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残り少ないであろう推進剤を慎重に噴射し、“神の眼”は虎鉄を背中で庇うように、地球に向けて降下体制を整える。機体のあちこちに取り付けられた姿勢制御用のスラスターが、計算された最適な機体の角度を正確に再現する。“神の眼”はゆっくりと慎重に、けれど着実に地球へと近づいていった。
大気圏突破の時は無我夢中で眼を瞑っていたが、今は人工衛星を盾にしている分、若干余裕がある。虎鉄は、機体が徐々に赤く色づくのを目撃した。
大気圏に入った。
地球の引力に捕まり、みるみる速度が上がって機体がいつバラバラに分解してもおかしくないほどぶれまくる。
あっという間に周囲の温度が一千度を超える。きっと機体の前面はもっと高いだろう。溶鉱炉の中に飛び込んだら、こんな感じかもしれない。
一秒ごとにどこかの部品が真っ赤になって溶けながら散っていき、機体が波に削られる砂山のようにスリムになっていく。
真っ赤に焼けた部分がじわじわと自分の所に迫ってくる。それでも降下に終わりが見えない。
一秒がクソ長い。時間が本当に流れているのか心配になる。
いつ果てるとも知れない機体にしがみついたまま、このまま一緒に燃え尽きてしまうのかと不安に駆られたその時――、
とうとう機体が完全に分解した。四散して軽くなった残骸を追い越し、虎鉄は大気圏の真っ只中に放り出された。
たちまち怒涛の如き空気の波に翻弄される。一瞬でアペイロンの装甲が赤く染まる。懸命に体勢を整えようとするが、わずかな動作が空気抵抗を変え、気流に身体が弄ばれて思うようにならない。
こうしている間にも、アペイロンの装甲の表面温度が二千度近くに上がるが、熱はすべてネオ・オリハルコンが持って逝ってくれる。グラインダーにかけられたように、真っ赤な火花を盛大に飛ばしながら落ちるアペイロン。
機体が失われた事によって拓かれた視界の中に、見慣れた列島の姿が現れた。
「見えた!」
目標着地地域《DZ》発見。“神の眼”は立派に最期の仕事をしてくれた。その身を挺して虎鉄を日本の上空まで運んでくれたのだ。背後で燃え尽きようとしている機体の残骸に、虎鉄は心の中で最敬礼する。
しかしここでまた問題が発生する。大気圏再突入時は太陽を背にした方向、つまり地球の昼側から進入したので失念していたが、虎鉄が気絶している間に日本はもうとっくに日没を終えていた。という事は、
「しまった、もう夜か。クソ、宇宙で時間を喰い過ぎた……」
さすがに日本は真っ暗というわけではない。むしろ建物の灯りやネオンなどが明々と光っていて、暗い海の上に電球で描いたように日本列島が浮かび上がっている。そんな中、不自然に灯りが見えない地帯があった。柴楽町のある辺りだ。
「停電か? こんな時に? 畜生、誰のせいだ!」
たしかに都会の繁華街に比べると、地方都市柴楽町の夜は駅前以外は悲しいほど暗い。少し郊外に出ると街灯だって満足に配置されていないし、深夜になるとコンビニですら閉まっているくらいだ。それでもここまで電灯の見えない事態は、停電の他には考えられない。しかし、どうして。
「俺だーーーーッ!」
そう、ドラコを倒せと宇宙へと飛び出す際、学校へと続く約三キロメートルの一本道を爆走し、その時発生したソニックブームであの通りにあった民家や電柱に甚大な被害を与えたのは虎鉄とスフィーのロボである。そして折れた電柱や切れた電線たちがすぐに復旧するはずもなく、柴楽町はあれから電力が供給されずに停電が続いていたのだ。
ただでさえ夜の灯りが乏しい柴楽町なのに、停電の闇の中で着地する場所を探すとなると、難易度が跳ね上がる。そもそもスカイダイビングも初体験なのに、いきなりインストラクターとの二人羽織じゃなく単独で、しかも夜間降下とはお天道様が許してもスカイダイビング協会が許さないだろう。
夜の闇の中、熱で赤々と光っていた装甲が少しずつ元の銀に戻ってくる。大気圏の上層部、太陽の影響を受けて最も温度の高い熱圏を抜けたのだ。ここからは文字通り、自由落下だ。
スフィーたちにここまでお膳立てしてもらったのだ。夜で多少視界が悪くても、後は自力で何とかしなければならない。虎鉄は内燃氣環に喝を入れ、全身のスラスターを駆使して見よう見真似でスカイダイビングの姿勢をとろうとする。
けれどここでアペイロンのブースターを使う事はできない。威力が強すぎて、夜空に花火の如く逆噴射の炎が浮かぶので目立つ事この上ない。今や携帯電話のカメラ機能のおかげで一億総カメラマンと化している。どこで誰が見ていて、それを撮ってネットにアップするか分かったものじゃない。怖い時代だ。
噴射による制動を諦め、どうにか腹を下にして背を反らし、弓なりの姿勢を維持。これだけでずいぶんと姿勢が安定するようになった。初心者で無免許でも意外と何とかなるものだ。
試しに両手両足を広げて大の字になり、エアブレーキをかける。若干速度が落ちた気がするが、それでもまだ秒速三百メートルを超えている。このままの速度で落下すれば、自分はともかく周囲の被害がどれほどでるか予想もつかない。ただでさえ出発時に道路一本と多数の民家に被害を出してきたのだ。これ以上はさすがに拙い。
だとしたら方法はただ一つ。このまま流星のふりをして海に不時着するしかない。例えこの速度で直接海面に落下したとしても、アペイロンならまず大丈夫だろう。何せ大気圏を突破したし、ドラコの攻撃にもあれだけ耐えたのだ。耐久力は折り紙つきである。ちょうど聖セルヒオ教会の裏が海だし、落ちるにはちょうどいいだろう。
ただ問題はこの暗さの中、正確に目標着地地点である聖セルヒオ教会に向けて落下できるか、だ。最悪海のどこかに落ちれば良いのだが、浜辺にあまり近いと人目につく可能性があるし、沖合いに落ちると遠距離を泳いで帰ってこないとならなくなるので難しいところである。
「クソ、こう暗くちゃ海面までの距離感が掴めないな。いっそ教会が火事で燃えててくれれば、目印になるし明るいのに」
火事は冗談としても、せめてかがり火や焚き火など、何か照明や誘導灯の代わりになるものを用意してくれればと思うが、これだけの強風の中で焚き火などしたら、風で火の粉が飛び散って危険だ。それに周囲一帯が停電している中、一箇所だけ明るいとやはり目立ってしまう。
「あのロボ頭を失くしたのが痛いな……。あれなら暗視装置くらいついてただろうに」
と、虎鉄が今さらな事をぼやいていると、
「――ッ?」
聴こえる。落下中の轟々と吹きすさぶ大気の流れの中で、アペイロンの強化された聴覚は聞き覚えのある音を捉えた。
「あれは――鐘の音」
たしかに聴こえる。幻聴じゃない。あれは間違いなく、聖セルヒオ教会の聖なる鐘の音。けれどあの鐘は強風に煽られて金具が壊れ、鐘楼から地上に落下したはず。なのに何故。
十キロ先のブラのホックを外す音を聞き取れるアペイロンの聴力が鐘の鳴る方向を探ると、信じられないものを捉えた。
「うおおおおおい虎鉄うううううっ! こっちだこっちいいいいいいいいいいっ!」
恐るべき事に、変身できないはすの舞哉が、あの何百キロあるかわからない鐘をハンドベルように振り回しながら怒鳴っている。生身で。
「ひょっとしてあのオッサン、変身しなくてもドラコより強いんじゃねーか……?」
さもありなんだが、それを言ってしまうとこれまでの苦労が水の泡になってしまうので、ひとまず考えない事にする。
しかしながら誰のアイデアか知らないが、光が駄目なら音で誘導とは考えたものだ。アペイロンの聴力なら、この距離と強風の中でもほぼ正確な位置が割り出せる。
ところが最初は商店街の福引の如く景気良く鳴っていた鐘が、だんだんと鳴る周期が開いてきた。音も小さくなってきているところをみると、どうやら舞哉が疲れてきたようだ。恐らくいつ虎鉄が鐘の音の可聴範囲に入るかわからないので、大気圏再突入する頃から今までずっと振り続けていてくれたのだろう。疲れて当然ではあるが、そもそも生身であれだけの鐘を振るのが間違いである。
コイツ本当はサイボーグか何かなんじゃないかと疑惑のあった舞哉も、実は血の通った生き物だったんだとほっとする反面、急がなければ音の誘導もなくなってしまう。また時間との勝負だ。
虎鉄は頭部の虎耳をカナード翼のように鐘の鳴る方向へ向けると、エアブレーキを解除した。両手両足を揃えて気をつけの姿勢になると、空気抵抗が減って落下速度が一気に跳ね上がる。虎鉄は自身が一本の矢となったように一直線に目標に向かった。
耳をつんざくような風の唸りの中、舞哉の振る鐘の音が虎鉄を導く。虎鉄も眼を閉じて、鐘の音に意識のすべてを集中する。耳だけでなく、巨大な鐘が震わす空気と、舞哉の気配を身体全体で感じとる。
虎鉄は流れ星の如く一直線に聖セルヒオ教会へと飛来し、わずかに教会の鐘楼を掠めて見事教会裏の海に突き刺さるようにして落下した。魚雷が命中したみたいに水しぶきが上がり、周囲に海水の雨を降らせる。
水面に衝突して海水の冷たさを感じた途端、緊張の糸がぷっつりと切れ、虎鉄は再び意識を失った。
もうすぐ終わります。




