Honey4 優しい笑みから出た……嘘
昨夜出会った彼の事など忘れて新しい環境に一歩踏み出した私。しかし、始業式の場で私が目にしたものは……昨夜、謎を秘めたまま別れたあの男性だった。
“ああぁっ!”
その叫び声によって、一瞬にして皆の視線を痛いくらい浴びてしまった私、浅倉藍李……そんな私を、隣に居るイリもその顔を蒼くさせてこちらを見ていた。
だって、これが叫ばずには居られますか! 壇上に現れた“理事長”と呼ばれた人は、昨夜“NRN”で酔った私が僅かな時間だったけど一緒に過ごした……あの、ありがちの枠からはみ出た彼だったのだから。
セットした髪を少し崩したスタイルにラフな格好……そんな昨夜の彼とは違って、今こうして誰よりも高い位置に居た彼は、そんな“男”など居なかったかのような雰囲気を見せていた。
相変わらずこちらを見つめる彼……その瞳に吸い込まれる様、同じく彼という一点を見つめる私。言葉は交わされない……そんな沈黙を破ったのは、向こうだった。
「どうやら今年は、なかなか元気のいい教師が来て下さったようですね」
フッと微かな笑みを浮かべては告げる彼。緊張の原因でもある彼がそう告げた事がきっかけで、さっきまで張り詰めていた緊張が切れたのか周囲もやっと笑みを浮かべ始める。
穏やかな空気になったのを確認していた私の腕をつつくイリ。軽く隣りを見ると、イリが必死に笑いを堪えながらこちらを指差している。そんなイリに何も答えずただ顔を真っ赤にする私を、教師陣や生徒達の数人が笑ってこちらを見ていた。
今日は教師デビューという大切な日なのに、あんな大声を出しては一斉にみんなの視線を浴びるなんて……。
―――――
「あ、有り得ないよね!」
始業式を終えた後、お腹をおさえて笑いながら言うイリ。そんなイリと並んで体育館を出る私はただ真っ赤な顔のまま俯いていた。
あれから、理事長と校長の話の後に行われた新任教師の紹介の際、私が壇上に上がった時に聞こえてきた笑い声。高校に来るまでに、こんな教師になりたいだの生徒達とどんな風に接しようかなど思い浮かべていたのに……
これじゃあ、お笑い教師の烙印が押されて延々と引き継がれる事決定だわ……
「アンタはいいわよね。上手い事デビュー出来て……」
「いやいや。私は、既に打ち解けたアンタの方が羨ましいわよ」
打ち解けてねぇよ! あんな恥ずかしい姿を見せて、生徒達にナメられないか心配なのだから。
「あっ! 浅倉先生に入江先生!」
「は、はいぃっ!」
慣れない呼び名に、再び緊張しては前から走ってきた校長に返事をする。校長は、そんな私達の前で止まると
「今から理事長に紹介するので、お二方も一緒に理事長室へ来て頂けるかな?」
「理事長室! ……ですか?」
そういえばさっきも校長が言ってたなぁ……。あの時はただ面倒臭いから嫌がっていたけれど、今は本当に心の底から行きたくないと思っていた。だって……
まさか、あの時の彼が一宮の理事長だったなんて!
知らなかったとはいえ、私は何をした?
勝手に席に座るわ、話しかけるわ挙動不審な態度を見せるわ……
「最悪……」
「浅倉先生?」
「な、何でも無いです〜。さぁ、行きましょう!」
酒に酔っていた自分がした事を振り返っては落ち込む私をどうしたのかと気遣う校長だったが、イリが私の腕を引っ張って代わりに答えてはそのまま校長に続いて歩く。
理事長室の場所は、在学中も縁がない場所だったからよく覚えていない……。
ただ、特進科と国際学科と普通科の三棟に分かれた校舎からなる一宮で、理事長室は特進科棟にあるというだけ知っていた。
そんな特進科棟に入った校長の後に続き、私達も階段を上がっていく。二階、三階……理事長室は三階の奥に存在していた。
コンコンッ
「理事長、高遠です」
「どうぞ」
ドアの向こうから聞こえて来たのは、先ほども……そして昨夜も聞いたあの声。
――さあ……秘密
そう告げては口元に指を添える彼の顔が……頭を過ぎる。
「失礼致します」
ドアを開けてそう言っては一礼をする校長の向こうに見えた、革張りの椅子に座って書類に目を通す彼。
校長に続いて私とイリも一礼をして中へ入る。
初めて入った理事長室……在学中の私は、まさかこんな気持ちで足を踏み入れるとは思いもしなかっただろう。教師として一宮に戻っても、この場所だけは一生縁が無いと思っていたから。
大きなデスクの前に並んだ私達を確認すると、彼は書類を置いてメガネの僅かなズレを直す。
「初めまして。一宮高校理事長の、一宮凛仁です」
昨夜の彼は、優しい笑みを浮かべて……嘘を告げた。