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「遅い」
龍仁の房へ入ると、案の定、言われた。
龍仁はすでに他の侍女の手で、遠駆けの衣から普段のくつろぎの姿へと着替え終わっていた。
艶やかな黒の衣の襟や袖には金の刺繍が入っていて、華美ではないが豪奢なところが、彼の男らしく引き締まった長身にとてもよく似合っている。
「朱音がきましたから、私どもはこれで失礼いたします」
「ああ、ご苦労だった」
一礼した年輩の侍女に、龍仁がねぎらいの言葉をかけている。
その顔は優しげで、うらやましいというか、こちらにもそんな顔をむけてくれないかと、期待で胸がどきどきしてくる。
が、こちらにむきなおった龍仁の顔は、いつもの意地悪顔だった。
喧嘩を売っているのかといいたくなる強いまなざしで、結いあげて翡翠の歩揺を飾った髪の先から、ふわりと風になびく領巾、幾重にも床に流れる淡雪のような裳裾、わずかにのぞく金の刺繡がされた沓先までをじっくりと見る。
それから、ふいっと顔をそむけた。
「……領巾と歩揺の合わせ方が下手だ。
それではまるで男を誘う色街の女だ。
外へはでるなよ」
やっぱりけちをつけられた。
朱音がむっとすると、龍仁がここに座れというように長榻にふれた。
だが主を立たせたまま女嬬が座るわけにはいかない。
無視すると声にだして命じられた。
「ここに座れ」
声に真摯な言霊がのせられている。
こうなると玉をにぎられた朱音は逆らえない。
体が勝手に動きだす。
せめてもの抵抗に、朱音はせいいっぱい足をつっぱった。
のろのろと時間をかけて歩いて、嫌嫌ながらに長榻に座る。
「……お前な、もう少し愛想のいい顔はできんのか」
「申しわけありません、正直者で。
この顔、噓がつけないんです。
ご不快でしたら退出を命じてくださってけっこうですから」
「ならそのままでいい。
その代わり顔をあげてこっちを見ろ」
今度は言霊がのせられていない。
でも反抗すれば言霊をのせるのだろう。
今は怒って〈さがれ〉でいいのに、どうしてこういう時だけ寛容なのだろう。
しかたがない、命令だ。
傍らに立つ龍仁を見あげる。
気まずい。
なるべく顔を見ないようにと視線を外したら、着替えたばかりの彼の襟元に眼が行った。
(あれ? ちょっと歪んでる……?)
着せたのは侍女の中でも一番経験豊富な手練れ、蒼夫人なのに。
朱音は困った。
邸第の使用人としては主に妙な格好をさせておくわけにはいかない。
でもせっかく蒼夫人が着つけたのに、使用人序列が下の朱音がなおしたら気を悪くされないだろうか。
おっとりした蒼夫人は、優しい伯母さんといった感じで邸第の女たちをまとめている。
幼い頃に母と引き離された朱音は、蒼夫人をこっそり慕っている。
嫌われたくない。
周りを見ると、他の侍女たちは残っていても、蒼夫人はいなかった。
(なら、大丈夫かな)
蒼夫人に気づかれないうちになおしてしまおうと、朱音は龍仁に声をかける。
「龍仁様、少しかがんでいただけますか?」
「ん? なんだ、いきなり」
しぶしぶといった感じだけど、龍仁が身をかがめてくれたので、手早く襟をなおす。
主に身をかがませるとは何事だと龍仁が怒るかもと思ったけれど、朱音は言霊の力のせいで長榻から立ちあがれないからしかたがない。
「はい、なおりました」
「……ん」
意外と怒らずおとなしくしていた龍仁が身を起こす。
とたんに、周囲でなんともいえない忍び笑いがあがった。
(な、何!?)
ふり返ると、散らかった衣や带の整理などをしながら室内に残っていた侍女たちが、にまにま笑いながら身もだえていた。
「あ、あいかわらず仲のおよろしいことで。
独り者には眼の毒ですわ」
「蒼夫人はいつもほんとうによく気がききますわね」
龍仁の邸にいる侍女は経験豊かな年輩や既婚者ばかりだ。
若い娘はいない。
そんな侍女たちが、私たちのことは気にせずごゆっくりーと、訳知り顔に背を向ける。
その生温かい雰囲気に、朱音ははっとした。
自分は今何をした?
使用人のくせに、まるで恋人よろしく長榻に座ったまま、相手の襟元をととのえて……。
「ち、ちょっと待ってください、お願い、違うのっ……!」
いそいで説明しようとするけれど、自分が花仙で龍仁に逆らえないことは話せない。
皆の眼には朱音が自発的に長榻に座ったと映っている。
ほほえましい照れ隠しにとられるだけだ。
朱音はがくりと肩を落とした。
(ああ、またやっちゃった……)




