雫を拭って、
「ごめんなさい、まさか真剣にフォローしてくれるとは思わなくて。見た目によらず、優しいんだね」
「……見た目によらず、は余計だ」
それ以前に俺のことをなんだと思っている、と問い掛けたい衝動に駆られたが、先程の罵倒に含まれていた「ごろつき」というワードを思い出し、引き攣ったように口を噤んだ。
「えっと……あっ、自己紹介がまだでしたよね。私の名前は紫菜月椿です」
紫菜月と名乗った少女は簡潔な自己紹介と共に小さな手を襲へと差し出してくる。
小さな掌とその主たる少女の顔を見比べ、その後に、襲は自らの掌へと視線を落した。
花も恥じらう乙女の笑顔と屈託ない純粋な好意を向けられて、それを蔑ろにするような図太さは、自分にはない。
仕方なしに、握手をしようと右腕を持ち上げ――。
そして止めた。
否、できなかった。
精神がそれを拒絶し、身体がそれを許容しない。
指先から先が弛緩して動かなくなり、全身が冷水を浴びせたような寒気に襲われる。
自身の心臓がドクン、ドクンと脈打つのを耳ではなく感覚で聴き、視野が急激に狭まっていくのを薄まった意識の内に自覚した。
柄でもなく過呼吸を起こしかけている。
己の身体の異変に気づいた襲は、口元に皮肉気な笑みを“作った”。
そんな自分自身にも自嘲しつつ、無言のまま、少女の好意を無下にすると知りつつも襲は踵を返そうとした。
その時だった。
身軽な体捌きで襲の正面へと回り込んだ椿が、こちらの掌を掴んだのは。
「えいっ!」
逃げようとした襲の右手を、椿の右手が強く握る。
え、何が起きたんだ…?
突然の出来事に驚いた襲は目を丸くした。
繋がれた右手を見遣り、困惑の感情を押し隠しながら少女の顔へと視線を流す。
「えへへ、もう握手しちゃったもんね。こうなったら名前教えてくれるまで離さないよ!」
愉しそうに笑いながら椿は空いている自身の左手も襲の掌に重ね、手の甲から挟み込むようにして握ってきた。
拘束する力を少しずつ強めながら、彼女は悪戯をする子供のような企み顔で無邪気に微笑む。
心底眩しそうに少女の笑顔を見据え、まあいいかと胸中で脱力をあらわにした襲は無気力ながらに答えを口にした。
「……雨宮」
「うん?」
「俺の名前は雨宮襲だ。教えたんだからその手を離してくれ」
疲れたような、少年の声音。
対して、彼の手を握る椿は今にも歌いだしそうな一縷 (いちる)の澱みも無い暖かな表情を浮かべた。
「そっか!カサネさんだね」
ここまで純粋な好意は襲にはどうしても慣れないものがあり、若干のむず痒さを禁じ得なかったのだが――。
当の本人はこちらの手を離すどころか、上下にブンブンと振り回し始めている始末である。
いや、これ地味に恥ずかしいんだが…。
本当に、手に負えない。
「私のことは椿って呼んでね!カサネちゃん!」
「…名前で呼ぶのは構わないが、せめて『ちゃん』付は止めてくれ」
この少女と知り合ってからおよそ数分だというのに、既にその開放的な活力を持て余し気味である。
何なら今すぐ彼女との縁を切って、この柔らかな拘束から解放されたい。
襲はそんな辟易の意を暗に表情で表しながら、一人心中で苦々しく呻く。
遠方からドップラー効果と共に近づく喧しいサイレンの音に耳を傾けつつ、「カサネちゃんは流石に女々し過ぎるだろう」と、襲は青すぎる空にやりきれない思いの丈を無言のうちに投げつけた。




