Honey6 思いとは裏腹に訪れるきっかけ
――不自然
初めて出会った時とは違う“笑み”を見せる彼に告げた言葉。それは自然に出てしまったもの……
「やったな、お笑い教師デビュー!」
「……言わないで」
始業式も終えて、さらに新学期最初のHRも終わり、再び職員室へと引き上げて来た私に、話を聞いたイリが肩を叩いて冷静に告げた。そんなイリに、私はただ頭を抱えながらか細い声で答える。
あれから私は、始業式での自分の愚かな行為のせいで完全に“お笑い教師”というレッテルを貼られてしまい目指していた“クールな教師”の道を断念せざるを得なかった。
「いいじゃん。別に生徒達とフレンドリーな関係でも」
「アンタはどうなのよ……」
「私? いい子達ばかりで、楽しい一年になりそうだわ」
ご機嫌の笑みを浮かべながら、ノートに今日の出来事を記録していくイリ。そんなイリを、何だか羨ましく思いながら私は見ていた。
「アンタは今日はツイてなかったのよ。そうだ……理事長の姿を見てからよ」
「りぃじちょう!?」
思わず裏返った声を出す私に、イリは走らせていたペンを強く握って笑い始める。
あぁ、ヤバい。“理事長”という単語一つも、今の私には爆弾のよう……。姿無くても、今はその言葉だけで私を動揺させる。
「ア、アンタ……ホントに理事長と知り合いじゃないの?」
「だ、だから言ったじゃない。ちょっと緊張したって……」
緊張にしては不自然だよ……なんて言いながら、イリはサラサラとペンを走らせている。そんな会話もそれで済ませていたが、何だかスッキリしない私はスクッと席を立つ。
「藍李?」
「ちょっと……来て」
急に立ち上がった私を見上げるイリの腕を掴むと、私はズンズンと職員室を出て行った。
―――――
「……いやいや、偶然とはそうそう無いものですが、アンタの場合は偶然通り越して奇跡に近いわね」
職員室からラウンジへと場所を移して正直に打ち明けた私に、コーヒーを飲みながらイリは答える。その呟きは、呆れている感情も僅かに含まれていた。
「それにしても……あの日、NRNにまさか理事長が来ていたなんてね」
そう、まさに偶然。あの時は、彼が一宮の理事長だって知らなかったから違和感は無かったけれど……彼の正体を知った今では、それら全てに違和感を覚えた。
だって……一宮高校の理事長って、一宮グループの総帥だって聞いた事があったから。つまり、あの彼が一宮グループの総帥って事になる訳だから……そんな高貴な人物が来る店じゃないでしょ、NRNは! (ナオト……ごめん)
「でも、アンタも知らなかったとはいえ理事長相手に酔って絡むなんて、ホントに終わってるわね」
「始業式で私が叫んだのも、解るでしょ?」
俯いて言う私の頭を、イリはポンポンと叩いては笑っていた。
「まあまあ。一宮グループの総帥サマなら、そんなに毎日ここに来る訳じゃないから。恥ずかしくて嫌〜な出来事も、すぐに忘れるわよ」
だと良いのだけど……。確かに一宮の生徒だった私も、在学中には一度も理事長の姿を見た事が無かったくらいだからな。教師になった今でも、きっとそれは変わらないだろう。
「いやいや……既に会ってしまったし」
「何、一人の世界に入ってるのよ」
ぶつぶつ呟く私を、心配そうに窺うイリ。しかし、そんなイリをよそに、私はただもうこれ以上あの理事長と会わずに済むよう願っていた。
せっかく教師として新たなスタートをしたのよ。これ以上あの夜の出来事に振り回される訳にはいかないの。
バンッ!
「このまま“お笑い教師”まっしぐらになるのは御免だわ!」
テーブルを思い切り叩いて立ち上がっては叫ぶ私を、座ったまま小さく拍手するイリが呆れながら見ていた。
でも、そう……これ以上関わらなければ、簡単に“過去の話”になるのだから。
――しかし、現実はどうもうまくはいかないらしい。
「浅倉先生! この書類に理事長からサインを頂いてきてもらえますか?」
「がっ……」
ラウンジから戻って来た私を待っていたのは、教頭の残酷な一言だった。思わず有り得ない声を出した私の隣りでは、イリが震えながら声を出さずに笑っていた。
「理事長……まだいらっしゃるのですか?」
「今日は、何か片付けなければならない用事があるみたいでね。心配しなくても、遅くまでいらっしゃるそうですよ」
「でも、私……」
理事長に向かって叫んだり、“不自然”とか口走っちゃう奴ですよ! なんて言う間もなく、教頭は私の手に書類を託すとそのまま職員室を出て行った。
「……イ〜リちゃん」
「百万くれるなら受けてもいいよ」
何が言いたいのか解っているのか、そんな無茶を言っては私をあしらうイリ。そんなイリに、私は親指を下に向けてから職員室を後にした。
生徒達も下校して静かな校舎内に聞こえてくるのは、グラウンドで走り回るサッカー部員達の声。そんな光景を、学生の頃にはまともに見た事が無かったっけ……。
教師になりたいという夢の為に、授業が終われば真っ直ぐに帰宅して一人で授業の続きを繰り返していた。周りの同級生らが当たり前のように楽しんでいたカラオケやショッピング、デートなどの娯楽を心のどこかで憧れていたあの時。
「懐かしいな……」
そう呟きながら、私は窓からグラウンドで汗を流す彼らを眺めていた。
そして、再びやって来た……やって来てしまった理事長室の前。他の教室とは違う雰囲気を見せる扉の前で、私は扉と天井を交互に視線を移していた。
“失礼しま〜す。理事長、先ほどは失礼致しました〜”
“昨夜の過ちをお許し下さい!”
なんて、頭の中で台詞が飛び交っていた。しかし、台詞は浮かんでいてもなかなか足は動かない。
「百万……百万回払いにして、イリにお願いしようかなぁ」
やっぱり無理……そう思っていた時だった。
「何をしているのです?」
横から聞こえた声に、思わず凍り付く。しかし、声の主は私の返事を待たずに扉の前までやって来た。そして、扉を開けると
「どうぞ」
再び振り返って中に入るよう促す……彼。