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朱音がその噂を開いたのは翌朝、いつものように歩廊の清掃をしている時だった。
他の埸所を担当している端女が、息せき切って駆けてきて言ったのだ。
「陛下が倒れられたのですって、しかも昨夜の宴で!」
その声に、朱音は頭から冷水を浴びせられたかのようになった。
衝撃のあまり、体が動かない。
声もでない。
嘘、昨日は元気だったのに。
呆然としている朱音の耳に、同僚たちの声が聞こえてくる。
「で、陛下は?」
「わからないの、毒を飲んで倒れられたって話だけど。
瑞鳳宮の医官がご様子を診たけれど、たいそうなお苦しみようだったらしいわよ。
皇太后様も真っ青になってらして」
「毒!?
噓っ、それじゃあ暗殺未遂ってこと?
いったい誰が!!」
皆が悲鳴をあげた。
即位したばかりの皇帝に何かあっては国が乱れる。
そもそもこの後宮で事件がおこったのなら、どんな過酷な取り調べがなされることか。
皆、真っ青になっている。
が、朱音は彼女たち以上に青くなっていた。
(どうして?
どうして龍仁様が毒なんかっ)
だって後は用心深い人だ。
不用意に物を口にしたりしない。
いったい何があったのか。
それにこんな噂になるのは何故?
皇帝の不予など普通隠すはず。
なのにこんなに簡単に人の口にのぼるなんて、緘口令をしくのも無駄なくらい容体が悪いの!
真っ白になった頭の中に、龍仁の顔だけが浮かぶ。
端女のもとへは無責任な噂しか入ってこない。
もどかしい。
次々嫌な考えばかり浮かんで、朱音はじっとしていられなくなった。
「白白、どこ行くの!?」
「駄目よ、私たちにも禁足令がでたから、房に戻らなきゃ」
同僚たちの声が聞こえた気がした。
でも朱音の耳には入らない。
朱音は懸命に走った。
後宮の端まで走って、皇城を通じる門にとりすがる。
「お願い、開けてくださいっ」
「おい、端女が何をやっている、気でもおかしくなったか」
「この門は許可なくお前のような者が通れるところではないぞ!」
門の後宮側を守る衛士たちが、槍を手に、朱音を取り押さえる。
「離してください、私は……っ」
叫ぼうとして、朱音は出すべき言葉がないことに気がついた。
何と言うの?
私は龍仁の元女嬬です、とでも言うつもり?
それとも後宮に入って妃候補をさぐっている密偵ですとでも?
どちらの肩書きを名乗ったところで、この門は通れない。
そんな資格はない。
朱音の体から力が抜ける。
衛士たちに小突かれて、地面に倒れる。
じゃらついた土が口に入つた。
不快な味だ。
今の朱音の心と同じに。
そして少し頭が冷えた。
今の自分はどうしたって龍仁のもとへは行けない。
届かない。
今までが近すぎたのだ。
本来なら朱音と龍仁は顔も合わせられない間柄で。
なのにあんなに近くでずっと一緒にいて、生意気な口を許してもらえて、昨夜なんか会いにきてもらえて。
だから思いあがっていたのだ。
自分は特別だと。
やっと実感が追いついてきた。
涙が込みあげるかと思ったのに、意外と胸の中は凪いでいた。
小さなさざ波だけが幾重にも打ちよせているような感じだった。
こうなると最初からわかっていたのかもしれない。
だから佑鷹が、陛下は君を気にいっていると言っても信じなかったのかもしれない。
期待して、裏切られて、傷つくのが嫌だから。
朱音は苦しいのが嫌いだから。
だけど。
(お願い、無事かだけでも、この眼で確かめさせて)
凪いだ心の中で一つだけ存在感を放つ想いがある。
〈一応、伴侶だ〉
彼が昨夜冗談で口にした言葉。
嬉しかった。
もう自分の心をごまかせない。
出金いは最悪だった。
その後も最低だった。
なのに四年の間に心に居座ってしまつた、憎らしい人だ。
別に両想いになりたいとか、香凜のような妃になりたいとか思っているわけじゃない。
ただ自分はありがとうを一度も言えていない。
憎まれ口をたたいてばかりでごめんなさいも言っていない。
昨夜の栗のお礼も言えてないし、軟膏を投げつけたことも謝っていない。
「おい、起きろ。
いつまで地べたに転がっている!」
衛士たちが朱音を引きずり起こす。
そして怪しい女だということで詰め所につれていかれる。
縄をうたれて、槍の柄で小突かれて、やっと朱音は周りが見えてきた。
このまま取り調べを受けたらまずい。
髪を染めていることも気づかれてしまうかもしれない
どうしよう。
逃れる策を求めてあたりを見回した朱音の眼に、こちらに駆けてくる男の姿がうつった。
「こんなことだろうと思って、抜けだしてきてよかった」
佑鷹だ。




