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「花の匂いしかしない女は要らぬ」と追放された調香師令嬢——魔物除けの香を失った王都が、三日で包囲された

作者: 歩人
掲載日:2026/04/21

 城壁の上で、剣を抜く音が途切れなかった。


 王都ローゼンハイムの北門。松明たいまつの明かりが夜闇よやみを切り裂く中、黒い影が——何十、何百という数の魔物が、城壁の外に群がっていた。


 犬のような、しかし犬よりもはるかに大きい。毛のない灰色の体躯たいくに、赤く光る眼。牙が松明の炎を反射して、濡れた刃物のように光っている。


「構えろ! 第三隊、北壁に集中!」


 騎士団副団長ヴィルヘルム・フォン・アイゼンハルトの怒号が、夜空に響いた。

 甲冑の上から血がにじんでいる。三日三晩、ほとんど眠っていない。傷だらけの顔に疲弊の色が濃い。


「副団長、東壁にも群れが! 数が——数えきれません!」


「西壁からも報告です! 第五隊が後退しています!」


 ヴィルヘルムは歯を食いしばった。


 三日前まで、こんなことはなかった。

 魔物は城壁に近づきすらしなかった。あの——ぐだけで頭が痛くなるような、甘ったるい煙が城壁を覆っていた頃は。


「忌避香はどうした!」


 部下の一人が蒼白な顔で振り返った。


「在庫が……三日前に尽きました。調合できる者がおりません」


 ヴィルヘルムの脳裏に、一人の女の顔がよぎった。


 薄い金髪。緑の瞳。指先が染料で色づいた、いつも花の匂いがする——あの、追い出した女の顔が。




 始まりを思い出そうとすると、いつも母の香室こうしつの匂いがよみがえる。


 わたし——ローゼマリー・フォン・ブリュムヒェンの最初の記憶は、百種以上の香料が並ぶ棚と、蒸留器から立ち上る湯気と、母の細い指の動きだった。


「ローゼマリー、嗅いでごらんなさい」


 母がガラスの小瓶を差し出す。透明な液体。わたしは鼻を近づけて——。


「ラベンダーと……月桂樹ローリエ。あと、少しだけ……クロモジ?」


「正解。けれど、もうひとつあるわ」


 もうひとつ。わたしはもう一度、目を閉じて嗅いだ。香りの層を、一枚ずつがすように。


「……丁字ちょうじ。ほんの少しだけ」


 母が微笑んだ。あの柔らかな笑みを、わたしは今でも覚えている。


「この配合が、魔物除けの香の基本よ。七種の香料を、正しい温度で、正しい順序で蒸留する。ひとつでも間違えたら、ただの香水になってしまう」


 母はブリュムヒェン男爵家に嫁いだ調香師だった。

 三十年前、独自の調合法で魔物忌避香を作り上げ、王都ローゼンハイムの城壁防衛に採用された。以来、この街が魔物に襲われたことは一度もない。


 けれど、それがなぜかを知る者は少なかった。


 騎士たちは自分たちの剣が魔物を追い払っていると信じていた。城壁に焚かれる甘い煙は「おまじない」程度の認識で、なくても困らないものだと——そう思われていた。


「お母さまの香がなくなったら、この街はどうなるの?」


 幼い頃、母に訊いたことがある。


「さあ、どうなるかしら。でもね、ローゼマリー——守りというのは、なくなって初めて気づかれるものなの。だから、気づかれないことが一番の成功よ」


「気づかれないのに?」


「ええ。花は自分の手柄を主張しないでしょう? ただ咲いて、香って、虫を呼んで——静かに世界を回しているの」


 母が亡くなったのは、十年前のことだ。


 遺されたのは調合書と、使い込まれた銅の香炉。そして、わたしのこの鼻。

 かすかな香りの違いを嗅ぎ分ける、生まれつきの嗅覚。母はそれを「花が授けてくれた才能」と呼んだ。


 五年前からわたしが忌避香の調合を引き継いだ。


 毎月一回、三日がかりの蒸留作業。百種の香料から七種を選び、温度と時間を精密に管理する。蒸留器の火加減をほんの少し間違えただけで、忌避の成分が飛んでしまう。

 母の調合書には「第三蒸留は満月の夜に」と書いてあるが、これは迷信ではない。夜間は気温が下がり、蒸留温度が安定するからだ。


 わたしはその作業を、誰にも見せなかった。

 見せても、理解されないと知っていたから。




 朝焼けの中、城壁に登る。


 風向きを確かめる。北風。秋の始まり。空気が乾いて、香りが遠くまで届く季節だ。


 わたしは香炉の位置を調整した。北門に三つ、東に二つ、西に二つ、南に一つ。合計八つの香炉を、季節と風向きに合わせて配置する。

 夏は南風が強いから南門の香炉を増やす。冬は北からの寒風に香りが負けるから、北門の炭を多めに焚く。


 この配置を知っているのは、わたしだけだった。


「おい、また花遊びか」


 振り返ると、ヴィルヘルムが城壁の階段を上がってくるところだった。朝の巡回。甲冑が朝日を反射して鈍く光っている。


 わたしの婚約者——騎士団副団長、ヴィルヘルム・フォン・アイゼンハルト。


「おはようございます、ヴィルヘルム様。今日は北風が強いので、香炉の位置を——」


「くだらん」


 彼は鼻をしかめた。城壁に漂う甘い煙を、露骨にいとう顔で。


「こんな煙で魔物が避けると、本気で思っているのか」


「はい。母の代から三十年、この香があるから——」


「剣があるからだ」


 ヴィルヘルムは腰の長剣に手をかけた。無意識の動作。この人にとっては、すべての問題は剣で解決できるものだった。


「魔物が来たら俺が斬る。それだけの話だ。女のおまじないなど要らん」


 わたしは何も言わなかった。

 言っても通じないことは、もう何度も学んでいた。


 ただ、香炉の炭に火をつけ直した。北風に乗せて、忌避香の甘い煙が城壁の外へ流れていく。

 この煙の向こうに、魔物がいる。いるのに近づいてこない。それが、この香の力だった。


 けれど、ヴィルヘルムの目には——ただの煙にしか見えていなかった。




 月に一度、騎士団に忌避香を納品する日があった。


 城壁用とは別に、巡回する騎士たちが携帯する小瓶を作る。懐に入れておけば、魔物が近寄りにくくなる——はずだった。


「ブリュムヒェン男爵令嬢、本日の納品です」


 わたしは木箱に並べた小瓶を、騎士団の詰所に持参した。三十本。ひとつひとつ手作りで、中身の濃度を均一にするのに半日かかる。


 ヴィルヘルムが腕を組んで立っていた。


「また持ってきたのか」


「はい。先月分の効果はいかがでしたか? 巡回中に魔物との遭遇は——」


「そんなもの、誰も使っておらん」


 わたしの手が止まった。


「……使って、いない?」


「花の匂いをぶら下げて歩く騎士がどこにいる。笑い者だ」


 木箱の中の小瓶が、松明の灯りを受けて琥珀こはく色に光っていた。半日かけて作った三十本。先月も、その前の月も——使われていなかった。


 若い騎士が一人、気まずそうに口を開いた。


「あの……ブリュムヒェン様。俺は使っておりました。巡回中、魔物に出くわす回数が明らかに減って——」


「黙れ」


 ヴィルヘルムが振り返った。若い騎士は口を閉ざした。


「女のおまじないに頼る騎士が、この隊にいるのか。恥を知れ」


 若い騎士はうつむいた。わたしと目が合った時、「すみません」と唇だけが動いた。


 ヴィルヘルムが木箱に手をかけた。


「もう持ってくるな。場所の無駄だ」


 そう言って、木箱を足元に押しやった。

 香炉がひとつ、床に転がった。銅の香炉——母が遺してくれたものと同じ型の、わたしが自分で作ったもの。


 拾い上げた。へこんでいた。


「……かしこまりました」


 頭を下げて、わたしは詰所を出た。

 廊下で、小瓶をひとつ握りしめた。琥珀色の液体が、てのひらの中で揺れている。


 ——お花が教えてくれました。あなたの鼻が届かない場所にも、わたしの香りは届いているのだと。


 泣かなかった。怒りも、なかった。

 ただ、とても静かな気持ちだった。嵐の前の、凪のような。




 婚約破棄は、突然だった。


 いや——ヴィルヘルムにとっては、ずっと考えていたことだったのかもしれない。


「ローゼマリー」


 呼ばれたのは、男爵邸の応接間だった。父は半年前に病で倒れ、領地の管理は遠縁に任せている。実質、わたしひとりの家だった。


 ヴィルヘルムは甲冑ではなく、珍しく礼服を着ていた。それがかえって、用件の重さを物語っていた。


「婚約を破棄する」


 一言だった。前置きも、理由の説明もなく。


「……理由を伺っても、よろしいですか」


「花の匂いしかしない女は要らぬ」


 ヴィルヘルムの目は、わたしを見ていなかった。窓の外——城壁の向こうに広がる森をにらんでいた。


「真の武人に花飾りの妻は不要だ。俺の剣だけで、この街は守れる」


 わたしは唇を引き結んだ。


 言いたいことは、あった。

 あなたの剣が守っているのではない。わたしの香が、魔物を遠ざけているのだ。三十年間、一度も破られたことのない防壁。それは城壁の石でも、騎士の剣でもなく——八つの香炉から立ち上る、甘い煙だった。


 けれど、言わなかった。

 言ったところで、この人には聞こえない。花の言葉が聞こえない人に、花の価値は伝えられない。


「かしこまりました」


 立ち上がって、一礼した。


「何か、持っていくものは」


「調合書と、香炉だけ」


 ヴィルヘルムが怪訝けげんな顔をした。宝石も、ドレスも、婚約の品も——何も要らないと言う女が、理解できなかったのだろう。


「……宝飾品も、ドレスも要らんのか」


「ええ。わたしに必要なものは、それだけですから」


「好きにしろ」


 去り際に、わたしは一度だけ振り返った。


「ヴィルヘルム様。ひとつだけ、お伝えしておきます」


「何だ」


「城壁の香炉の炭は、北門が最初に尽きます。補充の時期を——」


「もういい。そんなものは誰かにやらせる」


 それが、わたしたちの最後の会話だった。

 ——誰かに。その「誰か」がいないことに、この人はまだ気づいていなかった。




 王都を出る日、わたしは城壁に登った。


 最後に、八つの香炉に忌避香を補充するためだった。


 朝露に濡れた石の階段を登り、北門の香炉のふたを開ける。残りの忌避香をすべて注ぎ込んだ。城壁用に残しておいた三ヶ月分の——いや、追加の調合をしなければ、せいぜい一ヶ月が限度だろう。


 けれど、もう調合する者はいない。


「……ごめんなさい」


 誰に謝っているのか、自分でもわからなかった。

 城壁の下に広がる街並みに。朝市の喧騒けんそうに。煙突から立ち上る煙に。何も知らずに暮らしている人々に。


 この街を、守り続けることができなくて。


 香炉を閉じて、階段を降りた。

 革鞄かわかばんひとつ。母の調合書と、銅の香炉。それだけを持って、わたしはローゼンハイムの門を出た。


 振り返ることは——一度だけ、した。


 城壁の上から、甘い煙が立ち上っていた。わたしが最後に焚いた、忌避香の煙。

 風に乗って、森の方へ流れていく。


 あの煙が消えた時、この街はどうなるのだろう。


 ……いいえ。もう、わたしが考えることではありません。


 前を向いた。

 辺境へ向かう街道は、野草の匂いがした。ラベンダー。カモミール。月見草つきみそう

 知らない花の匂いも、たくさん。


 ——ここの花は、わたしに何を教えてくれるだろう。




 グリューンヴァルト辺境伯領に着いたのは、王都を出てから馬車で六日後のことだった。


 深い森に囲まれた、小さな集落がいくつも点在する辺境。魔物の生息域に近く、家畜が襲われたり、畑が荒らされたりすることが日常だという。


 わたしがこの地を選んだのは、ひとつの噂を聞いたからだった。

 辺境伯領に、魔物被害を薬学の力で減らそうとしている薬師がいる、と。


「ローゼマリー・フォン・ブリュムヒェン様ですね。お手紙を拝見しました」


 リヒャルト・フォン・グリューンヴァルトは、想像とは違う人だった。


 辺境伯の三男。家督かとくは継がず、薬師として村々を巡回している変わり者——そう聞いていたから、もっと野性的な人を想像していた。

 けれど実際は、眼鏡をかけた痩身そうしんの青年で、白衣の袖からのぞく手は薬草の匂いが染みついていた。穏やかな笑顔が印象的だった。


「調香師、ですか。珍しい」


「はい。といっても……追放された身ですので、肩書きが残っているかどうか」


「技術は肩書きに依存しません」


 リヒャルトは工房を案内してくれた。石造りの小さな建物。棚には薬草の瓶が整然と並び、乾燥させた植物が天井から吊るされている。

 母の香室とは違う。けれど、植物を大切にしている人の場所だという空気は同じだった。


「魔物忌避の方法を研究されていると伺いました」


「ええ。辺境では毎年、魔物に命を落とす者がいます。騎士を増やしてくれと領主に頼んでも、予算がない。ならば、来させない方法を考えるしかない」


「来させない——」


 その言葉に、わたしの心臓が跳ねた。


 ヴィルヘルムは「来たものを斬る」ことしか考えなかった。けれどこの人は——来させないことを、考えている。


「あの……わたし、忌避香を調合できます」


 リヒャルトの目が、少し大きくなった。


「王都の城壁に使われている?」


「はい。母が開発した調合法を引き継いでいます。ただ——」


 わたしは正直に告げた。


「辺境の植物は、王都とは種類が違います。同じ配合では、たぶん作れません」


 リヒャルトはあごに手を当てた。考え込む癖。眼鏡の奥の瞳が、知的な光を帯びる。


「辺境の植物で代替できる可能性は?」


「やってみないとわかりません。けれど、香りの成分が近い植物があれば……」


「興味深い」


 リヒャルトの目が輝いた。学者の目。未知の問いに出会った時の、純粋な好奇心。


「ぜひ、試してみましょう。わたしの薬草の知識が役に立つなら」


 わたしは——初めて、理解されたのかもしれないと思った。




 辺境での研究は、困難の連続だった。


 王都で使っていた七種の香料のうち、辺境で手に入るのは三種だけ。残りの四種は気候が違いすぎて育たない。


月桂樹ローリエがない……。忌避効果の核になる成分なのに」


 リヒャルトが薬草棚を開けてくれた。辺境で採れる植物の乾燥標本が、百種以上並んでいる。


「自由に嗅いでみてください。何か使えるものがあるかもしれません」


 わたしは端から順に、ひとつひとつ手に取って嗅いでいった。三十番目の棚で——手が止まった。


 乾燥させた樹皮。見たことのない植物だ。けれど、この香りには——覚えがある。


「これ……月桂樹に似ています。もっと深くて、森の奥の、湿った土のような重さがあるけれど——核になる成分が、近い」


「オオバクロモジですね。辺境の山地に自生しています。面白い、月桂樹との類似は気づきませんでした」


「成分は近いけれど、揮発きはつする速度が違います。月桂樹より重い。つまり——」


「蒸留温度を下げれば、揮発バランスが合う?」


 わたしは目を見開いた。


「……はい。たぶん」


 リヒャルトが早口になった。感動すると早口になる人だと、この時初めて知った。


「なるほど、つまりこの配合比は温度依存性が高い。辺境の植物は王都のものより精油の沸点が高い傾向がある。であれば、蒸留全体の温度を三度から五度——」


「五度下げて、時間を一・五倍に延ばす」


「——そう、そうです! それです!」


 リヒャルトの顔が、本の虫が宝物を見つけた時のように輝いた。


「あなたの鼻は、世界で最も精密な計器だ」


 わたしの頬が熱くなった。


 「花遊び」と呼ばれたこの鼻を。「おまじない」と笑われたこの技術を。初めて「科学」として見てくれた人がいた。


「……ありがとうございます」


「礼を言うのはこちらです。辺境の薬草学だけでは、ここまで辿たどり着けなかった」


 二人で調合を始めた。リヒャルトが植物の成分を分析し、わたしが嗅覚で配合を調整する。失敗は何度もあった。


「駄目です。忌避成分が飛んでしまいました」


「蒸留温度が二度高かったようですね。記録を見直しましょう」


 五回目の失敗。


「今度は香りが弱すぎます。これでは城壁はおろか、小屋ひとつ守れません」


「オオバクロモジの量を増やしてみましょうか。ただし比率を変えると——」


「他の六種との均衡が崩れます。やり直しですね」


 十五回目の失敗。わたしの目の下にくまができていた。


「ローゼマリーさん、今日は休みましょう。根を詰めすぎです」


「もう少しだけ……。この配合比なら、いけるはずなんです」


「では、せめて茶を飲んでからにしてください。無理をして鼻が鈍ったら本末転倒です」


 リヒャルトが差し出すカモミール茶を受け取りながら、わたしは笑った。母にも同じことを言われたことがある。「鼻が資本なのだから、寝なさい」と。


 けれど——二十三回目の試作で。


「……これです」


 わたしは蒸留器から取り出した液体を嗅いで、息を止めた。


 知っている匂い。母の忌避香と同じ——いいえ、違う。もっと深い。もっと力強い。辺境の森の、大地の力が凝縮されたような。


「できた……?」


「できました。いえ——母の忌避香より、強いかもしれません」


 リヒャルトがわたしの顔を見て、そしてわたしの手を見た。染料で色づいた指先が、小さく震えていた。


「結界香、と名付けましょう。王都の忌避香を超える、辺境の守り」


 わたしは頷いた。涙が出そうだったけれど、笑ったほうがいいと思った。




 結界香は、驚くほどの効果を示した。


 最初に試したのは、リヒャルトが巡回する村のひとつ——アルトドルフ。魔物被害が最もひどく、毎月のように家畜が殺される集落だった。


 村の入り口に四つの香炉を置き、結界香を焚いた。風向きを読んで配置を決めるのは、王都の城壁でやっていたのと同じ要領だった。


 一週間後、村長が工房に駆け込んできた。


「ローゼマリー様! 魔物が来ません! 一匹も!」


 村長は涙を流していた。歳老いた男の涙を見たのは初めてだった。


「うちの息子が——五年前に魔物にやられて、足が不自由になって。あれから夜が怖くて怖くて。それが、今は安心して眠れると。あんたの香のおかげだと」


 わたしの胸が詰まった。


 王都では、誰もこんな言葉をくれなかった。三十年間——母の代から守り続けていた城壁の外の静けさを、当たり前だと思っていた。感謝するどころか、「おまじない」と笑っていた。


「ローゼマリーさん」


 リヒャルトが傍にいた。白衣の袖で、自分の眼鏡を拭いている。……曇っていた。泣いていたのだと、後で気づいた。


「次はベルクハイム村に配りましょう。あそこは被害が深刻です」


「はい」


 それから、わたしたちは辺境の村々を巡った。

 結界香を配り、香炉の置き方を教え、炭の焚き方を説明して回った。


 村の子供たちが「お花のお姉さん」と呼んでくれるようになった。わたしが工房の前を通ると、小さな手で摘んだ野花を差し出してくれる。


「お姉さん、この花いい匂い?」


「ええ、とってもいい匂い。この花はね——ハナシノブっていうの。花言葉は『来てください』よ」


 子供たちが嬉しそうに笑う。


 ここの花は、王都の花より正直です。風も、土も。


 そう思った時、わたしは自分がもう、ローゼンハイムに帰りたいと思っていないことに気づいた。




 工房での夜。


 蒸留作業の合間に、リヒャルトが薬草茶をれてくれた。カモミールとミントのブレンド。わたしの好みを覚えていてくれたらしい。


「ローゼマリーさん」


「はい」


「辺境に来て、後悔していますか」


「いいえ」


 即答だった。迷いなど、なかった。


「王都にいた時——わたしの調香は、誰にも見えていませんでした。城壁に焚く香も、騎士に配る小瓶も。三十年間、一度も魔物に襲われなかったのは——誰も、わたしの母のおかげだとは思っていなかった」


「見えない労働ほど、失って初めて気づくものです」


 リヒャルトの声は静かだった。薬草茶の湯気が、二人の間で揺れている。


「けれど、ここでは違います。あなたの香が村を守っていることを、みんなが知っている」


「それが……嬉しいのです」


 わたしは湯気の向こうのリヒャルトの顔を見た。穏やかな笑顔。眼鏡の奥の知的な瞳。薬草の匂いが染みついた白衣。


 この人は、わたしの香を「おまじない」とは言わなかった。

 「科学」と呼び、「計器」とたたえ、そして——わたしの話を、最後まで聞いてくれた。


「リヒャルトさん」


「はい」


「あなたに出会えて——よかった」


 リヒャルトが少し驚いた顔をして、それから——穏やかに微笑んだ。


「わたしもです。ローゼマリーさん」


 窓の外で、夜風が野花を揺らしていた。辺境の夜は暗い。けれど、暗闇の中にも花の匂いがした。




 王都ローゼンハイムの異変が辺境に届いたのは、わたしが王都を出てから一ヶ月半後のことだった。


 最初の知らせは、街道を通る商人からだった。


「王都が大変なことになってるらしい。魔物が城壁に群がって、騎士団が夜通し戦ってるって」


 わたしの手が止まった。蒸留器の火を弱めたまま、しばらく動けなかった。


「……在庫が、切れたのですね」


 わたしが最後に補充した忌避香。一ヶ月分。それが尽きれば——三日で効果は消える。


 次の知らせは、もっと深刻だった。


「騎士団は後任の調香師を探し回ったらしいんだが、ブリュムヒェン家の調合法を知る者が見つからなかった。それで——見様見真似で別の調香師に依頼したところ、配合を間違えて、魔物を逆に呼び寄せたそうだ。騎士が十人以上、重傷だと」


 リヒャルトが眉をひそめた。


「忌避香の配合を間違えると、誘引効果に転じるのですか」


「はい……。七種のうち、ふたつの順序を間違えるだけで、忌避が誘引に反転します。母の調合書にしか書かれていない順序です」


「逆に呼び寄せる……。それは危険すぎる。知らない人間が手を出していい領域ではない」


「ええ。だから母は門外不出にしていました。悪用されれば、街ひとつ滅ぼせてしまう」


 わたしは唇を噛んだ。

 その調合書を持って出たのはわたしだった。残された人々には、配合の正しい順序を知る術がない。


「ローゼマリーさん」


 リヒャルトの声は、いつもと同じ穏やかさだった。


「あなたのせいではありません」


「……わかっています」


 わかっている。追い出したのはあちらだ。調香を「おまじない」と笑い、香炉を蹴り倒し、「花の匂いしかしない女は要らぬ」と言ったのはあちらだ。


 けれど——城壁の下で暮らす人々は、何も悪くない。


 朝市の喧騒。煙突からの煙。子供たちの笑い声。あの街は、わたしが守りたかった場所だった。




 そして——ヴィルヘルムが来た。


 忌避香が切れてから十日目の夕方。辺境の工房の前に、泥だらけの馬が止まった。甲冑の男が一人、馬から転げるように降りる。


 ヴィルヘルム・フォン・アイゼンハルト。

 顔色は蒼白で、目の下に深いくまがあった。魔物と戦い続け、騎馬を乗り継いでここまで来たのだろう。限界を超えた男の顔だった。


「ローゼマリー」


 名前を呼ばれた。一ヶ月半ぶりに。


「戻れ」


 わたしは工房の入り口に立ったまま、黙って彼を見た。


「聞こえなかったのか。戻れと言っている」


「お断りします」


「ふざけるな! 王都が魔物に包囲されているんだ! おまじないでも何でもいい、あの香を——」


「おまじない」


 わたしの声は、自分でも驚くほど静かだった。


「おまじない、ですか」


 ヴィルヘルムが口をつぐんだ。


「あなたは——わたしの調香を、おまじないと呼びました。花遊びと。女の真似事と。香炉を蹴り、小瓶を使わず、わたしの三十年分の守りを——ただの煙だと」


「……今は、そんなことを言っている場合じゃない。人が死ぬんだぞ」


「ええ、存じております。だからこそ申し上げます」


 わたしはヴィルヘルムの目を見た。らさなかった。


「わたしが城壁の香を守っていた五年間——いえ、母の代から数えて三十年間。王都で魔物に殺された人は何人ですか」


「……ゼロだ」


「それは、あなたの剣だけの手柄ですか」


 ヴィルヘルムは答えなかった。答えられなかった。


「花の匂いしかしない女は要らぬ——そう仰いましたね。ならば、もう要らぬはずです」


 背後で、足音がした。

 リヒャルトが、静かに工房から出てきた。白衣のまま。眼鏡の奥の瞳は穏やかだったけれど、ヴィルヘルムの前に立った時——その視線は、はがねのように硬かった。


「失礼ですが——あなたが、ヴィルヘルム・フォン・アイゼンハルト殿ですか」


「誰だ、貴様」


「グリューンヴァルト辺境伯家の三男、リヒャルトと申します。薬師をしております」


 リヒャルトは一礼した。礼儀正しく、けれど——退かない姿勢だった。


「ローゼマリーさんの調香は、科学です。魔物忌避の原理は、特定の精油成分が魔物の嗅覚受容体に作用して回避行動を——」


「そんな講釈はいい! 戻せと言っている!」


「彼女を『おまじない師』と呼んだのは、あなたでしたね」


 リヒャルトの声は静かだった。怒りではない。ただ、事実を述べる声だった。


「花遊びと蔑み、香炉を蹴り倒し、三十年間の防衛を『くだらん』と一蹴した。その結果が——三日で魔物に包囲された王都です」


 ヴィルヘルムの顔が赤くなり、そして——蒼白になった。


「……俺は」


「あなたの剣が強いことは、疑いません。けれど剣は、来たものを倒す力です。来させない力を——あなたは捨てた」


 ヴィルヘルムは黙った。

 拳を握りしめ、歯を食いしばり——けれど、反論できなかった。事実が、すべてを語っていたから。




 わたしは工房に入り、棚から一本の瓶を取り出した。


 結界香。辺境の植物で作った、母の忌避香を超える守りの香。


「これを、お持ちください」


 ヴィルヘルムが瓶を見つめた。


「……これだけか」


「この一瓶で、十日は保ちます」


「十日で——城壁全体を?」


「はい。辺境の素材で改良しました。母の忌避香より、持続時間は三倍です」


 ヴィルヘルムが手を伸ばし——止まった。


「十日の後は、どうすればいい」


「その間に、花の価値がわかる方をお探しください」


 わたしの声は、穏やかだった。怒りではなかった。恨みでもなかった。


 ただ——もう、あなたのために調合する理由がないのです。


「それと、手紙を一通」


 昨夜のうちに書いておいた手紙を、瓶と一緒に渡した。


 ヴィルヘルムは手紙を開いた。わたしの字で、こう書いてあった。


『香りは嘘をつきません。誰のために調合したか、花が覚えています。

 この香は、王都の民のために調合したものです。あなたのためではありません。

 十日の間に、城壁の香を守る人を見つけてください。わたしは、わたしを必要としてくれる場所にいます』


 ヴィルヘルムの手が、かすかに震えていた。


「……すまなかった」


 初めて聞いた謝罪だった。けれど——もう、遅い。


「お気持ちだけ、頂戴いたします」


 一礼した。

 そしてヴィルヘルムが馬に乗り、街道の向こうに消えていくのを、わたしは工房の前で見送った。


 リヒャルトが隣に立っていた。


「よかったのですか」


「はい」


「後悔は?」


「ありません」


 即答だった。


「……少しだけ、ほっとしました」


「ほっとした?」


「王都の方々が、これで守られます。十日分の猶予があれば、対策を講じられるでしょう」


 リヒャルトが小さく笑った。


「あなたは——追い出した街のことも、まだ心配しているのですね」


「街を嫌いになったわけではありませんから。嫌いになったのは——いいえ、嫌いにさえなれませんでした」


「それが、あなたらしい」


 リヒャルトの手が、そっとわたしの手に触れた。薬草の匂いが染みついた、温かい手だった。


 わたしは——その手を、握り返した。




 後日談は、静かなものだった。


 王都は、あの一瓶の結界香で十日間をしのいだ。その間に騎士団は国中の調香師を探し——けれど、母の調合書なしに忌避香を作れる者は見つからなかった。


 最終的に、王都はわたしに忌避香の定期納品を依頼してきた。正式な契約書付きで。報酬も、以前の三倍。


 使者は恐縮しきった表情で言った。


「ブリュムヒェン様、王都としてはぜひとも——」


「お受けいたします」


 使者が安堵あんどの息を漏らした。しかし、わたしは続けた。


「ただし、条件がございます。辺境の村々への結界香の配布を優先させていただきます。王都への納品は、余剰分からとなります」


「余剰分、ですか……? しかし、王都の城壁は広く——」


「ご安心ください。結界香は母の忌避香より効果が強い。少量で十分です。ただ、辺境の村々にも守りが必要ですので」


 使者は苦い顔をしたけれど、断る権利は彼らにはなかった。


 ヴィルヘルムのことは、風の噂で聞いた。

 魔物との三日間の戦闘で深い傷を負い、前線を退いたという。右腕にひどい傷痕が残り、以前のようには剣を振れなくなった、と。

 騎士団の会議で「剣だけでは守れない」と発言したらしい。遅すぎる気づきだったが——気づかないよりはましだろう。


 新しい婚約者は見つからなかったと聞いた。「花の匂いの女を追い出した男」という評判は、王都中に広まっていたらしい。あの若い騎士——わたしの小瓶を使ってくれていた騎士が、事の顛末てんまつを仲間に話したのだという。


 わたしは——何も思わなかった。ヴィルヘルムへの怒りも、ましてや同情も。ただ、もう関係のない人だった。




 辺境の工房で、今日も蒸留器に火を入れる。


 オオバクロモジの樹皮。辺境ラベンダー。クロモジの枝。四番目の香料を量り取り、五番目の——。


「ローゼマリーさん、新しい薬草茶ができました。味見してもらえますか」


 リヒャルトが白衣のポケットから小瓶を取り出す。カモミールに何かをブレンドしたらしい。


「いい香り。……エルダーフラワー?」


「正解です。やはりあなたの鼻にはかなわない」


「リヒャルトさんの舌もすごいと思いますけれど」


「嗅覚と味覚は密接に関係していますから。つまり、わたしたちは良い共同研究者だということです」


 工房の扉が開いて、村の子供たちが駆け込んできた。


「お花のお姉さん! 今日はどんな匂い?」


「今日はね——結界香を作っているの。ちょっと苦いけれど、いい匂いでしょう?」


「うん! これがあるから、おばけが来ないんだよね!」


「魔物、ね。おばけじゃなくて」


 子供たちが笑う。リヒャルトが「正確には魔物ですよ」と律儀りちぎに訂正する。子供たちが「リヒャルト先生はまじめだなあ」とまた笑う。


 窓辺に飾った野花が、午後の風に揺れていた。


 名前も知らない、小さな青い花。子供たちが「お姉さんに似合うと思って」と摘んできてくれたもの。


「ローゼマリーさん」


「はい」


「その花、セリンセですよ。和名は——」


「知っています。花言葉は『あなたを信じます』」


 リヒャルトが目を丸くした。


「花言葉まで覚えているんですか」


「お花が教えてくれましたから」


 わたしは微笑んだ。

 辺境の空は高くて、風は花の匂いを遠くまで運ぶ。


 王都から今月の注文書が届いている。忌避香、二十瓶。

 辺境の村々への配布が終わったら、余った分を送ろう。


 ——香りは嘘をつきません。誰のために調合したか、花が覚えています。


 わたしはもう、花の価値がわからない人のために調合することはない。

 この手で、この鼻で、わたしを必要としてくれる人のために——花の香りを、届け続ける。


 窓辺の野花が、風に揺れている。

 辺境の午後は、どこまでも穏やかだった。



最後まで読んでいただきありがとうございました。




 「見えない守り」について、書きながらずっと考えていました。


 剣で魔物を斬る騎士は、誰の目にも英雄として映ります。けれど、そもそも魔物を近づけなかった人の功績は——誰にも見えない。「何も起きなかった」ことを手柄として認識するのは、とても難しいことです。


 これは現実でも同じではないでしょうか。システムが止まらないのは保守担当者のおかげ。犯罪が起きないのは地域の見守りのおかげ。健康でいられるのは予防医療のおかげ。けれど、それらは「当たり前」として見過ごされ、なくなって初めて気づかれる。


 ローゼマリーが最後に王都に送ったのは、怒りではなく——一瓶の香と、静かな手紙でした。「花の価値がわかる方をお探しください」という言葉は、攻撃ではなく、事実の提示です。見えない守りの価値は、失ってからしかわからない。だからこそ、彼女はもう戻らなかった。自分の技術を理解し、必要としてくれる場所を見つけたから。


 花は声を上げません。ただ、咲いて、香って、静かに世界を守っている。そんな強さを、書けていたらいいなと思います。




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母親が十年前に亡くなったのに調合を始めたのは五年前?その間はどうしていたのでしょう?
「ネ(調香師)」の仕事ですね。匂いは「観る」に次ぐ大事な器官ですから。 ただこのお仕事をされる方は強烈な刺激のある料理を食べられないとか。 お体にお気をつけて。
王都を危険に晒したのだから元婚約者は何からの処罰も受けたかもしれませんね。
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