第8話:私、弟離れするから……
【SIDE:久谷真綾】
大好きな弟に恋人ができた。
初恋相手でもある響ちゃんを私は誰よりも愛してる。
それは姉という気持ちではなく、本物の気持ちだったんだと気づいた。
今さらなんだけど、私はずっと逃げていたから。
姉という言葉を隠れ蓑に異性として見ていることを彼に隠し続けていた。
それは幻想、彼が私の恋人になるという夢を見ていたの。
現実は甘くなくて、その夢は叶わなくなってしまう。
辛い気持ちを我慢していたけれど、美鳥の前では嘘は突き通せなかった。
自室で彼女にすがり、泣くだけ泣いた私はすっきりとした気持ちになっていた。
「……ごめんね、美鳥。いろいろと迷惑かけて」
泣き止んだ私はベッドに片膝を抱いて座る。
心に抱えたものを解放するのは大事な事だって思う。
我慢しても耐えられるのは強い人だけだ、私にはできない。
「いいわよ、誰にでも辛い時はあるし。それに私はマーヤの親友だから」
優しい美鳥は私にそう言って微笑する。
私はいい友人と出会えたと実感しながら、感謝する。
「ありがとう。私、美鳥と友達でよかった」
「何だかマーヤに改まって言われるとくすぐったい。それよりも、元気だして。まだ終わったわけじゃないんだから」
「それ何だけど、私、思ってることがあるんだ」
泣いてる間に私は考えていた事がある。
それが私に出来るかは分からないけれど、一歩ずつ現実を受け止めていく。
「あのね……私、弟離れしようかなって……」
「それは無理、絶対に無理」
あっさりと美鳥に断言されてしまう。
うぅ、いくらなんでもそれはあんまりじゃない?
「ひどいよぅ、私だって頑張ろうって意志をしめしたのに」
「マーヤが弟離れするなんて、小学生が8月31日に夏休みの宿題を全部終わらせるくらいに大変なのは目に見えてるもの」
「……その例えもあんまりだと思う。確かに大変そうだけど」
「それだけ、無謀な挑戦だっていう事よ。無理しない方がいいんじゃない?」
雰囲気を変えて私は前向きに物事を考える事にした。
いつまでも、悲しんでばかりいちゃいけない。
「……無理かどうかはやってみないと分からないじゃない」
「さっきみたいに片意地はってるだけじゃなくて、今のマーヤが決めた事なら私は協力してあげるわよ。どうする?手始めに合コンにでも参加してみる?」」
「うっ、それは無理。まだ他の男の子と話すのは苦手だもんっ」
それがダメでも私にできる事があるはず。
どちらにしても私は彼の姉としてこれから接していかないといけない。
『……じゃないくせに、何を……』
ちらっと脳裏に浮かんだ言葉。
それは過去の記憶、私が響ちゃんの姉として頑張ると誓った時のきっかけ。
『響君の本当の姉じゃないくせに、何をお姉さんぶってるの?』
私にだって、思い出したくない記憶があるの。
昔、彼の周囲に集まっていた女の子に言われた一言。
私は彼の本当のお姉ちゃんじゃない。
それは変えられない現実。
私達は義理の姉弟の関係だから……私は……。
「マーヤ、ぼーっとしてるわよ?」
美鳥の言葉にハッと私は現実に返る。
「えっと、考えてたの。そう、例えば、響ちゃんと距離を置いてみるとか……」
「これまで何一つできなかった事を今にできるとも思えないけど。距離を置くって言うのも大変よ。言葉で言うほど簡単なことじゃない」
真面目に考えてくれる美鳥は私の案の問題点を並べていく。
「まず、彼に優しくしない。もちろん、お世話もしない、食事も一緒はダメ。徹底的に彼を視界に入れない。ブラコン気味なマーヤにそれができる?」
「……が、頑張るっ。響ちゃんのためでもあるから」
私が響ちゃんと距離を置くのは大事な事だと思う。
これからは恋人の子と一緒にいる時間も多くなるだろうし、それを邪魔しちゃいけないと姉として思うんだ。
「意気込むのはいいけど、かなり心配かも……無理しないで」
「心配しなくても、私は自分のできる限りの事をするわ」
それしか響ちゃんにとって、私の存在意義がないのなら。
私は今できる事を全力でするしかない。
弟離れ、それがどれだけ大変な事なのか、私は身を持って知る事になる。
翌朝、目が覚めたばかりの私の体調は最悪だった。
昨日の夜はほとんど眠れなかったせいで、眠たくてしかたがない。
どんなに気持ちを切り替えても、彼を思う気持ちだけは偽る事も誤魔化す事もできない。
「……ふわぁ」
私は小さく欠伸をしながら食堂へと向かう。
「おはよう、マーヤ。調子はどう?」
美鳥が声をかけてくるのに軽く挨拶する。
「ん、まぁまぁ……」
「はぁ……そんな調子で大丈夫なの?弟離れするんでしょ」
「弟離れ……頑張るぞ、おーっ」
精神的不調を乗り越えて私はいつものように明るく振る舞う。
食堂に入ると皆の視線がこちらへと向く。
「おはようございます、皆さん」
「「おはようございます!」」
丁寧な言葉遣いで挨拶すると、皆が私に挨拶を返してくれる。
「梅雨も終わり、本格的な夏になります。季節の変わり目は体調を崩しやすいので体調管理は怠らないようにしてくださいね」
こういう挨拶の流れは生徒会副会長としてのお仕事のひとつ。
何とかそれをこなすと……私に響ちゃんが近づいてくる。
「おはよう、真綾お姉ちゃん」
彼の様子はいつもと変わりなく見えた。
私は唇をきゅっと噛み締めて、彼の顔を直視して言う。
「……おはよう、響。今日から私とは別行動しましょう。昼も別々にした方がいいわよね。貴方には私よりも傍にいてあげなくちゃ行けない人がいるのだから」
「その事なんだけどさ、真綾お姉ちゃんに話が……」
「私にはないの。響、私は弟離れするから。貴方も姉離れしてね。それでは、失礼」
淡々と言葉を交わして私はその場から去る。
彼は何か言いたそうにしていたけれど、もういつものようにはいけないの。
もっと彼と話したい気持ちを私もグッと我慢する。
「……第1段階はクリア?」
私達の様子を見ていた美鳥は苦笑気味に、
「少し無理があるような気もしたけれど。いいわ、大事なのはこれからのマーヤの態度。いい?辛くても彼と離れる覚悟でしなさい。貴方たちはべったり過ぎたから、離れる事が不安になるかもしれない」
「うん。でも、これを乗り切らなくちゃ前には進めないもん」
ここが試練だ、踏ん張りどころ……何とか頑張っていかなくちゃ。
弟離れ……思っているよりも大変だなぁ。
昼休憩は屋上で一人寂しくサンドイッチを食べていた。
タマゴサンドを小さくちぎりながら口に入れる。
本当は美鳥に「一緒に食べない?」って誘われたけれど、今日はひとりになりたかった。
この場所で当たり前のように響ちゃんと一緒にご飯を食べていた光景を思い出す。
もう、あの光景をこの目にする事がないと思うと寂しくも思う。
「……はぁ、私はバカだよね。本物の姉バカです」
そして、私もクセで二人分の食事を買ってしまっていた。
そう簡単にはこのクセは捨てきれない。
私は自分の分だけでお腹はいっぱい。
仕方ないから残ったのは持って帰ることにしよう。
片付けようとしていたその時、扉を開けて入ってくる人がいた。
「真綾お姉ちゃん……あ、いた。今日もここにいたんだ?」
屋上に上がってきたのは響ちゃんだった。
私は彼の名前を呼びそうになるけれど、自分を抑えて冷たく言い返す。
「響はどうしてここに?今日は別々にって言ったでしょ」
「……分かってる。だけど、僕も話がしたいんだ。隣に座ってもいい?」
「ダメよ。響はそこに座って」
私は彼を対面のベンチに座るように指示した。
「冷たいね、真綾お姉ちゃん。僕の事を嫌いになったの?」
「嫌いにはならない。貴方は私の弟だもの。だけど、私は今日から貴方を弟としてしか見ない事にしたの。響も理解しなさい。今までのようにはいかないわ」
彼の事を今までは皆の前では響と呼んで、普段の時は響ちゃんと呼んで区別していた。
だけど、これからは……彼の事を響と呼ばなくちゃいけない。
甘やかす事も、甘える事もしちゃいけないから。
……でも、心の中で私は彼の事をまだ響ちゃんと呼び続ける。
だって、そうじゃないとこれまでの私達の関係がなかった事になりそうで怖かったから。
「……口調も違うんだね。まるでいつも皆の前にいる時と同じだ」
「これが本当の私の口調だもの」
「いつもと違うと調子狂うんだけど。僕が悪いんだ、真綾お姉ちゃんを傷つけたから。あのさ、僕は真綾お姉ちゃんに話したい事は昨日の……」
響ちゃんが私に話す言葉を私は聞きたくなくて拒む。
「私は何も聞きたくないわ」
「そう言わずに聞いて欲しい。真綾お姉ちゃん、本当に大事な事なんだ」
こちらに詰め寄る彼に私はビクッと反応を示した。
真剣な顔で見つめられると照れるけど、今の私はそれを喜んじゃいけない。
私はぷいっと視線を逸らして言い放つ。
「姉弟として貴方も努力してよ。私の気持ち、少しぐらい考えてる?お願いだからこれ以上、私の心をかき乱さないで。……お互いに時間は必要だと思うの。整理する時間も、与えてくれないの?」
ズキッと頭が痛む、彼の事を思う気持ちと冷たく突き放す気持ちが入り混じるから。
「響ちゃんには恋人がいるんだから、その子だけを大事にして。私の事なんて……お願いだから放っておいてよ」
彼の私に向ける表情に胸が痛んだ。
子供の頃と同じような寂しそうな顔で、私をジッと凝視していたから。
寂しくさせない、そう思って彼の姉として過ごしてきたのに。
私がその表情を彼にさせている、とても辛い……。
今すぐ抱きしめてあげたい衝動にかられるけど、私にはその資格もなくて。
「……ずるいよ、響。私の気持ち、弄ぶつもり?それともまだ私を苦しめたい?」
弟離れしようと一生懸命になればなるほど、空回りしていくのが分かる。
当たり前が当たり前じゃなくなる事、これが“弟離れ”ってことなの?
「弟離れって……本気で言ってるのか?」
「するもん、してみせるもんっ。弟離れ、するんだから……痛ッ」
ズキンッ、今までの痛みよりも強く頭が痛む。
頭が痛い……気持ちが悪いよ。
「僕は真綾お姉ちゃんに言わなくちゃいけないことが……お姉ちゃん?」
響ちゃん、私はお姉ちゃんとして失格です。
大好きなのに正反対の事をして無理に離れようとする。
それなのに嫌われてしまうのが怖くて、臆病で震えていた。
美鳥の言う通りだった……私には弟離れなんて無理だ。
できるわけがない、愛する響ちゃんを他人のように拒む事なんてできない。
彼に恋人がいるのは分かってる、でも、この気持ちは無視できない。
どんな形でもいいから響ちゃんの関係者でありたい。
「私は……響ちゃんのお姉ちゃんでいたいだけなのに」
ひどいよね、私は姉として我が侭だよね?
私の視界が暗くなっていく、意識が朦朧とし始めて――。
「うきゅぅ~」
私は目を回して、意識を失って倒れてしまう。
「ま、真綾お姉ちゃんっ!?しっかりして!」
響ちゃんの心配そうな顔、抱きしめられるその感触にドキドキ……。
……ごめんなさい。
お姉ちゃんは弟離れできそうにありません。
彼の腕の中で私はそう思いながらゆっくりとまどろみに意識が消えていった。