第9話:姉との大事な約束
【SIDE:久谷響】
僕がまだ小さかった頃の話。
姉になったばかりの真綾お姉ちゃんと僕は初めから仲がよかったわけじゃない。
子供の僕は他人に対して興味がなかった。
早くに離婚した両親の影響だと思うけど、僕は家族ですら興味がなくなっていた。
すぐに父親が再婚を決めても、僕の心に変化はなかった。
……真綾お姉ちゃんに出会ったことは僕に大きな影響を与えたんだ。
誰も入れない心にすっと入り込んできて、いつしか僕の心を掴んでいた。
自分の感情に素直で、いつも真っ直ぐな女の子。
僕の中に彼女を思う気持ちが芽生えたのはいつからだろう。
人に言えない関係の相手を好きになるなんて。
「……うきゅぅ」
小さく唸り、ベッドに横たわる真綾お姉ちゃん。
僕の目の前で倒れた彼女を背負い、保健室まで連れてきた。
すぐに保険医が真綾お姉ちゃんの様子を見てくれる。
「どうですか、うちの姉の容態は……?」
「一言で言えば寝不足ね。過労というか、よほどストレスになる事でもあったみたい。このまま寝ていれば問題ないわ。彼女は副会長として頑張りすぎなのよ」
「そうですか。よかった」
生徒会が大変なのは違いないが今回のは多分、僕のせいだ。
僕に恋人がいる……あんな事を彼女に言ってしまったから。
昨日は普通に見えたから油断していた。
僕の前だけ隠していたんだろう、真綾お姉ちゃんがショックを受けないはずないのに。
「私はこの事を報告してくるわ、今日はこのまま寝かせてあげた方がいいだろうし。しばらくの間、久谷さんのことを見ていてあげてね?」
「あ、はい。わかりました」
僕が頷くと先生が外へと出て行く。
それと入れ替わるように美鳥先輩が保健室に来た。
「響君。マーヤが倒れたって聞いたけど、大丈夫なの?」
「ええ、寝不足だそうです。すみません、なんか大げさになってしまって」
「そう。それならいいわ……マーヤ、だから無理するなって言ったのに」
心配そうな顔をしていた先輩がホッと胸をなでおろす。
そして、ぐっすりと眠っている姉の頬を優しく撫でた。
「最初からマーヤに弟離れなんてできるわけがないのにね」
だが、次の瞬間、僕には厳しい瞳を向けた。
「今回の事、弟であるアンタの責任だって分かってる?」
「はい……昨日の事ですよね?」
「そうよ、何でマーヤがいるのに他の子と恋人なんてなるわけ?あれですか、その子の方が胸でも大きかったの?それとも、美人だった?マーヤは確かに姉としていきすぎだったけれど、人一倍アンタのことを想ってたのに」
「……その事なんですけど、実はワケがあるんです」
僕は真実を彼女に打ち明ける事にする。
これを話したら……多分、怒られるだろうな。
「こんな事態を招くなんて思っていなかったんですが、実は僕に恋人ができたっていうのは全部“嘘”なんですよ。女友達に協力してもらって……嘘をついたんです」
そうなんだ、アレは全て相良さんに協力してもらっただけのお芝居だった。
彼女に姉の事を相談した僕は、軽い気持ちでこんな事をしてしまった。
夜にでも嘘だと伝えようとしたら……真綾お姉ちゃんには予想以上に効果があって、真実を話すに話せなくなってしまった。
僕は恐る恐る、ゆっくりと先輩へ顔をあげる。
「……へぇ、嘘?嘘と来たか、このバカ弟ッ!マーヤが昨日、どれだけ泣いたか知ってる?あの涙をアンタに見せてあげたいわ。私はこういう男が大嫌いなの」
「うっ、すみません……」
「冗談でも言っていい事と悪い事がある。姉を傷つける事が冗談でも分かってるのにしたアンタは弟として最低よ。ふふっ、私が本気で粛正してあげましょうか?」
人の笑顔は時に凶器となる……いや、マジで反省。
普段以上に迫力を見せ付けられて僕はビクッとする。
この人も真綾お姉ちゃんの事を大切に思う人のひとりだから。
「……どうして、そんな嘘をついたのよ?その理由を答えなさい」
「僕が姉離れしたかったからです。いつも、彼女に甘えてばかりいるから……」
優しくて、温かさを持った彼女に僕はずいぶんと救われてきた。
僕に微笑みを見せてくれるお姉ちゃん。
彼女と距離を置きたい、それは別に彼女の態度だけが問題ではなかった。
お姉ちゃんにも人並みに恋愛ぐらいして欲しいと思ったんだ。
僕にかまわずに自分の道を進んで欲しい、彼女が幸せになってくれる事が望みだから。
「姉離れ?……こっちもそれが理由かぁ。あのね、アンタ達、姉弟に離れるのは無理!昨日、マーヤにも言ったけれど、できない事をするな。この似たもの姉弟!!」
「でも、僕だっていろいろと考えて……」
「それなら質問をするわ。響君、マーヤを傷つけた結果、姉離れできたの?」
美鳥先輩の一言がグサリと突き刺さる……僕は姉離れができなかったのだ。
朝になって昨日の事を後悔している自分がいて、相良さんに事情を説明して、嘘の恋人関係を解消してもらい、その事実をお姉ちゃんに告げようとした。
けれど、つけてしまった心の傷は深くて、僕を他人のように見ようとしたり、突き放されたりと一生懸命、弟離れしようとしてくれる彼女の姿を見る事になった。
「マーヤもアンタの昨日のアレを信じ込んで今朝から弟離れするなんて奮闘してたわ。結果は見ての通り、半日ももたなかったけどね。姉弟仲がいいのに、無理にお互いに距離を置くのはやめておいた方がいい。ただ、闇雲に傷つきあうだけだから」
美鳥先輩の言葉が胸に響いて、僕はお姉ちゃんの寝顔を見つめる。
疲れていたんだろう、心地よさそうに瞳を瞑っている。
僕は真綾お姉ちゃんが好きなんだ。
そう、今回の事で僕はこれまで無意識に秘めていた気持ちに気づいた。
他人扱いされることの悲しさ、ずっと優しくされていたからそれはどんな事よりも辛く、逆に無理に僕を突き放そうとする必死な彼女が痛々しく見えた。
「……アンタの気持ち、ちゃんと伝えて見れば?弟としてでも、男としてでもいい。自分の今の気持ちをはっきりと伝えなさいよ。マーヤを信じてあげなさい。誰よりも、響君を想ってる女の子なんだから。答えはおのずと出るものよ」
この人が真綾お姉ちゃんの親友の理由が理解できた。
しばらくすると、保険医の先生が戻ってくる。
「そろそろ時間よ。ここは先生に任せて、響君も授業に行きなさい」
「……わかりました。放課後に迎えに来ます」
僕はもう1度、彼女の顔を見て保健室から立ち去る事にした。
ゆっくり休んで、お姉ちゃん。
目を覚ましたら僕は伝えたい事があるから。
放課後、いても立ってもいられずに保健室へと走る。
保健室では真綾お姉ちゃんが目を覚ました所だった。
「あ、ちょうどよかったわ。ほら、久谷さん。弟さんが迎えに来てくれたわよ」
「弟……?あ、響ちゃ……じゃなくて、響。来てくれたのね、ありがとう」
まだ事情を話せていないので彼女の表情は強張ったままだ。
「荷物の方は美鳥先輩が持って帰ってくれるって。ほら、帰ろう」
僕が彼女に手を差し出すと、迷いながらも僕の手を掴む。
先生にお礼を言ってから僕らは夕暮れの帰り道を歩いていく。
「……身体の方は大丈夫?」
「ごめんなさい、心配をかけてしまったみたい。でも、もう大丈夫よ」
「その……お姉ちゃんに言わなくちゃいけない事があるんだ」
「私にもあるの……私から先に言ってもいい?」
沈んだ表情の真綾お姉ちゃんは立ち止まって、切なさを僕に見せてくる。
それは彼女の覚悟だと僕は聞かされて知る。
「私達は義理の姉弟。血が繋がっていないから私は本当のお姉ちゃんにもなれない。響には好きな人がいて……恋人にもなれない」
僕と繋いでいる手に力を込めて、彼女は僕に囁くんだ。
辛そうにそう告げながらも、無理に笑おうとする。
それが分かるから痛々しくて見ていられない。
「お願いだから……お姉ちゃんを響ちゃんの姉でいさせてよ。好きなんて言わない、もう甘えさせてくれなくてもいいから。貴方の傍にいさせて」
昨日は見せなかった涙が彼女の瞳を潤わせている。
真綾お姉ちゃんの瞳からは本気だという意思がこちらに伝わる。
嫌だ、そんなのは僕が嫌なんだ。
弟離れされたくない、されて困るのは僕も同じだから。
僕は真綾お姉ちゃんに真実を告げることにする。
「そのことなんだけど……僕はお姉ちゃんに謝らないといけないんだ」
僕は嘘をついていた事を全て、告白した。
許してもらえるまで謝るしかない。
僕の勝手で彼女を傷つけたのだから。
そう覚悟していたのに、お姉ちゃんはきょとんとした顔をする。
「え……?それじゃ、今の響には恋人がいないの……?」
「今も昔も、恋人なんていないよ。ただの悪ふざけのつもりだった、本当にごめん。謝って、許してくれないかもしれないけど、反省してるから許してください」
僕が頭を下げると、彼女は僕の名前を優しい声で呼ぶんだ。
「私、また響ちゃんって呼んでいいの?お姉ちゃんとして、甘えてもいいの?」
「ああ、本当にごめんな。今まで通り、僕のお姉ちゃんでいて欲しいんだ」
……ぱぁっと花が咲くように沈んでいた真綾お姉ちゃんの表情が明るくなる。
「そうだったんだ……。響ちゃんに恋人はいないんだよね?」
くすっと彼女は微笑みながら言う。
「真綾お姉ちゃん?」
「ごめん。でも、響ちゃんに恋人がいなかったのが嬉しくて……」
真綾お姉ちゃんは笑顔の似合う女の子だと思う。
その笑顔は多くの人を幸せにしてくれるから。
こんなにも優しくて良い姉を苦しめた自分がふがいない。
朱色が占める夕焼けを背景に真綾お姉ちゃんは僕に言った。
「響ちゃん、私が弟離れするのはまだ無理。もう少しだけ、お姉ちゃんでいてもいい?」
「いいよ。僕も……姉離れするには時間がかかりそうだから」
その長い髪を僕は撫でるように触れた。
彼女の香りは僕を安心させてくれる。
幼い頃から僕はこの人に甘えさせてもらってきた。
両親とは確執があるので仲はよくない。
僕がこの学園を選んだのは……真綾お姉ちゃんに会いたかったから。
姉離れできない、できそうにもない。
彼女が僕を必要としてくれるように、僕も真綾お姉ちゃんを必要としてる。
……僕は自分でも気づいていなかったけれど、どうやらシスコンらしい。
「何でこんな嘘をつこうと思ったの……?」
「僕が真綾お姉ちゃんより子供だからだよ」
「えぇっ、響ちゃんは私より全然大人だよ?昔からそうだったじゃない」
僕は子供だ、彼女を独占したいという気持ちがある。
姉としてではなくひとりの女の子として。
嘘をついたのは僕の気持ちを確かめたかったから。
今はそう思っている……。
「響ちゃん、お姉ちゃんの我がまま聞いてくれる?嘘ついたのを許してあげるから」
「僕に出来ることなら何でもするよ」
「本当!?それじゃ……私に“チュー”か“キス”をして」
「……は?」
姉は僕に言いました、“チュー” or “キス”をして欲しいって。
ちょっと待って、何だよ、その“Dead or Alive”的な選択肢は……。
しかも、どちらも同じ意味だし!
「好きな方を選んでいいよ。私の口にチューしてくれるか、唇にキスするか。あ、もしも、頬とかにしたら許してあげないからね」
「ま、真綾お姉ちゃん!?」
僕はいつもの調子が戻った姉に振り回される。
「……んーっ、早く~。お姉ちゃんにキスしてよ、キス♪」
小さな唇を可愛く尖らせる真綾お姉ちゃん。
僕の負け、そのまま柔らかな唇に顔を近づけてキスを落とした。
「……あむっ……んぅっ……」
思わぬ形でファーストキスすることになったけど、これは僕の本意でもある。
気持ちよさそうにキスを受け入れる彼女。
「ありがとう。えへへ……私の夢がひとつ叶っちゃった」
満たされた真綾お姉ちゃんの笑顔は可愛くて、僕の心は捕らえられる。
ホント、彼女には敵わないな。
僕の姉は誰よりも可愛すぎて、つい翻弄されてしまう。
僕はそんな姉に心すら支配されそうだ。
……姉はすごいね、いろんな意味で。