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「では必ずお守りしますので」
「頼んだぞ」
夜半になると雨も小やみになっていた。
龍仁は見送りに立った者たちに軽く眼をやると、馬にまたがる。
一晩くらい朱音についていてやりたいが、臥所に替え玉を置いてきたとはいえ、皇帝が無断で外泊するわけにはいかない。
それに昼の襲撃と朱音がもたらした情報で気になることも出てきた。
早急な対処がいる。
姿を外に見せないようにしてこちらを見送る朱音に胸がうずいた。
傷を負った時、皇城へ戻ろうとは思わなかった。
病床にいるはずの皇帝がこんなところで傷を負ったと知られるのはまずい、そんな理屈ではなく、まず浮かんだのは朱音の顔だった。
彼女ならやってくれるだろうと思った。
期待に彼女は応えてくれた。
怖いだろうに、それでも男の肩に焼いた刃をあて、肉を焼いた。
焦げた臭いの残る房から逃げださず、繃帯を巻き終わるまで声の一つもたてなかった。
いつの間にこんなに強くなっていたのかと思う。
初めて捕らえた時、幼い朱音はよく泣いた。
それは夜でも同じだった。
ふと眼が覚めて様子を見にいくと、朱音は器用に眠りながら泣いていた。
月明かりに照らされた姿があまり儚げで、立ち去れなくて枕元に座った。
手を握ってやると安心したように握り返してきた。
起きている時には見せない甘えたしぐさに胸が高鳴った。
彼女の頬にふれて涙の跡をぬぐってやろうとしたら、
『母様、大好き……』
と、寝言をつぶやいた。
おかげで慰めているのは自分だと言えなくなった。
かといって夜ごと泣く朱音をほうっておけず、不本意ながら枕元に座って頭をなでたり掛け布をかけなおしたりと、親のように世話をした。
今思えば楽しい暮らしだった。
たった四年なのに、まるで朱音を赤ん坊の時から育てたような錯覚すらする。
出会いを間違えてしまった。
そのせいでこじらせた。
だがおかげで彼女のことを深く知ることができた。
城を陥とすよりも、老獪な高官どもを相手にするよりも、あの小さな少女を前にした時のほうが当惑させられた。
いつかはあの赤い唇に、あなたを欲していると言わせてみせる、そう思っていた頃もあった。
だが今は違う。
簡単に陥落せずに手強い敵のままでいてくれたから、いや、さらに強くなって対等の相手としてたってくれているから、安心して手放せる。
彼女はもう庇護すべき子どもではない。
後宮でも友をつくり、いじめに耐え、立派に暮らしていた。
そのうえ貴重な情報を手に入れて、仕事だってできるのだと胸を張っている。
だから、玉は返してやろう、そう決めた。
「……今まで俺のもとに留まってくれたことを感謝すると、別れの時には言うつもりだったが言えなかったな」
未練はある。
だが惚れた弱みだ。
手放さなくては。
自分のもとにおいては危険だ。
玉さえ返せば彼女はいつでも仙界へ渡れる。
身の安全は保障される。
今まで慎重に根回しをしてきたのだ、皇太后を相手に挑んだ戦いは、勝算がある。
たがもしうまくいっても、皇太后が身を守る最後の盾であるあの秘密を自暴自棄になって口にするかもしれない。
その時、朱音に傍にいてほしくない。
朱音の話を聞くまではいあの出生の秘密は皇太后が子を縛るために創ったでたらめと信じたがっていた自分がいた。
密かに調べたが、産婆や内侍官を買収した形跡もなかったし、誤魔化しきれるものではなかったから。
だが陰の気とやらを使って人の知覚を操作したのなら。
何も知らない朱音が語った光景だ。
もう自分をごまかせない。
惚れた女の言うことだ。
信じられる。
それが嘘であってほしい事実でも。
一生懸命に語っていた朱音の愛らしい声と、やわらかそうな唇を思いだす。
(最後になるなら、一度くらい唇を奪っておくのだったか)
彼女の心に自分という傷を遺すために。
考えて顔をふる。
真っ白な彼女にこれ以上妙な汚点をつけるわけにはいかない。
これでよかった。
龍仁は頭の中を切り替えると、皇城とは反対の方向へ馬首をめぐらした。
自分が外へ出た知らせはもう敵のもとへ入っているだろう。
そうやすやすと皇城には戻れない。
ならば外出したのを幸い、やりかけていた仕事をすすめるのに使うまでだ。
龍仁は馬に鞭をあてると、皇太后の生家、韓家の邸第に向かって駆けだした。




