春にサクラ、罪のないウソ
三年前に別れた彼が、再婚をしたらしい。
風の便りに聞いたのは、サクラの散り始めの頃。田舎の母からの電話でだった。母もまた人づてに聞いたらしく、相手の名前はおろか年齢さえ知らないようだ。新しい妻と田舎を出て東京へ引っ越したという。もしその噂が本当ならば、いつか彼と再会する日がやって来るだろうか。
――バカだな、わたし。東京にどれだけの数の人がいるっていうのよ。
やっぱり親子だ。同じことを考えていたようで。
≪そろそろアンタも帰って来ねえらが。こっちはまだ、これから花見だ。東京はもう終いらよ≫
電話の最後は、母らしい気遣いで結ばれたのだった。
母は知らないだろうが、東京にはまだサクラを楽しめる場所が数か所ある。銀座もその一つだ。
母からの電話のあとにわたしは、仕事が休みになるのを待って銀座の花園神社に足を運んだ。貴重な日曜日の午後を部屋で過ごしたくなかったせいもある。妙な女の意地を張っているだけかもしれないけれど、無性にサクラの花を見たくなったのだ。
「わあ……」
無数の花びらが中空を舞う。色濃く落とされた建物の影と地面に落ちたサクラのコントラストが綺麗すぎて、靴の裏で踏んで歩くのがもったいないほどだ。キュッと目頭を指で押さえる。それから、空へと高く伸びた大鳥居の下をくぐった。
汗ばむほどの暖かい陽気のせいだろう。自分の予想を上回る人出に少々面喰った。帰った方がいいかしら。でも、せっかく来たのだから。と、すぐに思い直し歩を進める。
まずは手を清めるために手水社へ向かった。わたしの着く前に家族連れが去ってスペースが空いたので、難なく清めが完了した。ハンカチを出して手を拭う。そのとき、ふと下から強い視線を感じた。
「あっ」
七歳ぐらいの小さな女の子が、真顔でわたしを見上げていたのだ。
春色の、ピンク色のワンピースがよく似合う子だった。真っ直ぐに切りそろえられた前髪の下から覗く二つの目が、何か言いたげだ。
――えーと……。
あまりにも形の良いつぶらな瞳に見つめられているので、頬が少し熱くなってしまった。普段なら忙しいふりをして通り過ぎるところだけれど、こんなに目が合ってしまっては捨て置くことも出来ない。
「お嬢ちゃん、一人でどうしたのかな? もしかして迷子に……ママとはぐれて困ってるの?」
迷いながらも、彼女に話しかけてみた。
「ううん」
女の子は首を横に振って答えた。だけど、彼女の親らしき人物は見る影もない。わたしたち二人の後ろを次々と人の群れが追い越していくだけだ。
――やっぱり迷子か。交番にでも……え?
それでも、まだ彼女がわたしの顔をじっと見るので、何をそんなに気にしているのだろうと不思議に思ってしまった。わたしはもう一度、彼女にたずねてみた。
「どうしたの? おばちゃんの顔に何かついているのかな?」
彼女はコクンと、うなずいた。
「え、どこに?」
「ここ」
凛とした声と同時にもみじのような手が上がった。どうやら、わたしの頭のてっぺんを指しているようだ。自分の髪を梳く。何か柔らかなものが当たる感触がしたので手を下ろしたら、サクラの花びらが一枚、手にくっついていた。
「あ、サクラ。サクラの花びらじゃないの」
いつのまに頭上に着地したのだろうか。ぜんぜん気づかなかったな。なんだか可笑しくなって「フフッ」と笑みをこぼした。彼女も一緒に笑う。
今度は、わたしが質問をされた。
「おばちゃんはどこからきたの? あ、そうだ。サクラをあたまにのっけてるから、あったかいところからきたんだね!」
「え、どこからって……」
「だってパパがいってたもん。はるのおひめさまは、あったかいところからくるんだって。だから、おばちゃんもそうなんだ」
――春のお姫さま?
もちろん、花びらは大鳥居からここに来るまでの間に拾ったものだ。だけど、この子の頭には『おばちゃんはあったかいところから来た』とインプットされたみたい。本当のわたしの故郷は、まだサクラの季節じゃないのに。
答えに窮し黙っていたら、女の子は話を続けた。
「ミチルはね、パパとさむいところからきたの。ママにあいにきたんだけど、きょうかえるんだって。おばちゃんも、おうちにかえる?」
「えーと、そうだね……」
急に彼女が不憫に思えた。彼女の両親もまた、わたしと同じ境遇らしい。わたしにだって、この子と同じ年頃の子供がいても不思議ではない。ただ運良く授からなかっただけだ。もし子供がいたら彼と別れなかったし、そのまま田舎に埋もれるように暮らしたに違いない。
「お嬢ちゃんの言ったとおりだよ。春のお姫さまがお土産に置いて行ってくれたんだね。さあ、手を貸して。お嬢ちゃんにあげるから」
「うん」
差し出された小さな手の上に花びらを乗せた。どうかこの少女の行く道が花でいっぱいでありますようにと願いながら。
「おばちゃん、ありがとう。さようなら」
明るい微笑みを残し、彼女は駆けて行った。わたしは彼女の姿がなくなるまで見送った。
もう間もなく晴嵐の季節がやって来る。
(END)
読んでくださってありがとうございました!
この話はブログと時空モノガタリに投稿したものです。
花園神社は銀座に実在します。
だけど、筆者は行ったことがありません。
こうして小説に書いたからには、一度は行ってみたいと思っています。