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花の精霊はいじわる皇帝に溺愛される  作者: アルケミスト


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19

 香凜。


 朱音でさえ名を聞いたことがある。


 皇太后の姪で、尚書省の長をつとめる韓氏の愛娘。


 皆があわてて道を開ける。


 香凜は百官を従えた女帝のようにゆっくりと歩廊からおりてこちらにやってきた。


「……ふん。

 ほんと、教えられたとおりの翡翠の眼だわ。

 こんなところにのこのこ出てきてしょうのない猫だこと」


 香凜がくっと笑う。


 そして次の瞬間、地面についた朱音の手を踏みつけた。


「痛っ」


「あなたが悪いのよ。

 これにこりたら、もっと目立たぬようにふるまうのね」


 朱音の手をさんざん踏みにじってから、香凜が他の妃候補たちに向きなおった。


「この猫は私がもらうわ。

 ちょうどいい玩具になりそう。

 誰か異議のある人はいて?」


 皇太后の姪である香凜に逆らう者など後宮にはいない。


 しかもここにいる妃候補たちはもともと香凜の取り巻きだ。


 文句を言う者などいるわけがない。


「なら、もう行きましょう。

 皇太后様をお待たせしてしまうわよ」


 香凜が背を向ける。


 とりあえず嵐は去った。


 朱音はほっと肩の力を抜いた。


 だがそれは早計だった。


 残っていた香凜の侍女が、いきな木桶を朱音のほうへ蹴り倒したのだ。


 汚れた水が飛び散って、朱音の衣が冷たく濡れる。


「あら、泥棒猫ではなく、濡れ鼠だったのかしら?」


「お優しい香凜様。

 こんな娘をご自分の玩具にされるなんて。

 でもちょうどいい暇つぶしにはなるわね。

 後宮に入ればすぐ陛下のお渡りがあるかと思ったのに、ちっともお見えにならないのだもの」


「明日も遊んであげるからここにいるのよ、鼠さん」


 ころころと笑いながら満足した侍女たちが去っていく。


 あまりの苛烈ないじめに、他の妃候補たちが毒気を抜かれたように後に従う。


 朱音をちらちらとふり返りながら去っていく彼女たちの顔には一様に、眼をつけられたのが自分でなくてよかったと書かれていた。


 この迫力では、香凜に逆らう者はいなくなるだろう。


 もしかして見せしめにされたのか。


(……なめるんじゃないれよ)


 低く胸の中で悪態をついて、朱音は立ちあがった。


 濡れた衣の裾をしぼる。


 誰が鼠だ。


(これくらいで私をやりこめられたと思ってるなら、大間違いなんだから!)


 体への攻擊はもちろん痛い。


 でもこの程度で心を傷つけられたりはしない。


 こちらは十二歳の時からずっと龍仁にいじめられ続けた玄人なのだ。


 ただ、眼をつけられてしまったのはまずかったかもしれない。


 朱音の事情からして目立つわけにはいかないのに。


 ため息がでる。


 自分は何をやっているのだろう。


 妃候補相手に名乗ったり、逆らったり。


(でも、ほうっておけなかったんだもの)


 たぶん真っ青な顔をして怯えていた少女に、龍仁に囚われたばかりのころの自分を重ねてしまったからだ。


 まっすぐ顔をあげて相手をにらみつける気力すらもてずに、泣いてばかりいたころの自分に。


 朱音は顔をふった。


 やってしまったものはしょうがない。


 気分を切り替えて清掃を再開しようと気合を入れる。


 妃候補たちのいじめだって、朱音に猫かぶりな顔の裏にある本性をぶつけてきてくれるなら、かえって妃階位選定の材料になる。


 そこでふと気がついた。


 調べろとは言われたけれど、どこへ報告すればいいか聞いていない。


(噓、どうしたらいいの!?)


 端女は勝手に後宮からでられない。


 龍仁の連絡待ちだ。


 ちゃんと連絡してきてくれるだろうか。


 不安になって周囲を見回す。


 気がつくと端女たちもいなくなっていた。


 とばっちりを恐れたのだろうか。


 前よりも遠巻きになってこちらに背を向けている。


 あの野菊のような少女もだ。


(別に感謝されようって思ったわけじやないけど)


 ちょっと寂しかった。


 それに嫌な自分に気づいてしまった。


 さっき名乗りをあげたのは、自分ならいざとなれば龍仁が聞きつけて助けてくれるのではないかという甘えがあったからだ。


(そういえば、龍仁の顔、もうずいぶん見てない……)


 こんなに離れ離れでいることなんか、今まで一度もなかったのに。


 どんないじわるな俺様でも、四年も一緒にいれば少しは情もわいたのだろうか。


 会いたい、と思った。


 理不尽な主だったけど、おおらかな人だった。


 今思えば自分は彼に反抗するのを楽しんでいたのかもしれない。


 今度こそ満足したと言わせてみせると挑むのが楽しかったというか。


 急に朱音の胸に風がふいた。


 どこからきた風だろうと上を見ると、雲すら浮かんでいない、空虚な晩秋の空が広がっていた。


 まぶし美しいのに、こちらがたよりなく心細く感じる空っぽな空だ。


 朱音は思わず空に向かって問いかけていた。


(どうして龍仁は私を後宮に入れたの……?)


 空は答えてはくれなかった……。


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