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結局、龍仁の手にある栗がなくなるまで餌付けは続けられた。
すべての栗を与え終えた龍仁が、満足そうに朱音の頭をぽんとたたいた。
剣を握る大きな硬い手だ。
でも気持ちいい。
「仕事熱心なのはいいがあまりうろうろするな。
お前に密偵仕事を命じたが、身の安全を第一に考えろ。
お前の名がばれる真似は絶対にするなよ」
念を押されて朱音はひるむ。
こんな言葉をかけてほしいと思っていた。
でも同時に怖い。
そっと近づいたら、信じたか馬鹿とか言って、また拒絶されそうで。
臆病になってしまった朱音は、いつものように顔をあげてにらみつけることができない。
「どうした、泣いているのか。
もう俺の傍が恋しくなったか?」
うつむいているだけなのに、どうしてそうなるの。
胸の中だけでせいいっぱいの悪態をつく。
「というかお前、目立つなと言ったのに、何を妃候補相手に名乗りをあげたりしているんだ。
俺がすぐ助けてやれると思ったら大間違いだぞ」
言われて、また胸が小さくかじかむ。
それはあの歩廊の水たまりの時のこと?
誰から聞いたの?
自分は報告していない。
もしかして香凜から?
「なんだ、どうした、これだけ言ってもまだ怒鳴りつけてこないのか。
体調でも悪いのか?」
どういう言い草だ。
でも言われてみればいつも自分は龍仁にかみついてばかりだ。
最初の頃はそうでもなかった。
龍仁のことが本気で怖かったし、まともに顔をあわせることもできなかった。
口答えなんかとんでもなかった。
(いつからだった?
私が龍仁様に遠慮のない口をきけるようになったのって)
龍仁の邸につれてこられて少したった頃だった。
ずっとうつむいて泣いていた朱音だけど、ある日我慢の限界をこえて、龍仁をにらみつけて、帰してとわめいたことがあった。
その時、彼がはじめて笑顔を見せてくれたのだ。
それまでのこわばった困ったような笑みではなく、ほっと安堵したような笑みを。
ああ、この人には怒っても大丈夫だ、そう思えた。
そしてうれしかった。
やっと心からの笑顔をむけてもらえて。
それからだ。
朱音が泣くのをやめたのは。
代わりに龍仁に寂しさや苛立ちをぶつけるようになった。
半分、彼の笑顔がまた見たくて、彼を喜ばせたくて突っかかっていたのもあると思う。
彼はすべて受けとめてくれた。
ますますおもしろがってからかってきたけれど。
(なんだか冷静に自分の行動をかえりみると、私かなり単純だったりする?
こんなのじゃ皆が猫よばわりするのもしょうがないか)
朱音がしんみりしながら体にまわされた腕を見ていると、いきなり龍仁が体重をかけてきた。
顔を肩に埋められて、思わず悲鳴がでそうになる。
「ち、ちょっと、龍仁様!?」
「お前が妙におとなしいからこちらの調子までおかしくなった。
少し眠るぞ。
この頃寝不足なうえ酔いがまわってるんだ」
なんだ、体がだるくなったからもたれてきただけだったのか。
また早とちりしかけた自分に赤面する。
互いに顔が見えない体勢でよかった。
「でも風邪を引きますよ、もう冬も近いのに」
「ここは近くに篝火があって焚き火を前にしているのとかわらん。
それにお前は温かい」
私は温石かわりですか。
突っ込みたくなる。
(寝不足って、政務とかかな)
即位してまだ日が浅い。
いろいろ大変なのだろう。
「……そんなに大変なら、いっそ皇帝をおやめになられたらどうです」
思わず言っていた。
だって皇帝でい続けるために彼は忙しい。
彼がきっぱりと答えた。
「それはできない。
皇帝でいなければ手に入らないものがある」
それは何?
自分の望む政をおこなう力?
それとも香凜?
龍仁が皇帝位から降りたら、きっと皇太后は香凜を別の見どころのある公子に嫁がせようとするだろうから。
(あなたの中でもう妃の階位が決まっているなら、私は必要ないのではないですか)
その一言が聞けない。
お役御免になったら龍仁は朱音をどうするのだろう。
龍仁が静かになった。
肩越しにそっと見ると、彼は眼をつむって寝息をたてていた。
久しぶりの寝顔を見ていると胸がきゅっと苦しくなった。
苦しいのは嫌だ。
こんな想いをするのは自分が彼から離れられないから。
彼が朱音の玉をもっているから。
もう終わりにしたい。
(玉さえ取り戻せれば……)
そっと龍仁の襟元に手を伸ばす。




