Honey15 お金持ちvs庶民
――今日は逃がしませんよ
貴方が告げたセリフを、今度は私がそのまま貴方へ返しましょう。
――今日は、逃がしませんよ。
少し前に言われた言葉を、そのまま彼に返しては強引に今夜の約束を取り付けて、私は唖然とする彼を置いて一人屋上を去った。屋上の扉を閉めた後、笑みが零れたのは言うまでもない。
そして、今夜の事を楽しみにしながら六限の授業とHRをいい気分のまま終えて、職員室で今日の出来事を日誌に記入していた。
「フンフ〜ン♪」
「おや? 鼻歌交じりに日誌なんか書いちゃって! 何かイイ事でもあったのかな?」
自然と出た鼻歌に敏感に反応しては、いつの間にか隣に座っていたイリが好奇心を見せながら尋ねてきた。
「あった……と言うよりか、これからあると言った方がいいかな〜」
「へぇ。昼までは、理事長にビビってオロオロしていたのにねぇ」
まぁテンションの波が激しい事……なんて言いながらも、イリはそれ以上は聞かずに自分もまた日誌を開いては記入し始める。私の楽しみをどう捉えたのかは知らないけれど、それでも私はただ間もなく起こる楽しみに心踊らせていた。
―――――
「そ、それで?」
仕事を終えてイリとも別れて高校の裏門に来た私を待ち受けていたのは、今朝も見た高級車とその側に立つ立派な制服を着た運転手だった。
「はい。ご主人様の仰せで、車の中でお待ち頂くようにと……」
まぁご丁寧に告げては、私の為にドアを開けてくれる運転手さん。しかし、素直に車に乗る筈も無く私はただ唖然と立ち尽くしていた。
「おや? まだ乗っていらしていなかったのですか?」
そんな私の背後から聞こえてきたのは、屋上で嫌っていうくらい聞いた彼の声だった。そんな声を聞いても未だに立ち尽くしていた私を通り過ぎて、彼は一礼する運転手に開けられた車に乗ろうとする。
「ちょっと待って」
我に返った私は、慌ててガシッと彼の肩を掴んで動きを止める。そんな私の方を、彼は再び不機嫌な表情で見てくる。そのゾクッと感じる冷たい視線に一瞬怯みはしたけれど……
けれど、このまま彼を車に乗せる訳にはいかないの!
「理事長。今からどこへ行くか、わかっていますよね?」
「だから、居酒屋で……」
「だったら、コレはおかしいでしょうが!」
自分の主人である彼に突っ掛かる私を、ハラハラしながら見る運転手。しかし、今からちょっと道を外しに行くのに、何でこんなおベンツに乗って行かなければならないのよ! 高級車で居酒屋まで行ったら、周囲から痛いくらいの視線を受けてしまうじゃない。
「まったく! どこに行くにしても、車に頼らないで歩く事を覚えないと!」
これだから、苦労を知らないお金持ちは……想像以上の感覚のズレに、この先どうなるのかと思うと頭を抱えたくなる。
「と、とにかく! 運転手さんには、このまま帰って頂いて下さい!」
「えっ!? あの、ご主人様……」
突然の他人の勝手な発言に、運転手はオロオロしながら彼を見ていた。しかし、彼も諦めてくれたのか小さく溜め息を吐いて頷く。
「仕方が無いですね。歩く事にしましょう。帰る時にまた連絡しますから」
「か、帰りはタクシーを使いましょうね!」
ちょっとは庶民の感覚というモノも覚えて頂かないと……まったく、この人ってタクシーにも乗った事が無いのでは?
「タクシーって……」
ボソッと呟いた彼の表情からして、きっと次に出てくるであろう言葉は……
――どうやって呼んだらいいのか?
居酒屋の他にも、もっとたくさんの庶民の知識を与えないと、この人ろくな理事長にはならないわよ。
そして、私にしぶしぶ承諾した彼の指示によって主人を乗せる事なく車が去って行き、残された私と彼は歩いて裏門を抜けた。
門を歩いて抜けたのは初めてだろう……そんな目で彼を見ると、やはり彼も何だかしっくりと来ないのか微妙な表情を浮かべていた。そして、小さく溜め息を吐く。
「まったく……浅倉先生に“あの事”をしつこく問い詰めなければ良かった」
「今さら後悔なんてしないで下さいよ。それに、たまには道を外してみるのもいい事を知れるのですよ?」
別にそんなモノ必要が無い……有り得ない事だけれど、そんな彼の心の声が聞こえてきた気がした。
しかし、これから待ち受ける出来事は、隣で暗い表情を浮かべている彼にとって更に驚きばかりを与えるに違いない。
「あっ、やっぱり居酒屋やめて焼き鳥屋にしようっと。何だか焼き鳥が食べたくなっちゃった」
「焼き鳥? チキンステーキの事ですか?」
「……まぁ、そんな所です」
焼き鳥をチキンステーキと解釈するなんて!
やっぱり、居酒屋の方がいいのか? けれど、今は焼き鳥の気分!
「それじゃあ、チキンステーキでも頂きに行きましょうか!」
もう……どうにでもなれだ!