Act.8 微睡みが明けて
二千九十八年 三月二十九日。
「―――……」
声が聞こえる。
深い闇の底まで届く、凛とした声。
「―――……ッ」
その声はやや声音を強めて、彼の意識を揺さぶる。
誰だ…?
聞いたことがある声だ。
意志の強さを感じさせる、明瞭な口調。
「………さん!」
段々と意識が引き戻される。
脳裏に掛かる霞が晴れ、身体を揺さぶる手の温もりを感じた。
その時、ようやく彼は悟った。
(そうか、俺は寝ていたのか)
「桐生さんッ!」
そうして、桐生一真は目を覚ました。
瞼が重い。それと身体が妙に冷えているようだ。車内の空調が効きすぎているのかもしれない。
寝ぼけたまま、一真はなんとか返事を返した。
「カレン…?どうかしたのか?」
「いえ、桐生さん凄いうなされてましたので……大丈夫ですか?」
「うなされてた…?」
「はい、冷や汗が酷いですよ」
そう少女に指摘されて、一真は額に浮かんだ汗を掌で拭った。
額だけではなく身体中に冷や汗を掻いてしまったようで、どうやら、全身を襲っていた酷い寒気は身体が湿っていた所為だったらしい。
決して気持ちの良い汗ではなく、嫌な汗だった。
「そうか、うなされてたのか…」
嫌な夢を見た。
内容は薄らとしか覚えていないが、どんな内容だったかはわかる。
二年前の忌まわしき記憶。まさに悪夢だ。
「本当に大丈夫ですか?体調が優れないようでしたら…」
「いや、本当に大丈夫だ。少し寝起きの悪い夢を見ただけだよ。心配掛けたな」
そう言って一真は鉛のように重い身体をシートから起こした。
少女の顔を直視することが何故か憚られた一真は、目線を逸らすように窓の外を、流れていく街並へと目を向けた。
透明度の高いプライバシーフィルムに覆われた窓の向こうには、日本の経済を支える経済特区の姿が確認できる。
構成学推進国策都市、通称「ウィスタリア」。
小田原から横浜に掛けて形成されているこのウィスタリアは、郊外に掛けて工業団地が多く見受けられるものの、沿岸部から中心部へ向かうにつれてそれが一転。高層ビルやアパート、ショッピングホール等の生活施設も増えてくる。
これは、ウィスタリア発展の礎とも言える構成術師教育機関。国立詞素大学付属第七学園が近づいてきた為だ。
第七学園は元々はユイス・バグファン高校と呼ばれた独立校であり、国立詞素大学の付属校ではなかった。しかし構成術師教育を推し進めていきたいという国の意向によって、十八年程前に国立詞素大学と吸収合併。中等部の校舎も増設され、晴れて七つ目の付属学園になったという経緯がある。
そうした背景も含め、今では元々の基盤の良さも相まってか、付属学園の中でも第一学園と第二学園の双璧に並び、世界有数の構成術士教育施設として高く評されている。
ともなれば、構成術士の育成を推進していきたい国の意向によって、良くも悪くもその周辺に形成される街並は学生向けに変化していくものである。
こうして形成された街並だが、詞素学分野に携わっている「名家」がビジネスとして多く参入してきている為、その実、科学者や技術者の姿。そして彼らの暮らす家々も多く見受けられる。
そうした家庭で育った子供達も自然と、あるいは半ば強制的に第七学園へと通うこととなるわけで、その所為か自宅から通学する生徒も少なくはない。
一方、遠方からやってきた学生の為にアパートや学生寮が多く見受けられるのも事実だが、学園に通う生徒の大半を自宅から公共交通機関を利用して通う学生が占めているのも、また紛れもない事実だった。
そんなこの街の主な公共交通手段は主に一つ。
一世紀前と特に変わらない自動車である。しかしこれは「全自動車両」という前提があっての話だ。
現代の車両の大半にはICT(情報通信技術)及びAI(人工知能)を利用した知能化が図られており、更に車体や道路に埋め込まれたICタグを活用したRFID(Radio Frequency IDentification)やGIS(地理情報システム)の併用によって相対距離を交通管制システムで一律管理するなど、交通事故に関しては少なくともここ数年は国内では起きていないらしい。
まぁ、趣味でのドライブ(いわゆるマニュアル運転)で起きた事故を除けば、なのだが。
それはともかくとして。
限りなく交通事故撲滅まで迫れたのは、あらゆる交通管制システムを統合したCTCS(Central Traffic Control Sysytem)と呼ばれる中央交通管制システムの恩恵に拠るところが大きいだろう。
CTCSの制御下に置かれるのは、車だけではなく公共交通機関全てだ。システム一つで全ての交通が制御されているというのだから、一世紀前からすれば夢のような話である。
今では地下鉄が半ば廃止された代わりに地下道路が多く張り巡らされており、空にはリニアモーターカーが走る。その中には空中道路(エアバイパス)と呼ばれる設備も設けられており、各個人車両がレールとドッキングする形で立体的な走行も車一台で可能となっていた。
一真たちが今回利用しているのも、この空中道路であった。
車両で乗り込み口に入り、車体をレールに固定した後は自動的に目的の地へと向かう。
空中道路は街並を見下ろすような形で運行されている為、窓から望める眺めは悪くない。だがここ数日のハードワークと寝不足が堪えたのか、一真は柄にもなく眠ってしまっていたようだった。
(自分ではまだまだ若いと思っていたんだが、この程度のスケジュールで音を上げるなんてな。全く、情けねぇ……)
そんな車窓に映るのは、今年四十代の大台に乗った己の姿だった。
散髪上がりの短い黒髪にダークブラウンの瞳。体格は中肉中背。平凡な外見ながらどこか鋭利な風格を匂わせるのは、彼が軍人だからかもしれない。
忙しくて剃っていなかったせいだろう。無精髭の覆われた顎を指で撫でながら、一真は視線を正面へ戻した。
その視線の先にいる少女は、席に着いたまま恭しくその頭を下げている。
「そうですか…。お忙しいところわざわざ迎えに来て下さり、本当にありがとうございます」
「大したことじゃねぇよ、どうせ俺も七学には用があったからな。それに、命の恩人の頼みとあれば、断るわけにはいかねぇよ」
車の走行が全自動化した今日において、さして珍しくもない対面座席に座るのは一人の少女だった。
やや切れ長な赤の瞳に、鮮やかな赤髪に映える白い肌。真新しい制服に身を通した様は、西洋の騎士のような凛とした佇まいである。
今年から高校生になるという少女の身体つきは女らしくも未成熟な蕾のようであったが、元が目を見張るような美少女だ。将来はさぞかし美しい大輪を咲かせるに違いない。
そんな美少女は少し決まりの悪そうな表情を浮かべ、微笑する。
「軍人として…いえ、人として当然のことをしたまでです。決して感謝されるようなことではありません」
それは謙遜ではなく、本音であると一真は知っていた。
だが、命を救われたのは揺るぎない純然たる事実である。
残りの人生を賭してもこの恩は返せるものではないかもしれないが、「返せない」のと「返そうとしない」のは全くの別だと彼は考えていた。
夢の中で見た、二年前に起きたとある事件。
後に「コルメス奪回作戦」と呼ばれる作戦に参加していたのは、一真のような軍人と彼女のような構成術士たちだった。
人間兵器として開発された者達。
あるいは、その子孫たち。
圧倒的な力を持つ一方、その精神は余りにも脆弱だ。
彼らは兵器である以前に人間である。ましてや子供だ。
中にはナノマシンによって感情制御された“調整体”も造られているらしいが……それは極少数の話であり、大半の者は彼女のように普通の人間と変わらない「感情」がある。
それを考えるだけで、一真は胸が痛くなる。
作戦の戦火に巻き込まれて妻子をなくした一真には、痛いほどその気持ちがわかる。
生まれを同じくした仲間が目の前で“蝕われる”。
親友が。家族が。恋人が。
繋がりを失う痛みを、我々は彼らに押し付けているのだ。
その事実を知っていながら、何もできない自分が口惜しい。
だからせめて、彼らの近くに居たい。
その力になりたいと、一真は切望する。
「カレン。それでも俺はお前に感謝しているし、力になりたいと思ってる。だから今更遠慮すんな。俺たちはもう……家族、みたいなもんだろ?」
その言葉に「紅蓮の構成術士」は―――。
カレン・ルーフェ・グラスティンバーは、涙ぐんだ。
「……はい。ありがとうございます」
真正面から向けられた少女の柔らかな笑顔に形容し難い羞恥心を覚えた一真は、慌てて視線を窓の外へ向けた。
行為自体は苦し紛れの偶然だったのだが、幸いにも、言い訳に使えそうな光景が視界に飛び込んでくる。
「お…見えてきたぞ。本日の目的地、第七学園だ」
一真の呟きに、カレンも赤の視線を投げた。
眼下に広がるのは広大な土地に敷居を構える学園。華々しい入学式を目前に控えた、国立詞素大学付属第七学園である。
そうして二人が窓の外の光景に見とれていると、ガコンという音とともに、車体全体を微弱な振動が襲った。
目的地に近づいた車体は、どうやら長距離移動用の高速軌道から着陸用の低速軌道へシフトするらしい。
不快ではない振動にその身を委ねながら。
二人を乗せた車はゆっくりと、第七学園へ向かっていく。




