Honey12 緊張を呼び起こす人影
彼は私とは違う世界の人間……だから、彼の行動の一つ一つに疑問を感じても仕方が無い事。
授業を終えて教室を出ると、やはり廊下に彼の姿は無かった。それはそれで予想通りだけど、どうしてあそこに立っていたのかが気になっていた。
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「ただ単にボ〜っと、突っ立っていただけよ」
そうに決まってると言いながら、イリはお弁当のハンバーグを食べていた。今朝見た出来事を昼休みにこうして話していたが、大した事では無いと一蹴される。
「でも、何か変な気分だわ……」
「何が?」
だって、今まで理事長は滅多に顔を見せる事が無かったのよ? 一宮グループの総帥でもある彼は、多忙だからと公式の場に現れるなんて事はそう無かった……三年間、生徒として学校にいたのに、それでも会わなかったのよ?
それが、教師として戻って一か月でもう二回も顔を合わせている……これが変じゃないと言えるかってのよ。
そして、会ったかと思えばあの妙な行動……
「気持ち悪いわ」
「はっ? 何が?」
昼食をとった後、イリは男子生徒に誘われてサッカーをしに行ったので残された私は職員室を出て校内を歩き始めた。廊下で談笑する女子生徒達に走り回っている男子生徒。中には、教室で短い睡眠の時を過ごしている生徒もいる。
そんな光景を、廊下を歩きながら笑みを浮かべては眺める私が向かうのは、生徒として在学していた時から好きだったあの場所……
普通科棟の屋上に繋がる階段を上るのは、教師生活初日以来……毎日が忙しくも楽しくもあった私は、ついこの場所の存在をすっかり忘れていた。
さっきまでは、どこを見ても必ず生徒の姿があったのに、どうも今の生徒達は真面目なのか誰一人屋上に繋がる場所付近には近寄らなかった。
「まぁ、その方がかえって都合がいいかも……」
どれだけ生徒達に囲まれて楽しいひと時を過ごしていても、やはり一人になりたい時はあるモノ。たった一人で、ゆっくりと落ち着ける場所は一つくらいは職場に欲しい。
ギイィ……
重たい扉を開くと、やはり屋上には誰の姿も見られず、暖かい陽がコンクリートの地面を照らしていた。
ゆっくりと扉を閉めて、ゆっくりと一歩を踏み出す。そして、真っ直ぐ歩き落下防止のフェンスで止まると目線を足下にやる。
地面に書かれた文字が二種類……一つは真新しい文字で、もう一つは消えかけの薄いモノ。それらの文字を見ようと、私はその場でしゃがんで確認する。
“自分の店を持ちたい! ナオト”
“法律関係の仕事に就きます。 奏”
かつて、この場所で馬鹿みたいだけど楽しく笑顔の絶えない時を過ごしたナオトと奏と一緒に卒業式の時に書いたそれぞれの夢……。
消えかけている文字を手でなぞりながら、当時の事を思い出して懐かしむ。そして、その手はすぐ隣の文字に移る。
“教師になって、もう一度ここに来たい。 アイリ”
五年前に書いた私の夢……消える前に、こうして戻ってきては五年前の自分と触れ合う。
「ナオトも奏も……もちろん私も、それぞれの夢を叶えたよ」
小さく呟いた私は、次に真新しい方の文字を見る。
“大学で友達101人作ります 渉”
“両親に認められて、医者になりたいです 梓”
“賢一とずっとLOVE×2でいられますように 夏海”
わっつんと……彼女なのか、それとも友人なのか知らない女の子のモノもある。それにしても、わっつんの友達百一人って何で半端な数なんだろう。
クスクスと笑いながら、少し離れた所に書かれている一文を見つける。
“早く解放されますように…… 琉依”
ルイくんが書いた短い文は、他の子や私達の物とは違って夢や希望では無く何ていうか……
「……何だろ?」
寂しさや悲しみ、辛さとも捉える事が出来る内容は、私が知っているルイくんからは考えられなかった。
いつも笑って迎えてくれては、明るく楽しい話題を提供してその場を賑やかにさせてくれるルイくん。そんな彼が、つい数か月前にコレを書いたの?
「いや、まさか……」
そう呟いたが、ふと先日のルイくんの表情が脳裏を過ぎる。
“あの人は……元気?”
同じ言葉を繰り返しては私に尋ねてきたルイくん。あの時だけは、いつもと様子が違った。いつもの明るいルイくんじゃなく、寂しげな様子だった。
しばらくして元に戻ったからその時は気にならなかったけど、この文と何か関係があるのかな?
「それにしても、“あの人”って誰だ? 私に聞くくらいだから、もちろん知ってる人だよねぇ……」
ぶつぶつ呟きながら、皆が書き残した文をなぞっていく。
「あれ?」
ボーッとしながらなぞっていた地面が、気付くと影が大きく映っていた。しかも、それは自分のでは無い……人影。
私の他にも屋上を利用する奴が居たのか……内心でため息を吐きながら、未だに無言で私の背後に立つ人物を確認しようとした時だった。
「こんな所で落書きでもしているのですか?」
――ビクッ!
既に人が居るのは解っている筈なのに、それでも体を緊張させてしまったのは……やはり、この声の主のせいだろうか。
ゆっくり振り返ると、この場所に来る事すら想像出来ない理事長が私を見下ろしていた。
――逃げたい!
思わず浮かんで来た思いに従おうと、逃げ道である扉を見たが……
扉は理事長の背後にあり、しかも逃げるには遠すぎるし!
「こ、こんにちは〜」
逃げるのを諦めた私は、ただハハッと笑いながら挨拶をした。
いや……ホントは逃げたいのよ。
琉依が書いたとされる落書きの真意は、前作『歪んだ愛情〜』の中で展開されています。綾子サンとは全く関係がありません。