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第三話

 眠い。頭の中の細胞が殆ど寝ている、いや、死んでいるんじゃないかと言うほど眠い。しかも、今日は月曜日。なおさらやる気も元気もでない。

 体をひきずるようにして、階段を降りる。その最下段には、わざと嫌そうな顔でこちらを見ている母がいる。

「うわ。この子ったら、ひっどい顔ねー。そんな顔じゃ彼女ができるのなんて、半世紀先かしらね」

 昨日の夕飯を残して話を切り上げた事を根に持っているのか。母は、言ってやった、と言わんばかりのしたり顔で台所に消えていく。

 朝から嫌みを言ってくれる。言い返してやろうかと思ったが、今はそのパワーもまだ充電されていない。今回は不戦敗で結構だ。

 ずるずると食卓に向かい、横向きに椅子に座る。背もたれの上に肘を乗せ、リビングの大きな窓の横にあるテレビを、ぼけっと見る。

「ごはん」

 顔をテレビに向けたままで、うわ言の様につぶやく。

 母は聞こえているのかいないのか、返事はしないでそのまま忙しくしている。

 テレビではなんとかっていう大臣の発言は不適切だ、なんていう揚げ足の取り合いみたいな事を、高給もらっている政治家の皆さんが、生き生きとカメラに向かって力説している。

「どーでもいいわ、こんな事……」

 と、もさもさと言いながら見ている時だった。

「男なら朝でも、腹から声をださんでどうする!」

 俺は飛び上がりそうになるほど驚いた。ネクタイを結びながら、まさに腹から出したような声で激を飛ばしてきた人影が、いつの間にか部屋の中に立っていた。

「びっくりしたー!」

 驚きのあまりに、寝ぼけていた声帯が一気に全開になる。

「い、いつかえってきたんだよ、父さん!」

「昨日の夜だ。そんな遅くでもなかったんだが、お前はもう寝てたからな」

「……ああ、そっか、そっか」

 父は普段は家を空けている事が多い。繊維を扱う商社に勤務していて、今はインドや中国の工場で現場監督のような仕事をしている。故に、長期間海外に滞在する事が多く、日本の家にいるのは、年でトータルしても数週間程度だ。そのくせ、不在中に家族が恋しかったり、心配になったりとかはしないのであろうか、一切連絡などもしてこない。帰国予定すら知らせないので、今日のような久々の対面がドッキリの様に執り行われるのだ。

「言ってやってくださいよ、あなた。もう、アニメだかゲームだかに夢中で、男らしい事はなんにもしないんですから」

 納豆とご飯ををテーブルに置きながら、母は愚痴る。

 俺はちらっと母の顔を見てすぐ背ける。父は俺をまっすぐ見下ろしながら言う。

「お前、オタクになったんだって?」

 なんだ、それ。

 母がどんな事を父に吹き込んだのかはわからないが、湾曲した情報を流し込んだに違いない。否定するのも嫌になる。

「そんなんじゃないってば……」

「おい、お前オタクなんだろう?」

 父の大きすぎる声につい顔をあげる。

「それどういう意味? っていうかさ、久しぶりに帰ってきて早々、息子に言う言葉が、おまえはオタクか、なの?」

 父はほんの瞬間、眉間に力が入ったように見えた。が、すぐに表情を和らげ続けた。

「ああ、まあそうだよな、すまん、すまん。朝からお小言じゃ気分も悪いか。母さんが心配してたから、ついな。うん、そうだよな。で、どうなんだ? 違うのか?」

 俺はあからさまに怪訝な顔を父に向けた。気持ちが悪い。父が俺に謝る事もそうだが、オタクかどうかを、こうも真顔で詰問されるなんて、おかしくないか? 

「ちがうって言ってるだろ、まったく。なんなんだよ、俺がオタクだとなんか問題があるのかよ」

 父はこれまた大げさに、顔の前で右手を左右に振りながら言う。

「いやいやいや、問題なんかある訳ないじゃないか。おっと、母さん、もう出る時間だから、朝ご飯いらないよ」

 そう言うと、なんだかぎくしゃくしながら父は玄関に向かっていった。

 今日は遠方から大切なお客様がくるから、接待で遅くなりそうだ、と母に話しているのが遠くで聞こえる。

 俺は様子のおかしい父を不思議に思いながら、廊下の方を目で追いかけた。半年、いやもう一年ぶりくらいになるだろうか、久しぶりの父は少し疲れが溜まっているように見えた。以前の印象より、痩けた気がする。普段、一人でどんな生活をして、どんな毎日を送っているのかはわからないが、帰国しても家で休まる事のない父の様子を見ると、楽なものではないのだろうという事くらいは察しがつく。

 大体にして、完全専業主婦の母は家事以外の仕事はしていない。父の給料だけで、この家計は守られているのだから、感謝しなければならないのかも知れない。まあ、考えてみれば、一家の当主が仕事をし、そのお金で女子供が食べていく、という至極普通な家庭のあり方か。父があまりに家にいないので、お金だけもらっているような、変にありがたいというか、申し訳ない気持ちになるのはなぜだろう。

 と、今俺が気にしなければならないのは、自らの置かれた家庭環境の凡庸さなどではない事を教えてくれたのは、母だった。

「あんた、ぼけっと考え事してるけど、まだ出なくていいの?」

 はっと今日初めて時計を見る。

「うおお。こんな時間っ!」

 そして、いつもとは少し違う迎え方をした朝に、既に滅入った気持ちで家を出た。


 俺の通う高校は公立で、自分の学力に見合っているという理由と、何より自宅から近いという理由で入学を決めた学校だ。どのくらい近いかというと、徒歩で行ける。しかもたったの十分。玄関から校門まで、いわゆるドア・トゥー・ドアってやつで、だ。

 満員電車というものが苦手な俺にとって、この条件は強力な魅力だった。中学の進路相談の際も、この高校に入る以外考えていない、と言い通して、もしも落ちたらどうするつもりだ、と心配する担任をも説き伏せた程だ。

 念願の学校に無事入学したのが二ヶ月前の四月。それからは、お陰さまで遅刻もなく通って来たのに、父の登場によって、その皆勤記録がまさに今危ぶまれている。

 三年間無遅刻無欠勤を貫く覚悟も気力もさらさらないが、遅刻して行くくらいなら休んだ方がましだ。ただそれだけのことなのだ。

 とにかくそんな事をうっすら考えながら、足を前に前にと進めていく。

 この辺の住宅街は、古い家が多いが土地も広く分譲されており、そこそこ見栄えのいい建物が多い。商店街も近いので閑静な、とは言い難いがとても和やかな雰囲気の町並みだ。

 しかし、そんな快適な通学環境も、遅刻するかも知れないというこんな朝には地獄のマラソンロードと化す。徒歩では十分だが、早歩きなら七分、走れば五分。普段からぎりぎりの時間に家を出る癖がついているのにも関わらず今日は五分も遅れている。俺はぶつぶつ文句を呟きながら、歩き慣れた通学路を小走りしていた。

 ちょっと行ったところで、俺の学校のセーラー服を着た女子が、同じように小走りしているのが見えてきた。見覚えのある後ろ姿。後ろに高く束ねた髪が揺れる。日焼けした足は部活でやっているラクロスのせいだろう、左手にはそのラケットも持っている。

 石野ニカ子だ。

 すぐにわかった。小学校にあがったくらいから、隣に住んでいて同い年でいながらも殆ど話す事はなくなった。ニカ子はいつもクラスの中でも人気者のグループにいた。それは中学に入っても変わらず、既に色んな意味で地味だった俺とは関わる事すらなくなった。当然、彼女が自ら俺と幼なじみである事を明るみにする必要もなく、いや、はっきり言えば、誰にも知られたくないというのが本音か、その事実は隠されたままだった。

 中学を卒業したらお別れだろうと思っていたが、遊んでばっかりに見えたニカ子は実は勉強もでき、同じ高校に入学が決まったと、親伝いに知った時は驚きもしたが、さすがだな、とも思ったものだ。しかも入学してみたら、同じクラスにいた。お互い意識していた訳ではないので、クラスでばったり会ったときには、おっ、と声が出てしまった。その時、よろしく、と挨拶して以来、会話をした事もない。華々しい高校生活を送るニカ子に、オタクの幼なじみは、迷惑な存在に違いない。しかも同じクラスとは、さぞかしがっかりしただろう。俺も立場はわかっているつもりだ。

 爽やかな風貌と、明るい性格。高校入学後、どこから俺の存在を知ったのか、見知らぬクラスの男子から、突然ニカ子の事を根掘り葉掘り気かれた事も何度もあった。顔の人気も上々らしい。

 そんなニカ子は、携帯で誰かと話しながら、軽い足取りで小走りに進んでいる。

 この分なら、俺も間に合いそうだな、と負けずに急いだ。


 進行方向にしか意識を向けていなかった俺のすぐ後ろに、誰かが近づいている気配に気づいた。

 聞こえる足音は離れる事もなく明瞭に聞こえている。もう自分を抜いて行くだろうと思っていても、なかなかその姿は視界に入ってこない。

 誰にでも経験があるのではないだろうか。町を歩いていて、後ろに誰かの近づく気配がしても、ストーカー被害に苦しむ年頃の女性でもない限り、そうそうすぐに振り返ったりはしない。しかし、ちゃんと音と気配でその距離を計っていたりするものだ。そろそろ抜かれるな、とか、今の角を曲がったのかなとか。それくらい、人間は後ろから迫るものには、五感を駆使して状況をつかもうとしている。目に見えない不安感がそうさせるのだろうか、とても野性的な感覚のような気がする。

 だが俺は気づいた。普段とは違う不自然な、わざと自分の後ろについて歩くその気配。俺は足を止める事なく、後ろに首を向けて何者かを確認しようとした。

「おはよう」

 不意にかけられた声に面食らう。驚きつつその発信源を探すと、振り向かれるのを待っていたかのように、にっこり笑いかけてきた。おもわず返事。

「お、おはよう、ございます」

 小柄な、中学生、いや小学生かもしれないと言うくらいの年頃の女の子。腰までありそうな明るい茶色の髪をこめかみの上、高いところで二つに結び、キラキラとした目でこちらを見ていた。まるで何かのキャラクターのようで、かわいらしい子だと思った。

 見た目からすれば確実に年下であろうが、その臆さない態度と落ち着きに、つい敬語で話してしまう。

「あ、あのー、急いでいるんですけど、何かご用ですか?」

 学校の門はもう二、三分のところにあった。なんとか間に合いそうだけに、俺は足だけは止めずにいた。少女にとっては駆け足のスピードなのにも関わらず、離れずに話を続けて来た。

「今日から、よろしく!」

 ようやく歩く速度を落とし、不思議な事を言い出す少女をよく見た。変わらずニコニコとこちらに笑顔を見せているが、作り笑顔のように見える。

 見た事のない顔だと思う。真っ黒で大きな目がとても印象的。肌の白さは色素自体が薄いのだろう、透き通るようだが、病的なものではなく、顔立ちも含め外国の血を引いているのだろうかと思わせる。こんな日本人離れした容姿なら、そう簡単に忘れるはずもないだろう、初対面だ。なのに、今日からよろしく? ってなんだ。意味不明すぎる。

 しかしすぐさま、その訳に見当をつけ、なるほどと納得した。

「あのですねー、悪いけど人違いだと思いますよ。えっとちょっと今時間ないんで、先行きますね」

 軽くだが頭まで下げて、俺はもう目の前に来ている校門に向かって最後の加速をした。その少女は、それ以上は追いかけてはこなかった。


 下駄箱に到着したところで予鈴がなった。もう辺りに人影もまばらで、皆教室に入っているようだ。

 とにかく遅刻は免れた。なんだか朝からバタバタしていたせいで、疲れてしまった。一時間目の始まるまでの五分間は脱力していたい気分だ。

 はああ、と肩を落として下駄箱から続く廊下を、だらだらと自分の教室まで歩いた。

「うーっす、ユキ。なんだよ、遅刻でもするんじゃないかと思ったぜ、どうした、寝坊か?」

 教室の後ろのドアから入って来た俺に気づいて、机について携帯をいじっていた草哉そうやが寄って来た。

「なんか色々朝からあってさ、俺も焦った」

「遅刻なんかするくらいなら、休んだほうがいいもんな。クラスの注目を浴びて登場するなんて、死んでも嫌だ」

 俺の肩にポンと片手を置いて、そうだろ? という顔で席に戻って行った。さすが、一番の俺の友、考える事が一緒だ。

 クラスの中では、できるだけ目立たないようにしていたい。ただでさえ、オタクへの風当たりはこの年代、特に厳しいのはわかっている。何をしても、きもーい、だ。だから前に出ず、迷惑もかけず、小石のような存在でいたい。存在を極限まで消していたいのだ。

 その気持ちを理解し、同感してくれるのが草哉だ。なぜなら、彼も同じ側の人間だから。彼はアニオタの部類に入るが、完全に美少女キャラ萌えだ。どちらかというとヒーロー物が好きな俺とは、お互いジャンルは違うという意識はあるのだが、周りから見ればいっしょくただろう。とはいえ、草哉とは色々趣味の話ができるので、学校では貴重な友人だ。一人でも理解者がいるのは心強いのだ。

「そうだ、ユキ。この前言ってた話。どう? 興味あるだろ? 今週の日曜にまたオフ会あるからさ、お前もそこに来いって。絶対ハマるから!」

 草哉は最近行き始めた、ネットで知り合った人達と実際に顔を会わせる為の会、いわゆる『オフ会』と呼ばれるものに俺を誘うようになった。

「あ、ああ。うーん、考えておく。今週の日曜ね」

「おいい、頼むよ、来てくれよ。来てくれないと、ヤバいんだって、俺」

「ヤバいって何がだよ」

 俺の返事に少し苛立った様子だった草哉は、気まずそうにしている。

 中学が一緒だったこともあり、付き合いはそこそこ長いが、ここの所、草哉がこの話をする時だけ、少し違和感を持たされる。いつもの草哉は、人は人、自分は自分と、干渉するのもされるのも嫌うあっさりしたタイプだ。なのに、このオフ会の事になると、面倒だから、と何度か断ったが、なぜかくどい。いつもなら、あっそ、で終わりそうなものを、なんで来ないのか、いつなら来れるのか、いいから来い、と粘着質だ。どんな会なのか、と聞くと、とにかくとても楽しく、一度参加すればわかる、と言うのだが。

「いや……まあ、とにかくさ! 出来るだけ、来てくれよな! あ、ガム食う?」

「いらねーって。俺ガム嫌いだって言ってるだろう」

「あ、そっか。そだったな」  

 これから授業だというのに、最近いつも食べているお気に入りのガムを食べている。

 まだ今日は月曜だ。気が向いたら一度位は付き合ってやってもいいか。

 あの草哉があれだけ言うのも、それだけ楽しい集まりだからなのだろう。席に戻った友人の背中から視線を外し、自分の席へと向かった。

 

 席につかず、好きなように集まっておしゃべりをしている生徒でざわつく教室に、始業の合図が鳴り響いた。間を置かず、担任でもあり、一時間目の英語の教師でもある石川先生が入って来た。若い女の先生で、美人と言う訳ではないが、海外経験が長かったせいかサバサバしていて、男女共から人気のある先生だ。英語自体も嫌いではないので退屈な授業ではないが、今日ばかりは身が入らない。

 俺の席は、一番窓側ではあるが、前から二番目。しかしこのあたりというのは、なかなか先生達の注意が向けられる事が少ない場所だったりする。授業中、ランダムに当てられる事も、ことのほか少ないと思う。ゲームのし過ぎで眠い朝一も、ぼけっとしたい放題なので、気に入っている。

 耳に英語を慣れさせるという理由で授業の最初は、先生が今日のニュースを簡単に英語で話してくれる。もちろん全てを理解できるほどの英語力はないから、なんとなく聞いているだけなのだが、どうやら出てくる人名からすると、今朝テレビで見た政治家の話らしかった。

 くだらね、と心で呟きながら、ばれないように窓から校庭を眺める。朝一から体育をさせられているかわいそうなクラスが、走り高飛びの用意をしていた。

 さっきの女の子、そういえばなんだったんだろう。

 ふと先ほどの少女の言っていた言葉を思い出した。

 普通、黙って人の後を追いかけてくるか? まずは声をかけるなり、顔を確認するなりしてから近づかないか? 

 それに、「今日から、よろしくね」だ。俺と間違うくらいだから、彼女よりは年上であろう相手に、馴れ馴れしい口ぶりでもある。

 この台詞をいう場面を自分なりに想像してみる。

 上から物を言える立場だけど、実際は下の者に頼らざるを得ないような時。例えば、新任のキャリア上司は現場の経験はないけれど、課長に抜擢されちゃって、平社員に色々教えてもらわなければならない、なんて時。

「えー。本社からこの営業一課に配属されてきた山田です。今までずっと本部でやってきましたが、今日からここの課長として、みんなとやっていく事になりました。わからない事も多いと思いますが、今日から、よろしく」

 俺は営業課の平社員かっつの。ノルマに追われて痩せこけていく悩める中間管理職かっての。

 まあ、それはおいといて、だ。「今日から、よろしく」は、そんな感じで使われるはずの台詞だ。あの少女が俺に言う言葉としては間違っている。いや、俺は人違いなんだけども。それにしたって状況を想像しにくい。

 どうでもいいか、そんなこと。

 気になる事は多いが、もう会う事もないだろうから、答えを知る事もできないだろう。所詮、赤の他人だ。

 考えたって仕方のない事だ、と思考に終止符をうって、ぼんやり見ていた校庭から目を離そうとしたその時。視界の隅に、何かがちらっと見えた。

 走り高跳びの生徒達のその向こう側、さっき俺が飛び込んできた校門の前に、人影。生徒や教師らしき人なら気に留まる事はない。何か予感がして、もう一度目を凝らして探す。

「おい……」

 つい、声を出して言ってしまった。

 そう、まさに今思い出していたあの少女が、この学校の校門をくぐり中に入って来たところだった。しかも、一人ではない。隣にはこの学校のものではない制服を着た、見たところ高校生らしい女子が一緒だ。二人は肩を並べて、玄関となる下駄箱のほうへ歩いて来ているではないか。

「Mr.Tanaka.Are you listening? Hey.What's wrong? Mr,Yukihiro Tanaka? ちょっと、田中君、どこ見てるの?」

 急に耳に入ってきた先生の声に、思わず飛び上がった。俺はすぐ真横で大きな声を上げられるまで、全く気づかなかった。

 クラス中の視線がこちらに向けられている事態に、一気に顔が赤くなっていくのがわかる。赤くなるな、恥ずかしいから赤くなるな、と思えば思うほど耳まで燃え上がる始末。

「授業に集中できない程、外の体育が気になるの?」

 クスクスと、周りからは失笑の声が聞こえる。

「す、すいません、ちょっとぼーっとして……」

 石川先生は、教科書で俺の頭を軽く叩いて教壇にもどった。

 顔の血が引いていく。酸欠状態になりそうなほど緊張していたようだ。頭をうなだれながらこっそり草哉の方を振り返ると、口に手を当てて笑いをこらえている振りをしている。

 軽く草哉を睨みつけてから、静かに椅子に座り直し、落ち着きを戻そうとする。

 いや、ちょっと待て。落ち着いてられるか。俺が見たのはなんだったんだ? 校庭にいた姿は、俺の幻覚か? 

 教科書を読んでいるような格好で、さっき目にした事をよく思い出そうとしてみた。

 朝声をかけられた時は急いでいたし、歩きながらだったから何を着ていたかなんて言うのは覚えてないが、あの明るく長い髪。あれは間違いないはずだ。俺の上司、いや、さっきの少女だ。 

 なんでこの学校に入って来たんだ? しかも、もう一人いたあれは誰だ。姉ちゃんか。姉ちゃんっぽいな。ああ、転校生とか? あり得る。どこかの制服着てたしな。でも、普通転校するのに、妹連れてくるか? だいたいにして、今日は月曜でしょう? 学校はどうしたよ、妹。小学校でも中学校でも、あるだろう、今日は。

 ぐるぐると頭の中で考えが巡る。もう二人は校舎に入って来ているかも知れない。転校生なら、まず行くのは職員室とか、校長室とかだろう。見に行きたいが、まだ始まって間もない一時間目が終わるのは遥か後だ。

 あああああ、歯がゆい。

 と、つい机を手のひらでバンと叩いてしまった事に、気づく。恐る恐る顔を上げると、もちろん、教壇の先生はこっちを睨んでいた。

「田中君、授業に集中できないなら……」

 コンコン。

 先生の怒声があがり始めたその時に、教室のドアを叩く音がした。ドアを細く開け、顔を覗かせたのは教頭だ。全校集会などでしか顔を見る事はない人物だが、つい最近の入学式で紹介されていたから覚えている。石川先生はそのまま廊下に出て教頭と話している。

 お陰さまで俺に注がれていた視線の全てが、教室前方のドアに一斉に移ってくれた。それも当然か。普段、授業中の教室に訪問者がくるなどあり得ない。授業を中断する行為なだけに、何事かと思う。例えば誰かの家族が事故にあったとか、学校に爆発物が隠されているという情報がはいったとか。教室内は、にわかに沸き立った。

 しかし、事実はそんなものではない展開だった。

 ほどなくして石川先生は教室に戻って言った。

「皆さん、ちょっと聞いてください。急な話なんですが、本日このクラスに転校生がくる事になりました」

 途端、どよめきと感嘆の声があがり一気にざわつき始めた。

 石川先生は、予測していた通りの反応だったのか、はいはい、と言いながら手を三回程叩いて、鎮静を計った。

「本当は明日からの予定だったんですが、本人が一日も早い転入を希望しているという事で、校長先生のお許しもでて、急遽本日よりと言う事になりました。まあ、授業の途中ではありますが、担任の私の判断で、今から紹介したいと思います。いいですね」

 それを聞いた生徒達は、突然の転校生の登場に驚きと好奇心の声を上げた。

 そんな中、体の至る所から変な汗が吹き出す感触を味わってたのは俺だけだろう。信じられないと思いながらも、どんな転校生なのか、もう見当はついていたからだ。

「どうぞ、入って」

 先生が廊下に向かって声をかける。

 そろそろとドアが横に細く開き、予想通りの人影が入って来た。

「じゃあ、簡単に自己紹介をお願いしようかしらね」

 その子は、間違いなく、朝の少女の隣に歩いていた女の子だった。同学年と言う割には大人びて見えるその少女は、緊張するような素振りもなく、はっきりとした口調で話しだした。

杉田真紀緒すぎたまきおです。どうぞよろしくお願いします」

「杉田さんは、今までスイスで暮らしていましたが、ご両親のお仕事の関係で、日本に戻ってくる事になりました。海外生活が長かったので、まだこちらの生活に慣れていない事も多いと思います。みんな、色々教えてあげてね」

 おおお、という歓声と、後ろの方では男子がこそこそとかわいいだのなんだのと話している。かわいいと言うよりは、美人系と言うのではないだろうか。肩くらいまである黒髪をまっすぐに下ろし、長めの前髪を耳にかけて、制服さえ着ていなければOLさんみたいなしっかりした印象を受ける。海外にいた時の制服なのだろうか、紺のブレザーに赤いチェックのミニスカートは、セーラー服を着ているこの学校の女子の中では彼女をより年上に見せる。でも、この制服、どこかで見た事のあるような気がするが、思い出せない。ありがちな制服なのか。

 当の帰国子女の転校生は、クラスの興奮とは反対に無感情に表情を変えず、まっすぐ前を見据えていた。

 一体何者なのだ、という不信感で一杯の俺は、疑心の目線を送っていた。 

 突然、転校生がちらっとこちらを見た。切れ長が俺の目と合い、急いでそらしたつもりだったが、俺が見ていたのがばれただろうか。

 興味があるなんて思われたら嫌だな。

 そう思ってわざと不機嫌な顔にしていると、転校生が入るとよく聞くあの台詞がこの教室でも言い渡された。

「えーっと、席は……。一番後ろが空いてるわね。杉田さん、目悪くない? 後ろでも大丈夫?」

 空いてる席の横に座っていた男子は、急いで鏡を出し、髪型を整えている。

 しかし、杉田という転校生はまったく違う事を言い出してくれた。

「恐れ入りますが、希望する席があります。そこではまずいでしょうか」

 意表をついた発言に石川先生も驚いている。教室も一瞬シンとなった。何かおかしいと思っていたが、やっぱりちょっと変な子だな、と俺も思った。それとも、これが帰国子女というものなのか。

 クラス中が彼女の次の言葉を待っている中、その転校生はすっと右手を上げ、まさに俺のいる方に向けて指を指した。

 なんだなんだと、教室中が転校生の指さす先に注目する。同じように、俺も前後左右に首を回して何事かと見回したが、何を意味しているのかはわからない。

「田中雪広さんの後ろの席を希望いたします」

 静まり返った教室に、一気にどよめきが起こった。何より俺自身が飛び上がりそうになった。

「杉田さんと田中君はお知り合いだったの?」

 先生が俺に向かって聞いていたが、浴びせられるいくつもの視線に息ができない。今日二度目の酸欠状態だ。真っ赤になって、まとまらない頭で何かを言おうとするが、なんと言っていいのかがわからない。

「いや、えーっと、あの……ですね」

 完全にパニック状態だ。

「ええ、ちょっとした知り合いです」

 杉田真紀緒はあっさりと言い切った。

 よく池で見る、餌を欲しがり水面に顔を出す鯉を思い出してみて欲しい。まさに俺はそれだった。否定をしたいのだが、これ以上この話題を広げて注目を持続させる事にも恐怖を感じ、どうしていいのかわからないが、何かを言わなければ、とカラッカラになった口をパクパクしていた。

「あら、そうだったの、奇遇ね。だったらそうね、何かと安心だろうし、そうしましょうか。じゃ、梶原さん、悪いけど一番後ろの席と交換してもらってもいいかしら?」

 俺の後ろの席にいた女子が嬉しそうに返事をし、一番後ろの席に移っていった。

 何も言えないままの俺は、教室に向かって軽く会釈をしてからこちらに向かってくる転校生を、見つめるしかなかった。

「さあ、では残り時間も少ないですが、英語の授業を続けます」

 まだあちこちで話し声の聞こえる中、俺にはもう何も聞こえなくなっていた。背後にいる転校生が、なぜ俺と知り合いだなんて嘘をついたのか、その前になぜ俺の名前を知っていたのか。思い返せば、朝会ったあの少女との関係も何かこの事と繋がっているのか。

 その日の英語の授業は、何一つ頭に入らなかった。

 

 俺はその日一日、一度たりとも後ろを向かなかった。授業中はもちろんの事、休み時間はその場にすらいられなかった。クラスメイトが、入れ替わり立ち代わり転校生に声を掛けにくる。他のクラスの生徒まで、季節外れの転校生の噂を聞きつけて見に来る始末。

 その度に俺にもちょっかいを出されては困るので、授業が終わると同時にトイレに駆け込む。しかも毎休み時間逃亡し続けた。草哉が訳を話せとトイレまで追いかけて来たが、勘弁してくれと頼んだ。

 俺はなんとか謎の転校生出現のショックと、クラス中の好奇の視線を耐え続け、下校の時間を迎えることができた。緊張のしすぎで、数回倒れそうになった時もあったが、なんとか凌いだ。様々な疑問は残っているが、今日どうこうしようなんてこれっぽっちも思わなかった。とにかく、この場から逃れる事が最優先だ。

 後ろの席に座っている転校生には目もくれず、さっさと下駄箱に向かった。

「おーい、待てよ、ユキ。一緒に帰ろうぜ」

 後ろから草哉が追いかけて来た。仕方なく急いだ足を止める。

「一緒に帰るって言ったって、お前電車通学なんだから駅だろう」

 草哉も野次馬心には勝てないようだ。

「まあまあ、そうだけどさ。今日お前んち寄ってっていい? ここんとこご無沙汰だったし」

 俺の家が学校からすぐである事もあり、草哉はたまに学校帰りに家によって、DVDやらゲームやらを一緒に楽しんで行く事もあった。しかし、今日ばかりは、草哉の興味は美少女キャラではなく、人間の女の子の事のようだ。

「最近金欠だから、何も新しいもんはないよ。それに今日はちょっと疲れたし……」

 なんだ、と残念そうな顔をしている草哉の肩越しに見えた影に、俺はまた呼吸が止まる。こちらを見たままの草哉は固まった俺に首を傾げる。

「大丈夫か、ユキ。お前そんなに疲れちゃったのか……」

「田中さん。お帰りでしたら、ご一緒してもよろしいですか?」

 その声に草哉が振り向き、草哉も一緒に固まった。

 杉田真紀緒だった。返事をしないで佇む俺に向かって、もう一度問いかけた。

「田中さん?」

 その場にいた他の生徒達も、噂の転校生の存在に気づき、わざわざ足を止めて見ている。その状況が俺をまたパニックにする。とにかくここから離れなければ。その一心で俺は、後先を考えずに杉田真紀緒の腕を取って校門へと走った。草哉や周りにいた生徒達は、見てはいけない物をみてしまったような顔でその後ろ姿を見守っていた。その途中にニカ子の姿が見えたような気がしたが、確認する余裕などもちろんなかった。

 校門を出ても、すぐには止まらなかった。誰の視線も完全に拭いたかったからだ。家へと向かう道を少し進んでから辺りを見回し、息を荒げて立ち止まった。杉田真紀緒は力を入れて反抗する事もなく、素直について来ていた。

 やっと少しずつ冷静さを取り戻して来たところで、ずっと杉田真紀緒の腕を握りっぱなしだったことに気づいた。

「ああ、すいません、すいません。ごめんなさい」

 ぱっと離した腕に向かってペコペコと頭を下げた。

「田中さん。なぜ謝るのかわかりませんし、私は田中さんに謝って頂きたい事もありませんので、お気になさらず」

 今まで一緒に走っていたのに、まったく息をいらしていない様子で、感情を現さずに話しかけて来た。

 俺は朝見て以来、この転校生の顔どころか姿すら直視していなかったが、改めて見ると、喋り方も然り、大人っぽい子だな、というのが一番の印象だ。

「はあ。すいません」

 言ってから、今言われたばかりなのに、また謝罪を意味する言葉を軽々しく使う、日本人ならではの口癖を恨んだ。

「とにかく、帰りませんか。ここにいても仕様がないですし」

 そう言い、杉田真紀緒が一人、先を歩き出した。俺はぼんやりそれを見送りながら、やっと一人になれる、と安堵しつつ歩き出した。

 今日は何かがおかしい。考えてみれば、朝父がいた事から、いつもとはずれていた。それにあの少女だ。今前を歩いているあの転校生に、ほとぼりが冷めたら一度それとなく聞いてみよう。

 何はともあれ、周囲から注目されるなんて事には慣れていない俺は、力みすぎて疲れた。やはり、学校なんてところでは、誰にも気にされずに静かに生活しているほうが、俺にとっては楽なのだ。俺には、自分が自分らしくなれる世界が他にあるのだから。

 はあ、もうすぐ家に着く。今日はのんびりとチャットでもしてネットの友人達とアニメの話でもして気を紛らわそうかな。

 そんな事を考えながら、ふと前を歩く転校生をみて思った。

 あの子、どこに住んでるんだろう。駅に向かってる訳でもなさそうだし、この先にいくなら、自転車に乗っても良さそうな距離になってくると思うけど。あれ。まさか迷ってる? そうだよな、まだ引っ越して来て間もないなら、俺が引っ張って来たせいで迷ってるとか? やばいな、俺の家もうすぐそこだし、どうしよう。

 その場で立ち止まり、どうすべきか迷う。近寄って行って、帰り道を教えてやるべきか、それとももうこれ以上関わらないうちに家に入ってしまうか。

 やはり、ほっておくのもまずいと思って、声をかけようと彼女の背中を追いかけようとした時だった。

「は?」

 つい、声にしてしまう。

 今、どこ入って行った? 

 一度目を強く瞑ってから、眉毛ごと大きく開いて焦点を合わせる。

 やっぱり、だった。今日はとことんおかしな事が起きる日なのだろう。



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