Act.7 After Dark <2>
慌てて踏み出したブーツの靴底が泥濘んだ雪を踏み抜き、路面に飛び散った雪が水音を立てる。
足下に気をつけながら淡い街灯が灯る街道を足早に駆け抜け、シャッターの下りた花屋の前の角を曲がると、少女の視界にいつもの見慣れた丘が見えてきた。
丘と言っても街中にある非常に小さな地形の起伏を丘と呼んでいるだけであり、彼女自身、ちょっとした坂道程度の認識でしかない。
丘の頂上に建つのは、かなり古ぼけた外装の小さな協会だ。
白い塗料で塗られていたと思われる外壁だが、長年に渡って雨水に晒された為か、遠目からも酷く風化していることが見て取れる。
それもそのはずだ。この協会は既に長い間放棄されていた、いわゆる廃教会と呼ばれる建造物の一つであり、今でこそ様々な人達の協力――主に資金援助によって内装が改築されてはいるが、流石に外装にまで経費を回せるような余裕はこの街にはない。
また、現在孤児院として利用されているこの教会は、ロシアに帰って来た彼女が身をおく場所でもあった。
古ぼけた協会は街の灯りに輪郭を縁取られるようにして闇の中に忽然と浮かび上がり、天へと屹立するピナクル(小尖塔)の群れが今日に限っては何故か不気味に感じられた。
本能的に、だろうか?
言いようもない焦燥に駆られた少女の歩みが一段と、無意識のうちに速まっていく。
教会の姿全体を視界に収めたところで、彼女はようやく違和感の正体に気がついた。
思わず足が止まり、胸中で呟く。
(明かりが……点いていない?)
既に暗くなってからそれなりに時間が経過しているというのに、奇妙なことに教会のステンドグラスからはなんの明かりも漏れていない。
異変をようやく認知した少女は、パンの袋を抱えたまま双眸を閉ざし、数多の戦闘経験から裏打ちされた『感覚』を触手のように空間へと広げていった。
少女の全身が淡く燐光を帯び、青白い光の粒が夜の闇に溶けてゆく。
だが、「構成術」による広域索敵術の一種を用いて教会内部の様子を探ってみても、人ひとり気配が感じられなかった。
こんな時間に皆外出している…?
教会の扉の前に辿り着きながら、少女はそんな他愛ない疑問を抱いた。
だがそれが現実逃避めいた考えであるということを、他ならない、彼女自身の感覚が察知していたのだろう。
冷えた夜風に混じる“臭い”から、鼻を――いや、目を反らしながら。
彼女は木製の大扉を肩で押し開け、教会内部を盗み見た。
形としては建物全体が十字を模したようなバシリカ型教会だが、言うまでもなく、別段華やかな内装をしているわけではない。
正面から続く身廊の側面には申し訳程度のクリアストリーが並び、そのステンドグラスからは冷たい輝きを放つ月明かりが差し込んでいる。
教会の最奥、突き当たりには木製の質素な造りの祭壇が設置されていた。頭上に輝く一際大きなクリアストリーの頂点にはバラ窓が嵌められており、月明かりの中やや色味を欠いた彩色を示す様は、冷たい沈黙を享受しているかのよう――。
そして、誰もいない。
教会内部の内壁に反射して、彼女の靴底が立てる足音がよく響く。
こんなにここは足音が響いたものだろうかと何気ない疑問を抱きながら、空虚な空間を前に少女の意識は走馬灯のように過去へと遡っていった。
それは今朝にも見た、「日常」の光景。
十字型の教会を上から見て二本の線が交差する場所、つまり中央交差部と呼ばれる場所には会衆席と長机が並べられ、食事の際には孤児院の一同が会して食卓を囲む。
廃棄される以前からこの教会に務めていた「ジアーナ」という名の老修道女がそれを祭壇横から見守り、脇に立つ少女と和やかな談話を交わしていると、テーブルに着いていた子供達に急かされ、二人は慌てて席に着く。
子供達と温かな食事を共にした後はひたすら食器の片付けに追われ、気がついた時には子供達の就寝時間となり、彼らにねだられて少女は世界中どこにでもあるような物語を言って聴かせる。彼女の声を子守歌に眠ってしまった彼らの寝顔を見遣り、ジアーナに断りを入れてから彼女も眠りに就く。
次の日。少女は朝早くから教会の暖を取りに起床し、その後はジアーナと共に朝食の準備を始める。
そして、一日の始まりを告げる鐘の音を背に子供達を起こしに向かうのだ。
それが彼女にとって、
シェリル・フェランディーにおける「日常」そのものであった。
だが、ここには誰もいない。
揺らめく蝋燭の明かりも。
何気ない子供達の喧騒も。
食卓から漂う料理の匂いも。
今、この場には存在しない。
意識が現実へと戻って来たと同時に、目の前にあったはずの「日常」が自分の知らないところで壊れ始めたのだと、シェリルは定まらない思考の中で理解した。
「皆さん…?」
不安が懇願となって、彼女の唇から放たれる。
現実を認めたくない。
日常が壊されたことに憤るでもなく、唯々少女は恐怖した。
ここは寒い。
人の温もりが感じられない場所は、酷く寒い。
これは気温ではない。肉体が感じる冷気によるものではない。
身体の芯から底冷えするような寒気は、心が訴えるものだ。
シェリルはフラフラと覚束無い足取りで長机に寄り掛かり、胸に抱えていたパンの袋をそっと置いた。
身体は酷い倦怠感を訴え椅子に座るよう求めていたが、彼女は明確な意思の力でそれを押さえ込む。
まだ座るわけにはいかない。
先ずは現状を把握しなければ。
軍事訓練の賜物と言うべきか、あるいは彼女自身の性格が成せたことなのか。シェリルはすぐさま態勢を立て直すと、冷静に教会内を見回した。
争った形跡はない。血痕も、破壊箇所も見られない。
そのことに内心安堵しつつ、状況を一から整理していくことにした。
彼女が教会を出たのは、生活必需品の購入と、隣町の時計屋に孤児院にあった古い置時計の修理を依頼しに行く為であった。
隣町と言っても二十キロ以上の距離があり、重さ百キロはあろう置時計を運ぶなど大の大人でも徒歩ではかなり厳しいだろう。ましてやジアーナや孤児院の子供達のような老弱男女が、この冷えた外気温の中おいそれと実行できるものではない。
近くに住む知人から車を借りるという手もあるにはあったのだが、少女は免許など持っていなかったし、それ以上に周囲に対して迷惑を掛けたくないという思いが強かった。
結論から言うと、シェリルは時計を肩に担いで隣町まで徒歩で向かうことにした。
これだけ聞くと幼気な少女にできるような力仕事ではないと思われてしまうだろうが、彼女は元軍人である。
いや、それ以上に優秀な構成術士であった。
構成術を用いて物を運ぶなど彼女にとっては容易いことでしかなく、教会を出る際にジアーナに引き止められこそしたものの、彼女が古時計を片手で持ち上げたのを見て渋々承諾してくれたのだ。
だが、いくら運搬に苦労しないからと言って時間が全く掛からなかった……とはいかず、結局シェリルが帰って来たのは半日以上の時が過ぎてからのことであった。
つまり彼女が居なかった半日の間に、ここで何かが起きたということだろう。
(でも、一体何が…?)
孤児院がもぬけの殻になった要因について推察を始めた少女の思考に、ふと、奇妙な違和感が紛れ込んだ。
鼻腔を突く「臭い」。
思えば、教会に踏み入る前から彼女の研ぎ澄まされた嗅覚は何かを感じ取っていた。
だが心の奥底で、「日常」でそんな「臭い」がするわけが無いと、自分自身に言い聞かせていたのではないのか?
彼女は背筋に走り抜ける悪寒を奥歯を噛み締めて堪えながら、軍人らしい鋭い眼差しを「臭い」の方へと巡らせた。
視線の先にあったのは、いつもジアーナが立っていた祭壇であった。
祭壇の上には、白い、どこまでも白い箱が置かれていた。
俗に貼り箱と呼ばれる仕様の箱にはラッピングもなく、凹凸もなく、装飾やロゴの類も一切ない。
ただ白く、ただ無機質で、存在感のない白を湛えている。
嫌な予感がする。
現実から、過去から目を背けて、シェリルは気づかない振りをしていた。
その箱が祭壇の上に置かれていることに、教会に踏み入った直後に気づいていたはずなのに。
いや、正確にはその「臭い」を嗅いだ時から既に、彼女はその存在を予知していたのかもしれない。
気がつくと、少女の身体は吸い込まれるように祭壇へと向かっていた。
間違い無い。
「臭い」はあの箱の中からしている。
幼き頃に何度となく嗅ぎなれた、あの「臭い」だ。
箱を目の前にして、少女はあることに気がついた。
箱の上に何やら白い手紙が置かれている。だが手紙――と言うより、メッセージカードの類だろうか?
綴られた文字を伏せるように置かれた手紙へと手を伸ばし、シェリルは恐る恐るそれを手にとってひっくり返してみる。
(…な…に…?)
手紙に綴られていたのは脅迫文でも、狂気めいた犯罪者のメッセージでもなかった。
意味がわからず、意図も全く掴めない。
だからと言って、異国の言語だったわけではなかった。文字自体も彼女の知っているロシア語であり、形成されている単語も疑いようもなくロシアの言葉である。
むしろ孤児院で毎日のように交わされていた、何気ない一言。
間違いなく「日常」の言葉だが、彼女にはそれが何故かとても異質なモノに思えてならなかった。
わからないことを思案していても仕方がない。シェリルは冷静に判断を下して、不気味な文字列から意識を外した。
そして目の前に置かれた大きな箱へと、慎重な手付きで手を伸ばす。
爆発物の可能性も考えたが、すぐにその可能性はないだろうと頭を振った。
彼女の「感覚」は電子機器が放つ僅かな電磁波を、箱の内部からは全く感じ取っていない。
それでも危険物である可能性を考えて、少女は身構えながら箱へと手を掛けた。
貼り箱とは上蓋を被せるタイプの箱であり、目の前の箱は蓋の縁が身箱(下の箱)の底に届くほどの深さがあったのだが。「中身」の重量がそれなりにあったのだろう。身箱を押さえなくても、箱は簡単に開き始めた。
開けてはならないと、彼女の本能が訴えてきている。
開ければきっと後悔すると、彼女の経験が云っている。
だが、孤児院の皆を探すための手掛かりが僅かでもあるのなら――絶対に開けなければならない。
恐る恐る、少女は箱の上蓋を上へと少しずつ持ち上げていく。
その時、少女の嗅覚が一段と濃い「臭い」を捉えた。
今度こそ疑いようもない。
この「臭い」は―――、
震える指先が白い箱の上蓋を持ち上げた。
少女は決意の眼差しを以て中を見据え、
「あ……あ、あぁっ…」
“中身”が何だったのかをシェリルの脳が認識した瞬間、彼女の唇からは言葉にもならない呻き声のようなものが溢れ落ちていった。
目頭が熱くなり、視界が歪む。
ろくに食事など摂っていなかったというのに少女の胃は突然奇妙な収縮運動を始め、食道まで胃液を押し上げようとしていた。
懐かしい感覚だと、彼女は混乱した意識の中で思った。戦闘訓練において何度も経験したこの感覚は、嘔吐の予兆か。
吐き気を堪えた少女は両手で口元を覆い、その場で崩れ落ちる。
口元を覆う手の甲に一滴の雫が伝い、流れ、教会の床を濡らす。
どれほどの時が経っただろうか?
時を知らせる鐘の音に背を押され、シェリルは青ざめた顔のまま何とか立ち上がっていた。
開いたまま放置されていた箱の中へと手を伸ばし、恐る恐る“中身”を取り出す。それを手にしたまま、彼女は力尽きるように再び床へと腰を落とした。
声を上げずに嗚咽しながら。
ゆっくりと、だが力強く、「それ」を胸へと掻き抱く。
いや―――、
彼女は「彼」をその胸で抱いたのだ。
「イヴァン…くん…」
少年には、首から下がなかった。
彼女が抱えていたのは、孤児院で共に暮らしていた少年の血まみれの生首。
やんちゃで、喧嘩っ早くて、そのくせ泣き虫で人懐っこい性格の持ち主で。
孤児院に来たばかりのシェリルを一目見て、「Любимая моя!(僕の愛しい人!) 」などと叫び、その日から毎日のように幼いながらも賢明なアプローチを彼女にしてきた、金髪碧眼の愛らしい少年。
その名前を、少女は涙ながらに呟く。
「ごめん…なさい」
少年を――やけに軽い少年の頭を抱えて、少女は泣いていた。
寒い、寒い、寒い、寒い。
会いたかったはずなのに。温かかったはずなのに。
震えが止まらない、寒気が……止まらなかった。
「ごめん…なさい。ごめんなさい…。
ごめんなさい。ごめんなさい、ごめんなさいごめんなさいごめんなさい…」
その時、シェリルの心の中で「何か」が音を立てて壊れてしまった。
止めどない涙と共に、虚ろな呟きだけが静謐な教会に満ちていく。
彼女の身体を支えていた明確な意志の鎖は今やバラバラに千切れ、肉体を支える気力すら少女には残っていない。
ただ泣くことしか、謝ることしかできなかった。
青のピーコートには乾き始めた血がこびり付き、黒く、今宵の夜よりも暗く少女の身体へと染み込んでゆく。
クリアストリーから差し込む月光に照らされ、シェリルの頬に伝う涙が星屑のような輝きを帯びて宙を滑った。
床を伝う朱の水面に一滴の透明な雫が落ち、波紋を浮かべる。
その波紋に揺られるように、祭壇から一枚の紙が落ちてきた。
朱を吸い、沈む紙切れ。
そこに綴られていた文字が、ひとつ、またひとつと黒く滲んでゆく。
滲んでゆく文字はある意味を成していた。
ひとつ、またひとつと沈んでゆく文字が朱に溶け、シェリルの胸の奥へと沈み込み、粘りつく。
その意味が、今なら彼女にはわかった。
「Было очень вкусно(ごちそうさまでした)」
紙にはそう、綴られていた。
シェリルが抱える少年の頭蓋には、まるで何かに脳天から脳をくり抜かれたように。
何も『残って』いなかった。




