3章
一節
ベッドの上で膝を抱えるカズナの視界に、ふと、袋の口が開いているのが見えた。
そういえば。
昨日、ゴブリン討伐でもらった戦利品を投げ込んだまま、確認もしていなかった。
どこか無意識のまま、手を伸ばす。
中から転がり出たのは、擦り切れたような一枚の紙。
カズナはその端にある小さな文字を見逃さなかった。
《降誕チケット、一般》
一般。
……コモン。
一般、つまり、特別な力を持たない。
いわば、“雑魚枠”。
でも、カズナは震える指先でその紙を持ち直し、じっと、記された紋章を見つめた。
これを大図書館に持って行けば、また新たな降臨者に巡り会えるのだろうか?
「……会いたい……会わせてくれよ……」
声にならない願い。
思いだけでは奇跡は起きない。そんなことは、わかってる。
けれど。
この紙の向こうに、もう一度、彼女が現れてくれたら。
今度は、絶対に手放さない。
この世界のシステムがどうであろうと、レアリティが何であろうと。
構うものか。
「……頼む……」
契約書を、胸に抱きしめる。
鼓動が高鳴っていた。
奇跡を信じるには、まだ少し早い夜だった。
二節
白い空間。
鼓動のような振動と、遠くから聞こえる“誰かの声”。
(……あ、来た)
地面に円が描かれる感覚。魔力が膨れ上がり、力が満ちる。それと同時に、心の奥に“誰か”の存在が差し込んでくる。
カズナ、という青年。
はじめまして、マスター。
白光を抜けたその先で、彼は立っていた。
まだ少年の面影を残したような整った顔立ち。
どこか影があるけど、誠実そうな瞳。
それを見た瞬間、心の奥でスイッチが入った。
(ああ、こりゃ……間違いない。いい男)
短剣を背に、腰に手を当てながら一歩前に出る。
「あたしはダガー。あんたの懐刀だ。」
どんな転生者に召喚されるか、最初は少しだけ不安だった。
でも、この人なら裏切らない。
この人になら、全部を預けてもいいって、直感で思えた。
それなら、あたしのやり方で、印象を刻むまで。
「あんたのためなら、どこへでもついていくよ。」
少しだけ色っぽく。
でも、ふざけすぎず、本気で。
この一瞬で、自分が「特別な短剣」だってわからせるように。
「さ、マスター。なんでも言ってくれ? 遺跡か? ベッドか?」
ウィンク。
その瞬間、彼の瞳から涙がこぼれた。
(……え?やりすぎたか?)
ちょっとだけ後悔する。でも、後悔しながらも嬉しかった。
あたしを見て、ちゃんと動揺してくれて。
それが、この人が誠実な証拠だって、分かったから。
「……ふふっ。」
こっそり笑ったその後ろで、世界樹の使徒が慌てて何か記録していた。
でもあたしの目は、もうずっとカズナだけを見ていた。
この人を守る。
この人を支える。
この人に、「自分の短剣でよかった」って思わせてみせる。
だから、どうかマスター。
今はまだ未熟でも、あたしを信じて。
あたしはダガー。
あんたの短剣だよ。
三節
ロマーリアの空は赤く染まり、間もなく夜の帳を迎えようとしていた。
カズナは大図書館の荘厳な扉を背に、視線を宙に浮かせていた。
「……ダガーか。と、とりあえず、宿に戻るべきなのか?……いやしかし、何かこう、無理矢理連れ込んだ感もあるし、なにより同じ宿屋に代わる代わる別の女性というのも……。」
ぶつぶつと独り言を漏らす彼の少し後ろを、ダガーが歩く。
腰に短剣、軽装の鎧、表情は明るく、けれどその瞳は主を常に気にしていた。
「……なあ、マスター。今夜、あたしら、どこで寝る?」
冗談めかすように肩をすくめる。
「まあ、寝袋一個あれば、道端でも十分だぜ?それにあたし、夜目も利くし、獣よけもできるし、結構たくましいんだよな、こう見えて。」
にっと笑って見せた彼女に、カズナは少しだけ困ったように首を振った。
「いや、それはダメだ。……君に、そんな思いはさせたくない」
ダガーの目が少し見開かれた。
「近くに……その、今泊まっている宿がある。25ゴールドで二人一部屋。屋根もあるし、ちゃんとベッドも……。」
言いながら、カズナは頬を赤く染め、視線を逸らす。
「も、もちろん!べ、別に変なことするわけじゃないから!ベッドも別々っていうか、あの、あっちに一つ、こっちに一つっていうか……!」
早口になっていく彼の様子を見て、ダガーは思わず吹き出してしまった。
「ははっ、マスター、顔真っ赤だぞ?」
「う……うるさい……!」
けれどその頬の火照りには、まっすぐな優しさが宿っていた。
「でも、ありがとな。……そう言ってくれるの、嬉しいよ。」
ダガーは、軽くカズナの肩を拳でとんとんと叩いた。
「安心しな。マスターが決めてくれた場所なら、どこだって……“安心できる場所”って思える。」
その言葉に、カズナはまた涙が出た。
二人の影が、だんだんと長くなる石畳の道。
歩く度にカズナの胸は締め付けられ、そして、ダガーは、そんな彼の中に優しさと誠実さを見出だしていた。
四節
夕食を終えたあとの静かなひととき。
カズナは灯りの揺れる宿の廊下を歩きながら、ダガーを自室へと案内していた。
「……ここだよ」
扉を開けると、そこには淡く照らされた部屋と、一つの大きなベッドがあった。シーツは丁寧に整えられ、窓辺には小さな花瓶と、今日届いたばかりの薄紅の花が揺れている。
「そう、くるかぁ……。」
ダガーが口の端で笑いながらも、どこか寂しげにそう呟いた。
(やっぱり、ね)
心の奥に走る、薄い痛み。
見も心も、全部預ける覚悟はできていた。
でも……ほんの少し、期待してしまった。
この人なら、違うかもしれない。
それなのに。やっぱりこれは、転生者と降臨者の“関係”なのだと、現実が突きつけてくる。
「ま、待ってくれ、誤解だ! 俺は、俺は……っ!」
カズナが慌てて手を振る。
顔は真っ赤で、息も上ずっている。
「俺は床で寝るから! 椅子でもいい、お前はちゃんとベッドに……。」
けれど、そんな言葉を遮るように、ダガーは微笑んだ。
「いいよ。」
その声は優しく、どこか諦めを含んでいた。
「……どうせ、いつかは来ることだし。あたしの全部を、マスターに差し出すよ。」
カズナは言葉を失った。
その言葉の重みに、胸の奥が、ひりつくように熱くなる。
なぜだろう。
このやり取りが、まるでどこかで見た夢のように感じる。
いや、夢じゃない。
あの夜。
あの涙。
抱きしめることさえ叶わなかった、ブレイドの笑顔。
「……。」
カズナの目に、涙が浮かんでいた。
熱い嗚咽が喉の奥からせり上がり、こらえきれず、彼はダガーの腕にすがるように身を寄せた。
「……いいよ、マスター。」
囁く声が、耳元に触れる。
「……貴方の好きにして。今だけでもいい、私を貴方色に染めて。」
そのただならぬ気配に、ダガーの瞳が揺れる。
諦め。
不安。
けれど、それを包むような優しい意志。
この人が背負っているものを、今夜だけは受け止めよう。
そっと、腕を回す。
「大丈夫。……全部、受け止めてあげるよ。」
その夜、二人はひとつのベッドに、静かに寄り添った。
五節
夜は静かに、時を包み込むように更けていった。
ひとつのベッドに、ふたつの影。
触れた指先が、そっと問いかける。
「本当に……いいのか?」
返ってきたのは、震えるほど微かな声。
「……初めてなんだ、あたし……。」
言葉は掠れていても、その決意は確かだった。
触れるだけで壊れてしまいそうな繊細な心を、カズナは優しく、確かに受け止める。
唇が、唇に触れる。
冷たい夜風が、窓辺でそっと見守る中、ふたりの輪郭が、淡く溶けていく。
熱も、想いも、ぎこちなささえも、すべてを包み、溶かし合うように。
やがて、その身が初めて開くとき。
ダガーの奥深くに、かすかな痛みと、確かな光が走った。
それは、鋭くもやさしい、春の雷鳴のよう。
長く閉ざされていた扉が、静かに音を立てて開かれたのだ。
ひとつ、またひとつと、波が寄せては返すように、ふたりの想いは交わり、重なっていく。
後ろから優しく抱かれたとき、ダガーの胸からこぼれた吐息は、どこか幸せそうで。
まるで凍てついた湖面に、はじめて陽が差したかのようだった。
三度目のぬくもりの中、彼女は天井を見上げながら、ふと気づいた。
この夜はただの“契約”じゃない。
魂のどこかが、確かにこの人と繋がっていく。
そして四度目。
カズナを見下ろしたまま、また涙がこぼれた。
それは痛みではない。
喪ったものを、もう一度抱きしめられた歓び。
過去が、今に救われたような気がした。
「カズナ……っ、すき……だいすき……!」
そして二人の四度目の繋がりが同時に最高潮に達した次の瞬間、その奇跡がダガー、いやブレイドの唇からこぼれ落ちた。
第十七章 「カズナ……っ、すき……だいすき……っ」
「……ブレイド?」
静寂の中、カズナの声が優しく震える。
名を呼んだその声には、確信よりも戸惑いがあった。まるで遠くから届いた鈴の音を、聞き返すように、探るように、疑うように。
見上げた先、ダガーの瞳が彼を見返していた。
だが、どこか違う。
そこに宿る光は、今の彼女ではない。
名を呼ばれたはずのダガーの目は、まるで夢の奥に沈むように虚ろで、焦点は定まっていなかった。
(違う……これは……。)
息を呑むカズナの前で、ふいに。
「……カズナ!」
その声は、確かにダガーの口から発されたはずだった。 けれど響いたそのトーンは、懐かしく、温かく、そして何よりも、忘れることなどできない。
ブレイドの声だった。
次の瞬間、彼女の瞳からあふれ出す涙。
それは自分の意思では抑えられないほどに強く、優しく、心を揺らすほどに切実だった。
ダガー、いや、ブレイドの魂がそこにあった。
「カズナ…………!」
震える指先が、まるで確かめるようにカズナの胸元を掴み、力が抜けたように、その小さな身体が崩れるように抱きついてくる。
軽い。
かつてのブレイドよりも小さく、儚い。
だがその温もりは、あの日と変わらずに、ここにあった。
カズナはそっと両腕を広げ、やさしく、丁寧に、その身体を受け止める。
心の奥に火が灯る。
これは夢ではない。幻でもない。
運命が、ふたたび交差した。
「……おかえり、ブレイド」
その囁きは、涙とともにこぼれ落ちた。
まるで願いが時を超え、奇跡となって結ばれた証のように。
カズナの胸の中で、ダガーとブレイド、ふたつの魂が静かに溶け合っていく。
六節
朝靄がゆっくりと晴れていく、静かな時間だった。
白いシーツに包まれたぬくもりの中、ブレイドはカズナの胸元に顔を埋めたまま、小さく震える声をこぼした。
「……本当は、消えたくなかったんだ」
その一言は、ずっと胸の奥にしまい込んでいた本心だった。
唇がわずかに震え、瞳にはもう隠しきれない涙の光が揺れている。
「けど……どんなに考えても、いつか終わりが来るって思ったら……心が張り裂けそうになって……。カズナが他の降臨者といること、考えたら……気づいたら、体が……勝手に、動いてたの。」
溢れる想いに、ブレイドの声は途切れた。
頬を伝う涙が、まるで迷子になった少女のように、静かに枕を濡らしていく。
「でも、本当は……私、あなたと……一緒に……。」
その先の言葉を、カズナの唇がそっと奪った。
強くもなく、弱くもない。
心を重ねるための、優しい口づけ。
「もういいんだ、ブレイド。」
静かに唇を離したカズナの声は、まるで春風のように温かかった。
「君が“コモン”でも、戦えなくても、ぜんぜんかまわない。冒険も、遺跡も、何もいらない。……花でも売って、一緒に生きていくだけで、充分幸せじゃんか。」
カズナの目が、真っ直ぐにブレイドを見つめていた。
「俺は、ブレイドとずっと一緒にいたい。どんな形でも構わない。……君と離れてた間も、一瞬も、この気持ちは変わらなかったんだ。」
言葉が胸に届くたび、ブレイドの瞳に新しい涙が浮かんでは落ちていった。
けれど、その顔はもう、悲しみではない。微笑みに染まっていた。
「……うれしい……っ、本当に……ありがとう……カズナ……。」
その夜、ふたりは再び心を重ねた。
言葉を交わす代わりに、指先でぬくもりを探し合い、鼓動と鼓動を確かめるように。
そして、空に太陽が昇りきるまで、ふたりの繋がりは、優しく深く続いていった。
* * *
朝の光がカーテン越しに差し込むころ、眠るカズナの隣で、ブレイドがそっと起き上がる。
長い睫毛の間から、安らかな寝顔を見つめ、彼女はそっと囁いた。
「愛してる、カズナ……。例えこの時が、一瞬だけだったとしても……私は構わない。」
唇を重ねようと身を傾けた、その瞬間──
「……バカ野郎。」
カズナが目を開けた。狸寝入りだった。彼女を引き寄せるように抱き締める。
そして、ぐるりと寝返りをうち、今度は彼が彼女を見下ろして微笑んだ。
「ずっと一緒だよ、ブレイド。」
やがて、ふたりはまた重なりあった。
その吐息には、もう寂しさはなかった。
ただ、これから続いていくふたりの未来だけが、そこにあった。
最終節
窓から差し込む柔らかな光が、カーテン越しに二人の肌を撫でる。
木造の宿の天井には、うっすらと朝の音が響いていた。食堂の皿が重なる音、人の話し声、どこかで鳴る小鳥のさえずり。
目を開けたカズナの視界には、まだ眠たげなブレイド、いや、ダガーの姿が映っていた。
「……おはよ。」
ブレイドはまだ、どこか夢の続きにいるような声でそう言った。
昨日まで、いや、ほんの数時間前までのことが、すべて夢だったのではと思ってしまいそうになる。
だが、こうして目を覚ました時、隣にいてくれる誰かがいるという現実。
それが、どれほどあたたかく、どれほど愛しいか。
「おはよう、ブレイド。……いや、ダガー、かな?」
「どっちでもいいよ。どっちでも……私は、カズナのものだから。」
その言葉に、照れたように顔を背ける彼女の髪が、朝の光を反射してきらきらと輝く。
やがて二人は、服を身にまとい、階下の食堂へ向かう。
そこには、ほかの宿泊者たちが朝のパンとスープを楽しんでいた。
しかし、カズナとブレイドの席には──
「お、目玉焼きが……ふたつある。」
「へへ、当たり前でしょ?今朝は特別だもん!」
焼きたてのパンに、やさしい香りのスープ。
目玉焼きの黄身は、ちょうど良い半熟で、切ればとろりとあふれた。
その上から塩をひとつまみ振り、カズナは言う。
「なあ、ブレイド。今度、花屋やってみないか?」
「……え?」
「本気だよ。戦うの、疲れたってわけじゃないけど。お前と、こうして朝飯食うのが……すげえ幸せなんだ。」
ブレイドはしばらく黙っていたが、やがて、ふふっと笑い──
「うん。じゃあ、あたしが育てて、カズナが売るの。」
「え、逆じゃないんだ……?」
「だって、私、あんまりしゃべるの得意じゃないし。」
「いやいやいや、結構しゃべってると思うけど……?」
二人の笑い声が、食堂に優しく響いた。
パンをかじる音、黄身のまろやかさ、コップに注がれる水の音。
そんな何気ない音たちが、この上なく美しく、愛おしく感じられた。
過去の痛みも、別れの記憶も、そしてあの夜の涙さえも、
いまではすべてが、この朝へと繋がっていた。
その隣に、もう失いたくない存在がいる。
それだけで、生きていけると思えた。
世界は、今日も、静かに目を覚ます。
そして物語は、そっと幕を閉じる。
けれどこの朝の続きは、二人だけの物語として、いつかまた語られるかもしれない。
《 Fin 》




