18
必死に祈る。
だが朱音の緊張は杞憂だった。
身分の高い父を持つ令嬢とその侍女たちにとって、端女などそこらの石と同じ。
平伏している者になどまったく注意をむけずに歩いていく。
その様子にほっとしながら、朱音は冷たい手が心をなでていくのを感じた。
空気、だ。
自分はここにいるのに、いない。
ちゃんと存在しているのに、他の人から見ればいないのと同じ。
気にもとめてもらえない。
周囲に人がいるからよけいに哀しい。
もう何日まともに会話を、いや、何日人と眼を合わせていないだろう。
自分はなんのためにここにいるの?
これは生きているといえるの?
ただ空気を吸って決められたことをこなしているだけ。
冷たいざらざらする砂に埋まって、そのまま飲み込まれていくような感触。
つんと鼻の奥が熱くなってきた。
朱音が小さく鼻をすすると、そのせいでもないだろうに、妃候補の一人が足を止めた。
きゃっと小さく悲鳴が聞こえる。
「何よ、この泥水っ」
怒った声が聞こえてきた。
端女の誰かが歩廊に水たまりをつくっていたらしい。
「誰? ここを掃除したのは!?」
朱音の隣で、一人がびくりと肩をゆらした。
そこを担当した端女らしい。
野菊のように可憐な顔が真っ青になっている。
駄目だ、端女の身で妃候補の不興をかえば、どんな処罰を与えられるか。
龍仁に鍛えられた打たれ強い自分ならいいけど、こんなか弱そうな子をそんな目にあわせられない。
そう考えると朱音は思わず名乗り出ていた。
「私です!」
隣から驚いたような視線を感じるけど、額を地面につけたまま一気にいう。
「申しわけございません、水をふきとる時間がなくてっ」
「まあ、お前なの?
沓先が濡れたじゃない、どうしてくれるの!」
沓くらいいいじゃないと思うのに、その妃候補は苑に降りてきた。
他の妃候補も暇なのか、おもしろがってついてくる。
「あなた顔をあげなさい。
後で女官長に言っておかないと。
名はなんというの」
「白白ともうします」
「は、白白!?」
どっと笑う声が聞こえた。
「どこの猫の子よ、おもしろいわ、顔を見せなさい」
それだけは勘弁してほしい。
朱音は身を縮める。
「何をしてるの、顔をあげなさい、聞こえないの!?」
駄目だ。
顔を見せないことにはこの人たちは離してくれない。
おそるおそる顔をあげると、令嬢と眼があった。
みるみる彼女の顔が険しくなる。
「緑の眼」
憎々しげな声がした。
「陛下が飼っておられる猫と同じね。
胡人なの?」
悪意をふくんだ声が、周囲に広がる。
粗相をした端女を叱責する時の比ではない。
一気にどろどろした陰の気がわきあがる。
ああ、龍仁の影響力を甘く見ていた。
彼はこんなにも妃候補たちの負の感情を引きだせる人だったのだ。
(ど、どうしよう……)
嫌だ、こんなことで怖気づきたくなんかない。
弱い自分になりたくない。
朱音が思わず妃候補たちをにらみ返しそうになった時、澄んだ娘の声が聞こえてきた。
「お待ちなさい」
声をかけたのは歩廊に残った女たちの中心にいる妃候補だった。
ゆらゆらと背に流した長い髪、どこか龍仁に似た切れ長の艶を含んだ黒い瞳。
形の良い赤い唇も、すっきり伸びた首筋も、身を飾る数々の豪奢で華やかな歩揺や簪に負けていない。
「香凜様!?」
朱音に迫っていた妃候補が、あわててふり返る。




