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黎己は切なげに眉をひそめていた。
自分が乳を与えて育てた、大切な主の子の成長を喜ぶべきか、離れてしまった心を嘆くべきか、迷うように。
実の父母でもないのに、〈龍仁〉と名を呼ぶことを許された乳母、皇帝のもう一人の母ともいうべき黎己が、龍仁に手を差しのべる。
「龍仁、まだ遅くはないわ、あなたはこの私が手塩にかけて育てた、もう一人の息子。
できるなら退位させたくない。
我が一族の娘から皇后を選び、子をなす。
そしてその子を皇太子にすると約束なさい、国を治める力を与えてあげるから」
「与える?
必要ありませんね、私はほしいものは自分の力で手に入れますよ、母上方。
あなた方こそおつかれでしょう。
そろそろ引退なさったらいかがです。
このまま離宮へお送りしましょう。
お供しますよ」
「龍仁、あなたにできるの?」
暗にあの秘密をばらしていいのかと尋ねた黎己に、龍仁が尊大に顎をそびやかせる。
「妖怪にとりつかれた者の妄言を聞く者はここにはいませんよ。
皆、あなたの本性を見た後だ」
「なら、はっきりと言うわ。
この宮殿には妃候補の娘たちがいる。
彼女たちの命をにぎっているのは私、彼女たちの父に恨まれていいの?」
そういえば皇太后は妃候補とその侍女たちを瑞鳳宮に集めていたのだった。
この広間の陰の気は祓ったけれど、それも陽の光の届く部分だけ。
扉を締め切り、闇に沈んだ瑞鳳宮に囚われた娘たちは、黎己の合図一つで簡単に命を断たれるだろう。
どうすればいいの、龍仁はどううけるの。
朱音がかたずをのんで傍らに立つ龍仁を見あげた時、広間の奥、宮殿内部へとつながる扉が開け放たれた。
現れたのは香凜だ。
彼女は広間に集う者たちをゆっくりと見回すと、朗々とした声で告げた。
「人質にされていた妃候補や女官たちは無事ですわ。
皆、後宮の外に出しました」
香凜は背後に自分の侍女たちを連れていた。
頼もしい顔をした侍女たちは、それぞれ皇太后に従う女官だろうか、暴れる女たちを後ろ手に捕えていた。
黎己が顔色を変えて問いかける。
「香、凜?
お前、まさか……」
「黎己様、もうしわけありません。
あなた方の行動はすべて陛下にご報告いたしました」
「ほ、報告だと?」
「私は陛下についていたということです、黎己様。
たとえあなた方が罪を問われることになっても、我が一族の連座はこの働きにより不問とする、そう、陛下の誓約もいただいております」
香凜が黎己と皇太后にうやうやしく一礼する。
「国を枯らしてまで我が一族のみが伸びてどうなりましょう。
これ以上の栄達は嫉妬と破滅をかうだけ。
誰も望んでおりません。
それが一族の総意です。
黎己様、時代と情勢が変わったのです。
あなた様はもうじゅうぶん一族の義務は果たされました。
どうかこのうえは心やすらかに、皇太后様とともに離宮に引いていただきますよう、お願いいたします」
香凜が、龍仁の密偵だった!?
朱音は眼を見張りながら、あの木立の中で香凜や侍女たちと会った時のことを思いだした。
彼女たちは誰かをさがしていたが、あれは黎己を追ってのことだったのか。
龍仁も香凜の言葉を肯定するように、一歩前へ出る。
そして黎己に話しかける。
「香凜だけではない。
韓一族の長老たちもまた私につくことを誓約している。
私があなた方の手の者の眼をかいくぐって皇城に戻れたのは、皇太后の父、韓家の長老たちに同行してもらったからだ。
皆、外廷にて、あなた方が後宮より出てくるのを待っている。
どうかこのうえは皇太后とその腹心としての名を穢さぬよう、瑞鳳宮より退去願いたい」
静かに、諭すように龍仁が語る。
お前たちにはもう逃げ場はないのだと。
「取りこまれたか、我が韓一族までが、龍仁に。
そうか、私たちは用済みなわけか、もう使えない古い塵、また捨てるか、私たちを、あの時と同じに……」
つぶやいた黎己の顔は静かだった。
激情のすべてがぬけ落ちたような。
だが次の瞬間、黎己の眼に強い反抗の光がよみがえった。
鋭く叫ぶ。
「皆、動くな!」
龍仁や衛士たちがけげんそうな顔をして、それから眼を見開いた。
ふみ込んだ衛士たちの首に、そして香凜や侍女たちの首に黒い糸が巻きついている。
黎己の命令のままに動く、陰の気の糸が。
朱音や龍仁、それに大半の衛士は扉近くの陽光の中に立っていたから無事だが、それ以外の者の首にはすべて黒い糸があった。
そして見えるのだ、彼らにもこの陰の気の糸が。




