Honey13 困惑の鬼ごっこ
あの頃の思い出に浸っていた私に忍び寄る影……それは、その思い出を曇らせるような存在である彼だった。
――こんな所で落書きでもしているのですか?
そう告げたまま私を見下ろす理事長を、座ったまま愛想笑いを浮かべては見上げる私。しかし、そんな状況はやがて理事長が私から視線をそらした事で解除された。
「たくさん書かれていますが、これは浅倉先生の知り合いによるものですか?」
「えっ!?」
私から視線をそらしたかと思えば、見ているのは私達の落書き。笑みの無い問い掛けに、私は思わず怒られるのかと更に緊張を強める。
「浅倉先生?」
「あっ……はい。私や同級生、それに後輩達のものです」
黙っていた私を呼ぶ彼に、つい本当の事をそのまま告げてしまった。しかし、彼はそのまま私の隣にしゃがんでは、私達の落書きを一つ一つ眺める。
「それで?」
「えっ?」
動かしていた指を止めてはこちらを見て問う彼。怒られるかと思っていたのに、そうじゃないのだろうか。
「それで、彼らはこの願いを叶えたのですか?」
えっ? 彼の口からまさかそんな問いが零れるなんて……意外な出来事に、私は大きく目を開かせて彼を見る。彼は首を傾けては、横目で地面を見る。
「は、はい。この古い方を書いた三人は、それぞれ夢を叶えました」
ナオトは大学在学中にNRNを開いたし、奏も弁護士の卵だけど毎日頑張っている。そして、私も……
「貴女も、夢を叶えた」
「えっ……」
彼はタイミングよく告げると、その指を私が書いた文へと導く。
「“教師”として、貴女は再びここへやって来た……そうでしょ?」
そう告げる彼は、穏やかな笑みを浮かべていた。
彼のこんな表情を見るのは久しぶりだった。初めて出会ったNRNで見せた表情と同じ……二度目以降に見せた不自然なものでは無く穏やかな笑み。
「はい」
ただ一言……それしかこの口から出す事が出来なかった私の答えを、彼は充分だといった表情を浮かべては再び地面へと視線を移す。
どうしてだろう……さっきまでは、一時も早くここから逃げ出したいと思っていたのに、今の彼を見ると何だかそんな気も無くなっていく。
自然と零した笑み一つで、こんなにも心が落ち着くなんて不思議……別に、昼休みが終わるまでここに居てもいいかなって思う。そう、終わるまで……おわ……
「えっ!?」
そう言えば、今何時? 慌てて時計を見ると、既に予鈴が鳴り終わった時間!
「えっ!? 予鈴聞こえなかったし! やだ、気付かなかったのかしら」
彼の前という事も忘れて一人叫んでは慌てて立ち上がる。つい思い出に浸ってしまい、時間が過ぎて行くのも忘れて予鈴も聞き逃しちゃったよ!
「スイマセン! これで失礼しま……」
「浅倉先生。貴女、五限の授業入っているのですか?」
えっ……? 一人慌てていた私に告げた冷静な彼の一言は、一刻も早く屋上を去ろうとしていた私に一息入れさせた。
しかし、五限の授業? そんなもの入っている……
「あっ!」
――入っていなかった。そうよ、今日の五限は授業が入って居なかった。予鈴が鳴った後という時間と、屋上という教室から離れた場所に居る点で冷静さを失っていたから今日の曜日さえも分かっていなかったんだわ。
「す、すいません。おかげさまで落ち着く事が出来ました」
「こういった場所に来るのなら、ちゃんと予定を把握しておくべきですね」
ハイハイ。全く貴方様のおっしゃる通りですよ。ちょっと見直しかけたのに、やはりどうも取っ付き難い人だわ。
“貴女も、夢を叶えた……”
穏やかな笑みを浮かべてこちらを見ながら告げた彼の言葉……アレは本物?
「ところで……」
「えっ?」
俯いて考え事をしていた私は、突然声を掛けて来た彼に敏感に反応して顔を上げる。
「教師としての生活は、もう慣れたでしょうか?」
一応、気にしてくれているの? 思いがけない彼の言葉は、私に意外だという思いと驚きを与える。まぁ、理事長という名の上司としての気遣いだろうけど。
「はい。おかげさまで、良い教師方や生徒達に恵まれてすっかり慣れました」
「そう……そうですか」
正直に答えると、彼は無表情で小さく告げた。それからはお互い口を開かなかった。私は特に彼に言いたい事や聞きたい事も無かったし、彼はもっとそんな気持ちを抱いていただろう。
私以上に、彼は私に聞きたい事や言いたい事など無い。
「そうそう、そういえば浅倉先生に尋ねたい事がありました」
しかし、私の思惑を彼はそう言って否定した。そして、それを聞こうと彼の方を見た時だった。
「――!」
私が彼を見た時、彼は妖しげに目を細めてこちらを見ていた。それが別に怖いとか思った訳では無いが、何となくその質問がろくなモノでは無いというのが直感でわかった。
「不自然……」
「あっ……!」
彼が漏らしたたった一言……それだけで私の表情を簡単に変える事が出来た。
――不自然
この言葉は、始業式の後に改めて会った理事長に思わず投げた私の台詞だった。
あれからもう一度会った時に、その意味を尋ねてきた理事長から逃げるように去った時点でもうこの話題は消えたかと思っていたのに……
「アレって、どういう意味?」
離れていた私との距離を、そう告げながらジワリジワリと狭めてくる彼。特に笑みを浮かべたり、怒ってもいない……ただ目を細めた無表情のまま。
彼が進んだ分、私は距離を狭めないよう離れていく。その繰り返しで、私は上手く屋上の出入り口まで後ろ歩きで進む。決して彼に気付かれないよう、一歩一歩……その間は決して愛想笑いを絶やさずに。
そして、後ろに回していた手がドアノブに触れた時だった……
バンッ!
――逃げる事が出来る!
そんな私の思いを先回って把握していたかのように、彼の手はそんな私を逃がすまいとドアに手を当てて封じる。
「あっ……」
ふと漏らした困惑の台詞……しかし、そんな私に構わず彼は口を開いた。
「今日は逃がしませんよ?」
私が見たいと思った笑顔……こんな時に限って、貴方は惜しげもなく見せてきた。