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皇太后宮の中は静かだった。
窓はすべて閉ざされて、朝だというのに薄暗かった。
そして招くかのように、等間隔にともされた灯がまたたき、房と房をつなぐ扉が開いていた。
皇太后がいるのがあの広間なら、朱音は落とした皿の始末をするために近くまでいったことがある。
場所はわかる。
今日は外からではなく、中から広間を目指す。
そして、朱音は広間に踏み入った。
あの寺は開け放たれ、四方の房をつなげて一つの空間にしてあった扉はすべて閉められていて、ざわめいていた女たちもいない。
昼のように辺りを照らしていた多くの燭台もない。
小さな蝋燭の火が一つだけゆらめいて、広い段上を照らしていた。
上座に据えられた一つの椅子と、二人の女人を、まるでそこだけうかびあがらせるかのように、小さな光が照らしている。
「あら、好都合。
自分からとびこんできてくれたのね」
そう笑ったのは皇太后だった。
彼女はまるで臣下のように、椅子の背後に立っていた。
そして見知らぬ女が椅子に腰かけていた。
二人の女を前にして、朱音はとまどった。
椅子に座った見知らぬ女のほうにも既視感があったからだ。
童女のようにあどけない表情をした、美しい人だ。
うっすらと笑みをはいているのに、どこか無機質に見える顔。
陰の気の記憶の中で、ぐったりと意識を失い、皇太后に抱きかかえられていた女人だ。
何かが引っかかった朱音は眼をまたたかせた。
そして二人の顔立ちの相似に気がつく。
二人は似ていた。
まるで血縁のように。
だが差異がある。
表情ではなく、顔の造作がそれぞれ違う。
そしてそれぞれ似た顔だちの男を朱音は知っていた。
龍仁と、佑鷹。
二人の主従。
朱音は気づいた。
龍仁がつぶやいた、〈俺は考え違いをしていたようだ〉という言葉の意味を。
朱音は椅子の背後に立っている、自分がずっと皇太后だと思っていた女に言った。
「あなたは龍仁様の乳母、黎己様……?」
女が笑う。
それは肯定だ。
ああ、どうして気がつかなかったのだろう。
あの過去の記憶に現れた女は、二人とも身ごもっていた。
そして寿命の半分をあげると言っていたのは黎己のほう。
だから彼女は病がちで、邸にこもっていた。
腹の子は龍仁という先入観に惑わされて、もう一人の女人のほうに注目していなかった。
龍仁と佑鷹は乳兄弟だ。
つまり二人は同時期に生まれた。
黎己は主と同時に身ごもったのだ。
それは主の子の乳母になるためだったのか。
それほどの忠義をしめすこの女が、大切な主のためにどこまでやるか。
きっと命を賭けても惜しくないと思っていたのだろう。
そんな大切な主が一族のために必死に皇帝の子を産もうとした。
なのにやっと腹に子が宿った時に、皇帝が崩御したら。
大切な主が皇帝の子を身ごもったのに、何も残らない。
その時の絶望と恐怖。
だから、廟の噂にすがった。
自分のためにではなく。
朱音がすべてを察したと悟ったのだろう。
黎己が眼を細める。
「お前のような若い娘に私の絶望はわからないだろうね。
この方は私の自慢のお嬢様だった」
言って、彼女は愛おしげに椅子に座る皇太后を見た。
「美しく、お優しくて。
この方を穢したくないから、私は望んで父の厳しい教えも受けたのだよ。
この方を無垢なままお守りするために。
私がこの方の代わりに後宮中の妃どもを蹴散らして、必ず国母の座を捧げようと。
……それがいけなかったのかねえ」
しみじみとした黎己の言葉に、周囲の陰の気が反応する。
もだえ、のたうち、朱音にあの時の無念を伝えてくる。
あの日、先々帝の崩御の知らせを聞いた時、世間知らずの令嬢は絶望のあまり首をつってしまった。
一族の絶望と叱責を恐れて。
黎己が見つけてあわてて降ろした時には遅かった。
息はあっても意識は戻らぬ体になっていた。
「変わらずそこにおられる。
なのに眼を開けてくださらない、お声も聞かせてくださらない。
体は温かいのに何一つ反応を返してくださらない主を抱いて、私が何を思ったかわかるか?」
絶望、そんな生やさしいものではなかった。
ああ、だからか。
だからこの人は陰の気を呼んで令嬢の体に宿らせた。
空っぽになった肉体を核に仙の姿をとらせた。
令嬢の命をつなぎとめるために。
そして自分が玉をにぎり、汚れ仕事は自分が決めて命じたことと、自分一人罪を背負う覚悟を決めたのか。
情報の制限される後宮を出て、龍仁の乳母をつとめつつ高官たちをあやつって。
前に龍仁が黎己のことを忠義の塊のような女だといったが、まさにそのとおりだ。
黎己が愛し気に皇太后の体を抱く。
「何もお考えにならなくていいのですよ、皇太后様。
あなた様は私がお守りします。
きっとあなた様の心もよみがえらせてみせますから」
ここにいるのは皇太后ではない。
もうとっくに黎己の大切な〈お嬢様〉の心は死んでいる。
残された体に陰の気が入ってそれらしい動きをとっているだけの空っぽの人形だ。
それを知っているはずなのに、黎己はうっとりと腕の中の皇太后を見つめている。
たまらない。
胸が苦しい。
黎己が結んだ伴侶の誓いの形がせつなすぎる。
「憐みの眼などいらないよ。
私はあきらめてなどいないのだから」
黎己が朱音に眼を移しながら吐き捨てるように言う。
「きっとこの方は目覚めてくださる。
私はその時まで国一の女の位をたもってみせる。
この方に笑っていただけるように。
その日も近いわ、だって国中の道士と秘薬を集めたもの。
それに最高の霊薬もここにきた。
秘密も守れるし一石二鳥とはこのことよ」
心を女怪のようにゆがめた哀しい女が、にたりと笑った。
「小さくても仙は仙。
花仙を喰らえば、どれだけの力がつくかしらねえ」
言って、黎己は陰の気を伸ばした黒い糸を、朱音に向けてはなつよう、皇太后の体に巣食った陰の気の仙に命じた。




